第2話 アリシア 2
目が覚めた。
あたりは暗く、まだ夜は明けていなかった。右手を伸ばすと冷たい岩肌に触れた。つまり、まだ同じ夢を見ているのだ――。
私は落胆しながらも、それが嘘だと分かっていた。
いままで夢の中で、自分が夢を見ていると気づいたことなど一度もない。だから――これが現実なのだ。
でも、これが現実――?
暗闇の中で私は目を開けて、天蓋ベッドの天井を見上げている。見知らぬ牢獄のような場所で、自分のベッドの中にいることが――現実?
どう考えても理解できない。
最後に覚えているのは昨日の夜、いつものように寝室でワインを飲んだということ。そもそもあれは、昨日の夜だったのかしら? もしかしたら数日間、私は目を覚まさなかったかもしれない。
少なくとも、自分からこんな牢獄に入るはずがない。誰かが私を運び込んだのだ。
いったい誰が?
そんな魔法みたいなことを?
もしかして、悪い魔法使い――?
私はいろいろ悪いことをしてきた。もしかしたら普通の魔法使いだって、罰として、私を牢獄に閉じ込めこようとするかもしれない。
そもそも、ここは牢獄じゃないのかも――。
ダンジョンの小部屋に転移させられた可能性だってある。私を嫌っている誰かが、お金を払って魔法使いに命じたのかしら? それともカディウスの敵が、妻である私を人質として閉じ込めたとか?
仰向けになっている私の目から涙が溢れた。
夢が現実になってしまった。
本当に、暗い場所に閉じ込められている。
冥界のような場所で虚しく朽ち果てていくの? 私はまだ、こんなにも若いのに――。
鼻をすすりあげていた私はぎくりとした。微かな足音のようなものが通路から聞こえてきたから。
全身に緊張が走り、息を殺して耳を澄ませる。
魔物かしら?
魔物が、私を襲いにきたのかしら?
巨大な魔物が格子扉を破って、この部屋に押し入り、ベッドのカーテンを引きちぎって、自分の上に覆い被さるところを想像した。
嫌!
そんなの嫌!
真っ青になった私は布団の中にもぐり込み、丸めた体を震わせた。
「……アリシア様」
と呼ぶ声が聞こえたような気がした。
人語を解する魔物? そんな狡猾な魔物にどうやって対処すればいいの?
「……アリシア様?」
という声がより強く聞こえた。
――あれは絶対に幻聴ではないわ。しわがれた声には聞き覚えがある。
「ステフ……なの?」
布団から顔を出した私は、おずおずと問いかけた。
「やはり、起きていらっしゃいましたか」
間違いない。あの気難しい感じの声はステフだ。いつも小言を言われているから分かる。でも魔物には、人の記憶から声を模倣できる者もいるというわ――。
私は体を起こすと、慎重にベッドの外に出て、格子扉の前に立った。
ちょうどランプの光が届かない、ぎりぎりのところに誰かが立っていた。あの小柄な人影はステフだと思う。でも顔までは見えず、確信が持てなかった。
「あなたは本当にステフなの?」
「はい……?」
「だって、顔が見えないんですもの。ねえ、もっと近くまで来て」
「それは勘弁して下さい」
「どうして?」
「扉越しに私を掴むつもりでしょう」
「そんなことしないわよ!」
「それはどうでしょう、油断は禁物です。力では敵いませんからな」
「そんなことより、ここから出して!」
「それはできません」
「できないって……鍵を持ってないの?」
「持ってはいますが、危険ですから」
「危険?」
「もちろん、アリシア様がです」
「もう、なに訳の分からないことを言ってるのよ。早く出しなさい!」
私が格子扉をガタガタと揺すったが、扉はびくともしなかった。
「無駄ですよ。今回のために、その扉は新たに作り変えましたから」
「今回のためって――」
私は唖然とした。
「まさか、あなたが私をここに閉じ込めたの?」
「……」
「答えなさい、ステフ! これは命令です!」
「……」
「怒鳴って悪かったわ、ステフ」
と私は猫撫で声を出した。
「お願い、ここから出して。私が暗いところが苦手なのは知ってるでしょ?」
「アリシア様は幾つになられました?」
「どうして、そんなことを訊くの?」
「幾つです?」
「……二十一よ」
ステフの溜息が聞こえてきた。
「だったら、もう子供みたいなことは言わないで下さい。そもそもドワーフなのに、どうして暗いところが苦手なんです」
「それは半分だけだし、とにかく牢獄なんかに閉じ込められたら、誰だろうが耐えられないわ」
「食事はちゃんとお持ちします。それに、ご自分のベッドで寝れるんですから、そこで過ごすのに何の問題もないはずです」
「何の問題もないって……そんなわけないでしょ」
私は唖然としていた。
「もしかして、あなたがベッドを運んだわけ?」
「まさか」
とステフは苦笑した。
「そんな大きなベッド、私には無理ですよ。いちど職人たちが分解して、中で組み立てたんです。それより大変だったのは、泥酔したアリシア様を運び込むことだったと、職人たちは言っておりましたが……」
「……あなた、覚悟はできているの?」
「と、言いますと?」
「殺されるわよ……カディウスに」
「いや、そんなことはないでしょうな」
とステフは平然と答えた。
「ちゃんと報告すれば、カディウス様には理解して頂けるはずです」
ステフは頭がおかしくなったのだろうか? 本気で心配し始めた私は、ゆっくりと言葉にした。
「領主の妻を攫って閉じ込めるなんて、ただじゃ済まないわ。ここがどこだか分からないけど、絶対にカディウスが見つけるはずよ」
「そうはなりません」
とステフの自信満々の声が聞こえた。
「……どうして?」
と私は探るように尋ねた。
ここから出るためには、ステフと上手く交渉するか、脱出するヒントを見つけなければならない。
「カディウス様はいま、モンサルゲントを離れておられますから」
「え、そうなの!?」
「ひと月は戻らないでしょう」
自分が治める町をひと月も離れるとはどういうこと? 領地のどこかを敵に襲われたのかしら? ただ、ステフの口ぶりからすると、少なくともここはモンサルゲントのどこかのようだった。
「ひと月したら、あの人は戻ってくるのね?」
「おそらく、ですが……」
とステフが答えた。
「残念ながら、私も詳しくお答えできないのです。カディウス様は内密にしたいと、行き先も期間も教えて頂けませんでした」
「内密って……」
私はハッとした。
「まさかカディウスは、女漁りに出かけたんじゃないでしょうね?」
「女漁りとは……」
ステフは困ったように口をつぐんだ。
「……たとえそうであっても、主人である方の行動を、そのように非難はできません。カディウス様はまだまだお若く、精力も有り余っています。それに、タキトゥス家の血を残すことも大切でしょうし」
「そのために、カディウスが私を閉じ込めたのね!」
「そうではありません」
「それで、あなたが命じられた!」
「ですから違います」
「嘘よ!」私は何度も格子扉を揺すった。
「落ち着いて下さい、アリシア様。これはすべて私が独断で決めたことです」
「本当に……?」
「ええ」
「じゃあ、どうして私を閉じ込めたの?」
「それは……」
と躊躇ったようにステフが口にした。
「……ご自分の胸に手を当てて、お考え下さい」
「……自分の胸?」
私は豊満な胸を下から支えて揺らしてみた。
「まったく分からないわ……どういうこと?」
「……鍛冶屋の件を思いだして下さい。この町の住民の安寧こそ、私が守るべきものなのです」
「……コリンね?」
「はい?」
「コリンが計画したんでしょ?」
「どうして、そういう発想になるのです」
「可愛い顔して、裏で手を引いてるんでしょ? いまカディウスと一緒なのね! あの泥棒猫め!」
「……泥棒猫とは、古い言葉をお使いになる」
とステフは苦笑した。
「アリシア様がどう考えるにせよ、あの娘はカディウス様と一緒ではありません」
「領主館に居座ってるわけ?」
「いいえ」
「じゃあ、コリンはどこにいるのよ!」
「それを訊いて、どうするのです」
「お仕置きするの。人のものを盗んじゃいけないって教えてやるのよ!」
「おやめ下さい」
「あなたに言われる筋合いはないわ。侍女の躾は私の義務です!」
「無理だと言っているのです!」
とステフも声を張り上げた。
「いまコリンは父親のところに避難させています。アリシア様がどうこうできる場所におりません」
「じゃあ……その父親はどこ?」
「ですから、お忘れ下さい」
ステフが背を向け、暗闇に立ち去ろうとしている。
「それより、タキトゥス家の奥方としてどうあるべきなのか、そこでゆっくりお考え下さい……時間はたっぷりありますから」
「ちょっと待ちなさいよ!」
「そう言えば……」
と足音が止まった。
「大事なことを訊くのを忘れておりました。お渡ししたコルセットは、いまも着けておられますか?」
「コルセット?」
私は怪訝な顔をした。
「着けてるけど、それがどうしたの?」
「それを確かめるために降りてきましたので」
「本当に痩せるんでしょうね?」
「効果は間違いありません。ただし忍耐は必要ですが。では、ごゆっくり……」
「だから、待ちなさいってば!」
足音が遠ざかり、遠くで扉が閉まる音がした。
「絶対に……」
私は格子扉の前で泣き崩れた。
「絶対に、ここから出て、コリンを……」