二日目 その五
この店は『居酒屋 春雷』といって、店主の名は、鳴神。彼女は陽炎の古くからの知り合いだが、友人でも、まして恋人でもないらしい。というか、先ほどの様子からして、鳴神は陽炎のことを目の敵にしているようにしか思えなかった。
以上が今までに狐が仕入れた情報である。陽炎の知り合いというだけで狐としては警戒度が最大限まで引き上がるのだが、先ほどまでの所業を見てしまうと、変に対抗することこそ躊躇された。今は陽炎は気絶している。四季たちが姿を消した後に、一瞬だけ抵抗するようなそぶりを見せたが、その後彼女に極めつきにと頭を蹴り飛ばされ、床に伸びて早半時といったところだろうか。熊の拘束も難なくほどいてみた男がここまでやられているのを見てしまうと、言葉を失うほかない狐であった。
そういうわけで、狐は今おとなしく店のカウンターに座って陽炎の目覚めを待っている。鳴神もまた、夜のための仕込みを始めた。手際よく贖罪の処理をしていい匂いのする料理が作られていく様を狐はぼんやりと見ていた。鳴神の後ろの棚に並ぶ酒が喉から手が出るほどにほしいが、今は町娘としているので、飲酒は出来ないし、大事な話し合いの前に寄っても困るからだ。鳴神は、狐のことについて詮索するようなことはしなかった。真意はしれない。それならばあえて教える必要もないと狐は判断し、沈黙が続いて今に至る。
もぞもぞと陽炎が動き出した。
やっと目を覚ましたようだ。
狐が体をそちらを向けた時にはすでに立ち上がっていた陽炎は鳴神のことをにらみつけていた。
「おい、ババア!何してくれるんだ!」
陽炎が叫ぶと、静かに支度をしていたはずの鳴神も即座に応戦した。
「ババアとは何だい!ほんの少し、アタシの方が少し年上ってだけでそんことをいわれる筋合いはないね。」
「いいや。その貫禄といい、今の俺からすりゃあ、お前はれっきとしたババアなんだよ。まあお前のそのふてぶてしい態度は昔からだし、今更ってのもあるだろうが。ざまあみろ。」
「いいかい。それは逆に言えばあんたはガキってことだよ。昔っからあんたはこういうときに急に幼稚になって、アタシも手を焼かされてきたもんだ。その子供みたいな負けず嫌いはいつになったら治るんだか。あんたはまったく変わらないねえ。」
「それはお前も一緒だろうが。その性格でよくもここまでやってきたもんだ。まあ、それもこれも俺のおかげなんだろうけど。」
陽炎が昔を懐かしむような声で言うと、鳴神はあきれたとでもいわんばかりにため息をついた。
「図に乗るんじゃないよ。」
いうと鳴神は止めていた手をまた動かし始めた。
「あんたのせいで、アタシは住む世界が一八〇度変わっちまったんだから。あんただよ、私をこんなにしたのは。」
「でもなんだかんだいって、お前だって結構楽しかっただろ。俺があげた人生も。」
この言葉に鳴神は反応する。斬っていた大根の頭を陽炎に投げつけた。砲撃のようには名たれた大根は、陽炎がそれを認知する前に彼の頭に直撃した。
「いってぇー!」
陽炎はごろりと足下に落ちた大根を拾い上げる。
「お前は何回俺の頭を痛めつけたら気が済むんだ。」
「ああ、間違えた。生ゴミ入れかと思ったよ。」
「誰がゴミ箱だって。」
「陽炎の脳味噌とかいう生ゴミが先にあんたの頭ん中に捨てられてたからね。」
「お前な。」
「いいかい。」
鳴神は声を張り上げていった。その威圧に思わず陽炎は言葉を飲み込む。
「あんたは現実を見な。私がここまで歩んできた道はきっかけこそあんたが作ったかもしれないけど、このアタシが歩いて作ってきたもんだ。それが楽しくても、退屈でも、それはあんたのおかげでなく、アタシのせいで成り立ってる。それをわきまえるんだね。あんたは、その道のりの道中にはこれまでも、これからも、関わらないんだから。」
言われると、陽炎は少しばつが悪そうに鳴神に向けていた視線をずらした。狐を見ると、思いついたように口を開く。
「でも、さっきお前があいつらに捕まらなかったのは俺のおかげだな。お前のとっさに出る凶暴さが世間にしれても、俺を懲らしめてるってことで見過ごされ点だから。端から見たら、お前こそ要注意人物なのに。」
「あんたが変なことをして泣きゃ、アタシはただの大和撫子でいられたってことも忘れないでほしいね。それに、アタシがあんなにちょうどよく帰ってこなければあんたは今頃お縄について、あちらさんに素性が割れていたんだから。感謝してほしいよ。お礼の一つもいったらどうだい。」
「お前はただ普段の鬱憤を解消するために何の躊躇もなく俺を痛めつけて、あの場にいた全員を凍りつけただけだろうが。」
青筋を浮かべた鳴神が包丁を構えたその時だった。
「あははっ。」
我慢できずに、狐が笑い出したのだ。
「あれは少なくとも貴様のおかげじゃあないぞ。一番役に立っていたのはこの私の演技力だろ?」
狐はどや顔で続ける。
「私が完璧に。町娘を演じきったからな。場所が場所、身分が身分なら、大女優になっていたと歌われるこの私が。」
急に、店の中が静かになった。私何か変なこと言ったか?考えて、はたと気がついた。今私、軽く自白してしまったのか。さっきまでは自分を狐と知っている陽炎と二人きりだったからいつも通りにしていてもよかったが、今は場合が違うではないか。鳴神がいる。私が狐であることを知らないなる髪がいるのだ。直接的に自分が狐だといってはいないものの、少なくとも自分が町娘でないことはいってしまった。さあどうやってごまかそうか。私の持ち前の演技力をどうやって見せつけてやろうか。
まずは相手の様子を確認しようと二人の様子を見ると、二人とも下を向いていて、顔がうかがえなかった。
そして、次の瞬間。
「何言ってるんだ、お前。」
「お嬢ちゃん、面白すぎるよ。」
二人が大笑いし始めたのだ。
「な、何がおかしいというのだ!」
「ごめんよ。でもつい我慢できなくって。」
「演技ってお前、どこがだよ。あれが演技なら、なんだ、怪しい町娘か?だとすると名演技だ。」
二人は笑いが収まる気配がない。
「わ、笑うな!」
ついそう叫んでしまったところで、狐は慌てて口を塞いだ。そうだった。今は私は町娘でないといけなくて……。
「いいんだよ。この店では普段の狐ちゃんでいていいんだから。アタシはあんたの見方だしよ。」
普段の、狐ちゃん、だと。
狐はその言葉に引っかかる。そうして急に黙り込んだからだろう。鳴神は首を少しかしげると、不思議そうにいった。
「あれ。こいつから聞いてないのかい?」
「何をだ?」
その狐の返答を見るやいなや、陽炎にこんどはカボチャがそのまま飛んだ。なんとか胸のところで受け止めはしたものの、ダメージはあったようで胸を痛そうに押さえている。その様子にあっけにとられていた狐であったが、はたと我に返ると説明を求めるかのように鳴神の方を見た。
「はあ。まったくこんな大事なことを隠しておくなんて、一体何のつもりなんだか。あのね、狐ちゃん。私は、あんたが狐ちゃんだって知っている。この男から聞いたんだ。」
「はあ!」
「もちろん、アタシはあんたのことを他のやつにばらす気はないし墓まで持って行くつもりだ。正体が割れちまった正義の味方ほど残念なものはないからね。アタシはあえて他の奴らの期待をそぐようなことはしたくない。でも、こいつは今宿無しだからね。こうして交渉の場としてここを使わせてほしいって頼まれたから、店の存続のためにもごろつきなんて連れてこられても困るし、一応、ここに連れてくる相手の素性なんかを教えてもらったのさ。」
「不公平っていうなら、こいつの素性も教えてやるぜ。こいつも元は盗賊の頭だ。といっても、山賊だけどな。」
「そういうわけだから。うちでは普段のままでいいよ。家だと思ってゆっくりしていってくれ。アタシはあんたのことを応援してるんだ。狐っていうのはてっきり男かと思っていたからさ、こんなかわいいお嬢さんだって知ってびっくりしたよ。アタシのなんかより、ずっと規模も大きくて、手柄もあげていて、尊敬する。アタシはこいつに協力するつもりはないけどさ、あんたには協力したいんだ。」
そう言われるとつい有頂天になってしまうが、そこはぐっと我慢して狐は陽炎を鬼の形相でにらみつけた。
「ま、まあまあ。そう怒るなよ。」
ことの重大さがわかっていないような陽炎の態度が、火に油を注ぎ、狐は躊躇を捨てることにした。
「貴様、どういうつもりだ。まさか、他の奴にも私のことを話したのか!」
「まさか。こいつだけだよ。」
「信じられないな。」
疑いの目をやめない狐にじりじりと詰められ後ずさりする陽炎だが、壁にたどり着いてしまうと観念したかのように両手を挙げていった。
「わかった。わかった、謝るから。安心してくれよ。こいつは、お前の正体をべらべら話すような奴じゃあない。俺が保証するよ。こいつは俺の友人の中でも、一番信頼が置ける相手なんだ。」
「誰がいつ、あんたの友人になったって?ふざけるのもいい加減にしな。あんたに保証なんてされたら、こっちの信用もがた落ちだよ。」
狐は賛同するように首をぶんぶん振った。
「あのな、私は別に、鳴神さんが他に言うってことを心配して怒っている訳ではい。いや、それはそれで重要なことではあるのだが、一番の問題は、お前が私に何も言わず、私のことを他の奴に漏していたってところだろ。私たちのことを黙っておくことと引き換えに、私が取引に応じる。そういう話だっただろうが。それを貴様は、ヌケヌケと、とっくに破っていたわけだな。」
陽炎は目を泳がせた。反抗しないということは認めたも同然だと狐は判断し、決意を固めた。
「貴様は私たちのことを知っている。それだけで私たちの優位に立っているとおもっているようだが、なめてもらっては困る。仲間の為なら殺し以外のどんなことでもやるのが狐だ。だから貴様が二度と私たちのことを口に出来ないように、極上の恐怖を感じてもらうことにした。」
「そりゃあ明暗だね。私も一枚かませてもらおうかな。」
鳴神も指を鳴らして厨房から出てきた。狐も唯一もっている武器代わりの催涙弾を取り出そうと懐を探る。袖の中を探る。裾の内側を探る。
「あれ。」
打って変わって狐は焦りだす。
「どうしたんだい、狐ちゃん。」
「な、ないんだ。」
「何がだい?」
すると、陽炎が突然胸をなで下ろすかのように息を吐いた。
「危ねえ危ねえ。」
そう言って陽炎が手の上でもてあそんでいるものこそ、狐の催涙弾だった。
「いつの間に……。」
狐が驚いていると、今度は鳴神があきれたようにため息をついた。
「あんたまだそれやっているのかい?」
「まあ、あの頃のお前に比べちゃあ、何にもとっておくべきものは持っていなかったも同然だけどな。あの頃の甘えには、本当に見習ってほしいよ。」
鳴神と陽炎が激しい口論をまた始めたので、狐は冷静にいつ催涙弾をとられたのかを考えた。そんな隙がこの私にいつあっただろう。
「あ。」
多分、着物を触られてもみ合っていたときだ。あの時どさくさに紛れてやられた可能性が高い。あんなことに動揺させられて、そんな初歩的なスリに遭うなんて修行が足りないな、と狐は静かに反省するのであった。
「そういうわけだ。さあ、取引を始めようか。」
いつの間にかカウンターに座っていた陽炎がいう。
「いやちょっとまて。その前に一つ確認させてくれ。」
「一つ?狐ちゃん、甘いよ。こいつは尋問にかけて同じことを二度とさせないようにしないと。」
「だが、こいつと長居もしたくないんだ。」
「それもそうか。アタシもこいつといると嫌でしょうがないもの。わかるよ。」
なぜか息統合する二人を見ると、陽炎は恐れのあまり縮こまるのであった。
「貴様、さっきのあれはなんのつもりでやった。着物は催涙弾の為なんだったら、髪をいじったのはなんの為だ。何を私にした。」
「本人確認だ。お前が俺の交渉相手にふさわしいかっていう。」
「この後に及んで、私が影武者だと思うのか?」
「青い髪に、首元の傷。それを持っている奴を探していた。」
「師匠から、次期狐になる予定だった私のことを聞いていたのか。」
「まあそんなとこだ。」
陽炎は投げやりにいった。
「じゃあ、取引を始めようか。」
「あんたのせいで事態がややこしくなってんだから、仕切るんじゃないよ。」
「ああ。その通りだな。そういうわけで。」
狐はいうとカウンターにもう一度座った。
「じゃあ、交渉開始といこうか。」
店の中の緊張が一気に高まる。
「まず、お前がこちらの要求をのむことの利益からいおう。一つは、お前たちの正体は俺とこいつ以外には俺からは漏さない。」
「アタシもいわないよ。」
「二つ目に、影暗一門の情報を渡す。お前、喉から手が出るほどここの情報欲しいだろ。」
やはり知られていたか、と狐は生唾を飲んだ。つけられていたなら、昨日の獣組のやりとりも知っているだろうから、当然といえば当然だ。しかし、やもりといもりの腕は信頼しているし、彼ら以上の情報をこいつは提示できるのだろうか。
「私がこの交渉を飲まなかったら?」
「もちろん、正体もアジトもすべてばらす。さっきの奴がお前らを捕まえに飛んでくるだろうよ。」
狐の頭に忌々しい四季の顔が浮かんだ。それと同時に、先ほど陽炎が四季から顔を隠すようにしていた理由がわかった。四季も陽炎の顔を知ってる。あいつとて陽炎のことは気になっているだろうから顔を見たらすぐに尋問を仕掛けてくる可能性が高い。そうなると、芋ずるしきに狐に築く可能性も高まり、交渉の場がなくなってしまう可能性があった。だから、交渉の切り札を残しておくためにも、彼は素性を隠したがっていたわけだ。頭を踏みつけて、顔を上げないように鳴神がしたのもそのためだろうか。なんとなく、単にダメージを与えやすかったからかもしれないけれど。
しかし、そこまでして交渉をしたがる理由はそれほどまでに陽炎は交渉によってえられるものを欲しているということだ。それはすなわち、彼の弱みにもつながるものなのではないだろうか。
「ここまではよくわかった。で、貴様は私に何を望む。」
「仕事を頼みたい。」
「師匠でなく、私でもいいものなのか。」
「元から、あいつに頼んでお前にやってもらおうと思っていたことなんだ。」
「は?なぜ私なのだ。」
「まあ、それは仕事内容聞けばわかるぜ。」
陽炎は少し視線を泳がせた。何か隠しているのか?
「じゃあ、聞かせてみろ。その仕事内容とやらを。」
「簡単に言うと……。」
その言葉の続に、狐は絶句した。
狐が古寺に戻った頃には、すでに社が橙色に覆われていた。いつものように走って石段を登ってきた狐であったが、それが歓喜によるものでなく、怒りによるものであることは見ればすぐにわかる。
「おかえりなさい。」
「ずいぶんとかかったな。」
「まあな。遅くなった。ただいま。」
ふくろうや熊の出迎えに応じてはいるものの、あからさまな不機嫌がにじみ出てしまっている。
「交渉は?うまくいったの?」
「狐さん、やっぱここを離れえないといけないんすか?」
仲間の知らせで急遽帰ってきたいもりとやもりが心配そうにいうと、狐は力なく笑って見せた。
「いいや、交渉はうまくいったよ。ここを離れる必要はない。いろいろと啖呵は切ったものの、私は師匠が残したこの場所で、みんなと狐として生きていくとあの日に決めたからな。」
「交渉って、具体的はどんなものだったんですか。狐さん、変なことされてないですよね。」
「私を誰だと思っている。」
「そう、ですよね。ただの老婆心で聞いてしまいました。狐さんならうまくや手くれると信じていましたよ。」
端から見て狐が怒りを隠し切れていないのと同様に、狐から見るとふくろうを筆頭に仲間たちが疲れているのがよくわかった。おそらく、心配をしてくれていたのだろう。隠れて涙を流しているものもいる。かくいうふくろうも涙の後が残っているようだった。これ以上心配はかけまいと、春雷で起こった事態を狐は伝えないことにした。
「ちゃんと話し合いをしてきた。交渉は成立。おかげで、あいつは我々のことは公言しないし、ついでに影暗一門についても教えてくれるらしい。まあ、やもりやいもりがいれば十分なんだけど」
飲むしかない、そういうとりひきだったことは仲間の誰もがわかっている。問題はその見返りが何か、ということだった。
「あちらの要求は私個人に向けたものだった。」
「お前に?何を要求してきたんだ。俺たちも手伝うぜ。」
「いや。それはいらない。あくまでも、私一人で遂行しろといわれた。仕事の内容も教えてはいけない決まりなんだ。」
「危ない仕事じゃねえよな。」
「何をいっている。この仕事に危険はつきものだろ。それに、私、逃げ足速いし。なんとか捕まらずにやり遂げてくるよ。」
狐は少しうつむくと、独り言のように津日や来始めた。
「はじめはみんなに協力してもらおうと思ったんだ。私一人が出来ることなんてたかがしれているし、限界があるからな。でもやめた。今このときだって、あいつに見られているかもしれないんだ。みんなに危害が及ぶかもしれないと思うとそんなことは出来ない。だから、さっきみたいに仕事にも就いてこないでほしい。私に、もう少しだけ任せてほしいんだ。」
熊とふくろうは目配せをする。なにか言いたげなやもりといもりを目で制して、ふくろうがいった。
「わかりました。僕たちは狐さんを信じます。」
「ありがとう。みんな。」
はけようのない怒りを抱えたままの狐は、その晩、仕事にいった。向かう先は仲間には知られていない。仲間たちの静かな視線を感じつつ、彼女は小さく行ってきますといって、古寺を後にしたのであった。