第5話 〈土竜の一撃〉亭 3
イオアンが小声で訊いた。
「〈アクィアの堕天使〉じゃないのか?」
「いや、男だ。入口に立って、こっちを見ている」
「知っている人間か?」
「始めて見る顔だ。近づいてくるぞ」
バルバドスは下を向いて食事を続けた。背後から足音が聞こえたイオアンは、窓の外でも眺めているように、慌てて背を向けた。
男がテーブルのそばに立った。
一心不乱に蛙のシチューを啜っていたバルバドスは、テーブルのそばから男が立ち去らないので、仕方なく迷惑そうに顔を上げた。
「何か、俺たちに用か?」
ヒトの若者だった。
中肉中背で、質素な格好をしていた。表情は暗く、どこか思いつめているような雰囲気がある。冒険者のような気楽さはない。バルバドスは(こいつは、厄介事を運んできそうなタイプだな)と思った。
「あなたは、バルバドスさんじゃありませんか?」
若者が躊躇いがちに自分の名前を口にしたので、バルバドスは驚いたが、顔に出ないよう、何げない感じで訊き返した。
「仮に、そうだったらどうなんだ?」
「助けて欲しいんです」
「助ける?」
「俺の相談にのって下さい」
「突然そうお願いされてもな……それに残念だが、俺はモンサルゲントには来たばかりだ。あんたの手助けができるとは思えん」
「分かってます」
と言うと若者は、バルバドスが座っている長椅子の隣に勝手に腰かけ、小声で話しかけてきた。
「……タタリオン領から来たんですよね?」
バルバドスは、若者の顔をまじまじと見返した。
若者が頷いた。
バルバドスは、シチューの皿を持って壁際に移り、若者から距離をとった。
「ちょっと逃げないで下さい。村長から聞きました」
と若者も、バルバドスの隣まで詰めた。
「どこの村長だよ。だいたい、お前は何者なんだ」
とバルバドスは気味悪そうに尋ねた。
「ダヴィです」
と名乗った若者は、それで通じると思っていたようだったが、相変わらずバルバドスが不審そうな顔をしているので、
「干潟の村の出身の者です。覚えてませんか?」
と続けた。
「九年前、傭兵団の一員だったあなたは、俺の村に滞在してたじゃないですか。俺はそのときの子供です」
「そんなこともあったかな……」
少し警戒心を緩めたバルバドスは、頭の中を探ったが、思い出せない。
「昔のことは忘れるようにしてるんでね」
「俺ははっきり覚えてますよ。バルバドスさんは、若い後家にちょっかいを出して、村から追い出されそうになったんです」
「ああ、エレナか!」
とバルバドスが大声をあげた。
「思い出したぞ。エレナはどうしている?」
「再婚して、子供が三人います」
「懐かしいな。そうか、お前はあの村の出身か」
「俺のこと、思い出しました?」と若者は、初めて嬉しそうな顔になった。
改めてバルバドスは、ダヴィという若者を眺めた。
引き締まった体は、漁師らしく日に焼けている。耳が隠れるぐらいの黒い髪は、ぼさぼさだ。いつも潮風にあたっているからだろう。
バルバドスの脳裏によみがえったのは、青空の下でどこまでも続く干潟の風景だった。あれは海賊退治の仕事だっただろうか? 俺も若かった。まだ二十歳そこそこで、目の前のことで精一杯だった日々――。
「悪いな」
バルバドスは笑みを浮かべた。
「お前のことは、まったく覚えていない。はっきり思い出せるのは、エレナのでかい尻だけだ」
「……それで傭兵団が去ったとき、一緒に村の若者がついていったんです。その一人が村長で、もう一人が俺の親父でした」
「ああ、それは、なんとなく覚えてるぞ」
バルバドスは遠い目になった。
「あのあと俺は傭兵団を抜けたが、あいつらはどうなったんだ?」
「結局、親父たちは村に戻ってきました」
「親父は元気か?」
「分かりません、行方不明なんです」
「行方不明?」
「村に戻ってきてから、今度は冒険者になると宣言して、また村を飛び出して、一年後に戻ってきたのは、村長だけだったんです」
冒険者ではよく聞くような話だが、行方不明の父親のことをダヴィがどう思っているかは、その表情からは読み取れなかった。悲しんでいるのか、怒っているのか、それとも憎んでいるのか――バルバドスはその件には触れずに質問を続けた。
「村長というのは、真面目だった奴のほうか?」
「はい。その村長が、バルバドスさんは、タタリオン領に向かったという話をしてくれました」
「ふむ。そういうことか」
バルバドスはシチューの皿を脇にやると、ダヴィに向き直った。
「だがな、さっきも言った通り、俺はここに来たのは数日前なんだ。残念だが、お前の役には立てないと思う」
「構いません。俺はもう、どうしたらいいのか分からなくて……」
と俯いたダヴィが、顔を上げた。
「バルバドスさん、これからする話は、ここだけにしてもらえますか?」
厄介事の臭いがぷんぷんする。ここで止めるべきか? だが、好奇心に負けたバルバドスは、口外しないとはっきり約束はせずに、
「それで?」
と優しい表情で、ダヴィを促した。
ダヴィは食堂を見回してから、小声で告げた。
「俺、タタリオン家の仕事をしてるんです」
バルバドスは驚いたが、黙って頷いた。
「そしたら、上の人間が突然いなくなって、仕事を押しつけられちゃったんです」
「やばい仕事なのか」
「危険な仕事ってわけじゃありません。密書を渡して、伝言するだけなんで」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「伝える相手が見つからないんです……」
とダヴィが泣きそうな顔になった。
「もう、この町に到着してるはずなんです。この宿屋に泊まるって聞いてたんですけど、いないんです。歩き回ったんですけど、見当たらないんです」
「その、伝える相手の名前は?」
「イオアンっていう方です。若いエルフです。あのセウ家の一族らしくて、早く見つけないと俺は……」
「見つからないと、どうなる?」
「どうなるって……」
ダヴィは怯えた表情を浮かべた。
「分かりませんけど、まずいことになるかも」
「もしや……」
バルバドスは、ダヴィの肩に手を回すと、その顔を覗き込んだ。
「やってる仕事っていうのは、タタリオン家の密偵とかじゃないだろうな?」
「ち、違いますよ。手伝ってるだけです。密偵の女がいなくなったから頼まれただけで、俺だって迷惑してるんです。密偵なんかじゃありません!」
バルバドスは、ダヴィから体を放した。
「確かに……お前は、密偵には向かなそうだな」
「え、そうですか」
「正直すぎる。お前は嘘がつけないだろう?」
「そんなことはないですよ」
「まあいい。今回の仕事は成功しそうだからな」
「それは……いったい?」
「お前は、イオアン様を見つけられるってことだ」
「ああ良かった……じゃあ、バルバドスさんは居場所を知ってるんですね!」
バルバドスは、これ以上焦らすのもどうかと思い、不自然に窓のほうを眺めてずっと背を向けているイオアンへ、顎をしゃくった。
「この方が、お前の探しているイオアン様だ」