第3話 〈土竜の一撃〉亭 1
突然立ち止まったイオアンが、後ろを振り返った。
誰もいない。
おかしい。
絶対に尾けられているはず。
足音が聞こえたし、何度か人影も目に入った。
それも、人の多い広場だと、誰かと見間違えたのかもしれないと思って、わざわざ狭い路地を選んだのだ。山の斜面をくねくねと続いている細い道で、両側には、石を積んだ背の低い民家しかない。
視界は良好だ。
天気はよく、九月の澄んだ青空からは、燦々と日差しが降り注いでいる。
だが、目に入る人影といえば、家の前で椅子に座って日向ぼっこをしている老婆だけだ。あとは、屋根の上を悠然と歩いていく黒猫。
上のほうから、子供たちの叫び声が聞こえる。麓のほうからは、カン、カンという金属を叩きつける音。他に注意を引くような音は聞こえない。田舎町の時間が止まったような午後――。
しかし、誰もいない。
もう一度モンサルゲントの町並みを見渡すと、イオアンは前を向いて、歩き始めた。
※ ※ ※
銀の山は、帝国のアクィア属州にある。
遥か昔、小高い山から豊富に採れる銀を求めて、ドワーフたちが集まり、町をつくったのだという。いまは銀鉱山は廃れたが、山の斜面は民家で覆いつくされ、アクィアでは一番大きな町になっている。
町を治めているのも、タキトゥス家というドワーフ系の一族であり、ほとんどの住民はドワーフだ。それに対して、とぼとぼ歩いているイオアンはエルフである。背は高くて痩せすぎで、色褪せたローブを纏っている若者は、晴れているのにフードを被っていた。
イオアンは、スウォン属州の州都、イグマスの生まれだった。
スウォンは、アクィアの西にある帝国属州で、タタリオン家が治めている。エルフののタタリオン家とドワーフのタキトゥス家は、十数年に渡って領地を巡って争っていた。つまりイオアンは、敵地の中を歩いているということになる。
※ ※ ※
疲れているのかもしれない――。
坂と階段しかないこの町を、朝から歩き続けたのだ。もう十分だろう。探している相手は見つからないが、手掛かりが少なすぎる。そもそも、宿で待っていればいいんじゃなかったのか?
考えながら歩いていたイオアンは、段差に躓いて、転びそうになった。
苛々してもしょうがない。目線を上げて、前向きに考えるべきだ。人の多すぎるイグマスを離れて、少しのあいだ休養しにきたと思えばいい。与えられる任務がどんなものか分からないが、無事に果たしさえすれば、いずれ戻れるだろう。
だが――、
とイオアンの視線は下がっていく。
この町で、私は上手くやっていけるのか――?
住民が、私に敵意を抱いている気がする。ちゃんと耳は隠しているが、それでも生まれついた気品が滲み出してしまうのかもしれない。しかし――いかにドワーフが執念深い性格だとしても、エルフが気に入らないというだけで、つけ回したり、危害を加えたりするだろうか。
もしや、正体がばれているのではないか?
密偵はすでに捕まっていて、口を割ったとか? そうなら、宿についた時点で私たちも捕まっていたはずだ。だとしたら、なぜ私を尾けている? 泳がせて、こちらの目的を知ろうとしているのか? 武闘派のドワーフが、そこまで賢いとは思えないのだが――。
胸に暗い予感を感じ、イオアンは自然と足早になる。ようやく〈土竜の一撃〉亭が見えときは、ホッとした。宿屋までは、さすがに入ってこないだろう。フードを脱いで、宿に入ろうとしたところで、冒険者のパーティが中から姿を現し、イオアンは反射的に顔を背け、壁を向いた。
イオアンの顔は、エルフらしく整っているが、肌は珍しく褐色である。だが、闇エルフほど濃くはない。耳までかかった銀色の髪を、ふたつにきっちり分けているので、真面目な印象を与える。
背の高いイオアンが視線を下げると、壁の貼り紙に気がついた。冒険者たちは、中にいる仲間でも待っているのか、まだ喋りながら、背後で留まっている。イオアンは貼り紙を読んでいるふりをした。
『注意! 町でアリシア様を見かけたら、ただちに近くの衛兵、または、領主館まで連絡すること!』
その下に、女の顔が描かれている。だが、水にでも濡れたのか、滲んだ似顔絵はおかしなものになっていた。目のまわりが黒く大きく縁どられ、唇は無造作に真っ赤に塗りたくられていた。
――まるで、道化師みたいだな。
イオアンは似顔絵の下、小さな文字にも目を通した。
『誹謗中傷はおやめ下さい。大変危険です。暴れていても、一人で捕まえようとはしないで下さい』
イオアンはこの貼り紙を、町で幾つも見かけたのを思い出した。イオアンの胸の高さに貼られているということは、ドワーフ向けということだろう。町を支配するタキトゥス家が出した布告なのか?
気がつくと冒険者たちはいなくなっていた。イオアンは〈土竜の一撃〉亭に、足を踏み入れた。一階の左奥、食堂全体を見渡せるいつものテーブルに、護衛のバルバドスが座っている。
バルバドスは、イオアンが食堂に入ってくるのを認めると、小さく頷き、店の主人に向かって、
「親父、いつものやつを二つ!」
と大声を張り上げた。