二日目 その二
宴会をした次の日は、決まって獣組の朝は遅くなる。ほとんどのものが飲み過ぎで起き上がれず、その筆頭こそ狐であった。大体はふくろうに絡みついたまま寝坊をする。だからこそ、狐の右腕としての責任感を大いに感じているふくろうは決まって、宴会では酒はたしなむ程度にし、誰よりも早く起きて見張りに付く。
が、しかし、今日は違っていた。朝焼けに照らされてふくろうが目を覚ましたとき、昨晩は自分に絡みついて寝落ちたはずの狐がいなかった。起き上がって周りを見渡してみてもいない。
ふくろうは他の者を起こさないように社を出る。なんとなく気配を感じ上を向くと、社の屋根の上、そこで考え事にふけっている様子の狐がいた。
「おはようございます、狐さん。」
声をかけると、狐は少し驚いたかのように小さく肩がはねた。
「おお。おはよ、ふくろう。」
朝焼けの中で映える狐は、とても美しかった。赤い光のせいか髪もやや紫がかったように消えて、妖艶さが増している。とても尊敬が出来て、憧れの相手である、狐。そのあまりの美しさに目を細めつつ、ふくろうは考えていた。
狐は、ふくろうの気配に気がつけないほどに集中をして考え事をしていた。明らかに、何か緊急事態が起こっている様な気がしてならなかった。
「狐さん、考え事ですか。もしかして、昨日何かあったのですか?」
すると、狐が息をのむ音がした。
「ああ。そうだ。さすがだな、ふくろうは。何でもお見通しのようだ。」
「いえ、そんな。今のは単なる勘です。」
「でもたぶん、他の奴なら昨日この私に何か悪いことでも言っちゃったのかな、からかいすぎたかもなって思うところだぞ。」
「狐さんは、そんなことで僕らを無視するほど心が狭くないのはよく知っています。あんなのはただのじゃれ、酒の肴に過ぎないって、きっと言うのでしょ。」
「やっぱりすごいな、ふくろうは。隠し事は出来ないな。もちろん、隠す気も元からなかったんだけどな。」
狐はそこまで言うと屋根から華麗に飛び降りてきた。促すようにして、ふくろうと並んで縁側に座る。
「昨日、私があのむかつく幕府の犬と対面したって言ったろ?」
「ええ。お聞きしました。」
「あのとき、あいつと一騎打ちになりかけてな。もちろん、にげるつもりだったんだが、いざ戦うぞって時に邪魔が入ったんだ。」
「邪魔、ですか。見回り組の仲間でしょうか。」
「いや。多分違う。あいつも驚いてたし。」
狐は昨晩現れた男のことを思い出す。
「ただの酔っ払い、そう見えた。」
「酔っ払い?」
「酔っ払って、千鳥足の男が、突然私たちの間に割り込んできたんだ。気配にも気がつけなかった。いつ現れたのかも、どうやってあんな状態で屋根に上ったのかもわからない。それに、あいつからはなんの悪意も感じられなかった。」
「なるほど。それはかなり気になりますね。」
「まあ、私の足にかかればあんな奴放っておけばいいのだが、でも問題はそこじゃなくて、あいつ、あったことがある気がするんだ。前に、どこかで。」
「えっ。」
ふくろうは思いがけない言葉に驚きつつ、考える。見覚えがあると言えば、かつて盗みに入ったどこかの屋敷の者だろうか。それとも、狐さんの過去に関係する……いや、きっとこれは違う。ふくろうは彼にしては珍しく、合理的な思考を放置した。それは彼や仲間屮や師匠や、そして狐本人が今までずっと大切に避けてきた者だから。心優しい彼らが守ってきたものだから。
「もしも、あいつがかつて盗みに入ったところにいた奴なら、私たちはそいつをマークしていなかったことになる。その場合、見落としてきたあれほどの手練れがほかにもいるかもしれない、ということだ。そうなら。」
「僕たちが、危ないと。それは杞憂ってものですよ、狐さん。」
ふくろうは先を読むようにして言うと微笑んだ。
「そうだぞ。」
頭上からも声が降ってくる。話し声がしたからか、いつの間にか、仲間たちも目を覚ましたらしい。
「そんな奴、俺たちがまとめてかかりゃあ、敵じゃねえ。」
「そうっすよ狐さん。」
「心配は、いらないよ。」
狐は少し涙で瞳をうるわせると、それを隠す
ように下を向いた。
「ありがとう、そうだよな。」
狐が耳を真っ赤にして言うので、どっと笑いが漏れた。
「さあ、皆さん、そういうときの為にも修行おこたらないでくださいね。」
「もちろん!」
「おうよ!」
こうして獣組の朝も始まるのであった。
事件が起こったのは、それから数時間後のことである。
珍しく、寺に参拝客が来たと見張りから連絡があり、境内でおのおのの修行や作戦会議をしていた狐たちは周りに森に姿を隠した。いつもの奉納をしにきた者かと思ったが、どうやらそれらしい者はもっておらず、旅人風情の者だという。奉行所でないならと警戒のレベルは低いが、しかし油断は出来ないと全員が固唾をのんでその来訪者の到着を待っていると、現れたのは、本当になんの変哲もない普通の男だった。本当に旅人なのだろうか。でもなぜこんなへんぴな古寺にわざわざ?よほどの物好きか?
それぞれが憶測を巡らせる中で一人、その男を見て呼吸が止まった者がいた。狐である。彼女は手早く町娘の格好に着替えると仲間の制止を振り切って、男の前に姿を現した。
「こんなところにお人が来るなんて珍らしいですね。」
狐はあくまでも初対面の町娘として男に言う。面前に立っている男は、見まごうことなく、昨晩あったあの男だった。つけられていたのか?まったく気がつかなかった。ならば、ここがあじとだとばれている可能性が高い。仲間には指一本触れさせてなるものか。男の善悪はわからないが、とにかく、盗品の寄付を願う者でないことは確かだ。まずはこの男の目的と、そして、要求を知りたかった。
「ああそうだな。用がなきゃ、こんな不便なところには来ねえな。階段もきついし。嬢ちゃんこそ、こんなところに一人で、何してるんだ?お前のような乙女がこんな人気のないところにいたら、危ねえよ。」
「ご心配ありがとうございます。しかし、私のうちは代々この社を守るように言い伝えられておりまして。ここにご参拝でしょうか。あいにくですが今お坊様はいらっしゃらないので、ご参拝なら申し訳ないですがあきらめなさってください。」
「丁寧な娘さんだ。まるで、狐にでもつままれているようだ。次は俺に団子とでも言って泥団子を差し出すのかな。」
「貴様やっぱり。」
そのとき、ふくろうの合図で一気に面をつけた仲間たちが飛び出す。男を縄でがんじがらめに縛ると、身動きがとれないように地面に熊が押しつける。
「みんな。」
「狐さん。ほらね、みんなで力を合わせれば怖いものなしです。僕たちを信じて。」
「そう、だな。」
仲間たちのことを信じていなかった訳ではない。みんなで力を合わせれば、そんなことはいつでも思っている。けれど今、ついみんなを犠牲にしたくないと飛び出してしまったのは、ほとんど反射だったと言っていい。本能が、危険だと判断した。『狐』として立ち向かわなくてはいけないと思ったからだった。だが、その理由は、狐にはわからない。
「貴様、私をつけてきたのか。」
「お前の隣にいるのが参謀。俺を踏みつけているのが武力担当。後幹部だと情報収集しているのと潜入しているのがいると思ったが、今はもう次の仕事にでも行っているのか?」
「貴様、どこで」
叫ぶ狐の口をふくろうが塞ぐ。緊張のあまりか興奮してしまっている彼女は余計なことを言いかねない。そうとっさにふくろうが判断したことを仲間は悟り、狐を含め口を紡ぐ。
「狐さんの質問に答えなかったということはつけてここまで来たってことですね。あなたの目的はなんですか。僕らを奉行所に着き出すことですか。そんなことをしても無駄ですよ。僕たちは、簡単には捕まりませんから。」
「そんなことする気はみじんもねえよ。俺に敵意がないのもわかるだろ。」
そう。問題はそこだ。この男からは、なんの悪意も感じられないのだ。
「旧友と話をしに来た。狐はどこだ。この期に及んで、まだどこかに隠れているのか。いい加減、出てこいよ。それとも、俺が老体に身を打って会うほどの相手じゃあないとでも?」
「先代は、なくなりました。」
「は?」
「先代はもうなくなっています。僕は、先代とずっと一緒にいましたが、あなたには会ったことがない。本当に、ご知り合いなんですか。」
そういうふくろうの声は心なしかとがっている。
「その利口な感じ、お前、あのとき狐に寄っかかって寝ていた坊主か?ずいぶんと成長したんだな。まあ、そりゃあそうか。」
「はい?」
「そうか。狐がもういねえならそっちの嬢ちゃんでいいや。その面からして、あいつが席譲ったのは薄々感づいていたが、いないなら代わりに嬢ちゃんでいいよ。」
男は、狐を視線で指す。
「嬢ちゃん、俺と取引をしよう。」
「取引?なんのだ。」
「それはここじゃあいえない。俺と、狐の問題だからな。場所を移して、二人きりで話がしたい。」
「悪いが断る。」
狐ははっきりとそういった。
「私は頭が弱くてな。交渉とかそう言うのには向かないんだ。それに、今木様の縄をほどくのも危険すぎる。悪いが、お前の提案は断らせてもらう。」
「そうか、残念だ。」
男は、素っ気なくそう言ったと思うと、次の瞬間、何でもないかのように立ち上がった。
「は?」
押さえ込んでいたはずの熊は気がつくと宙を舞っており、急いで着地したものの、何が起こったのかわからない。それは周りで見ていた全員が同じであった。
「不殺の掟、か。」
男は言葉を口の中で転がすように言うと、にやりと笑って、狐に向き合う。
「皆、下がれ。こいつに近づくな。」
狐が叫ぶ。再び男を縄で縛ろうとしていた熊たちも文とどまるほかなかった。
「いいだろう。」
狐はゆっくりと口を開いた。
「ついて行ってやる。取引の話、きいてやろう。」
「そりゃあ、ありがたい。けんかはしない方がいいからな。」
「狐さん!だめです!」
ふくろうは狐を制止しようとしたが、狐はその制止からにげるようにひらりと交わすと力尽くで男の腕をつかんで石段の方へ引きずっていく。
「私は、みんなのことを信じる。だから、私のことも信じてくれ。行ってきます。」
狐は短くそう言うと石段を下っていった。もちろん、仲間たちは熊を筆頭に追いかけるが、それを先回りし足止めをしたのは、ふくろうだった。
「待ってください、皆さん。僕たちも、狐さんを信じましょう。」
「あいつのことは信じてるさ。でも、あいつはただもんじゃねえ。俺はさっき、痛みはおろか、触られたことすら感じられなかった。あいつに何かあったらどうすんだ。」
「でも、今僕たちがついて行ったら、僕らは一人で十分という狐さんの判断を裏切ることになる。狐さんではあの敵にかなわないと認めることになる。」
ふくろうのその言葉からは、絶対に熊たちを先へは行かせないという強い意志がひしひしと感じられた。
「敵は、僕らをいわば人質に取った卑劣な野郎です。」
「だったら。」
「でも、狐さんは、僕たちを守る、いや、守り切ってここまで帰ってこれる自信があるからいったんです。そうでなきゃ、さようならって、言うはずなんです。」
ふくろうは声を絞りだす様にして言う。
「初めてなんですよ、狐さんが僕の言ったことに逆らうの。きっと、僕らを信じてくれているんです。だから、僕らはここで待たないと。僕だって、狐さんが心配です。でもそれもきっと、狐さんはわかっている。だからこそ、ここで狐さんを待つんです。いつもみたいに走って元気にあの人が帰ってくるから、そしたら、いっぱい文句を言ってやればいいんです。」
ふくろうは、抵抗されることを見越して七日ぎゅっと目を閉じたが、しかし、その足は断固として固定したままであった。
そんな姿を見てつい、熊は感慨にふけってしまった。熊が獣組に入った頃、すなわち、初めてふくろうにあったとき、彼は先代の狐の後ろにいつも隠れているような臆病な子供だった。熊の膝ほどしか身長はなく、ほとんど口もきけない様な子供だった。それがどうだ。相変わらず、身長は熊の脇ほどと小さいものの、危険を顧みず、仲間に自分の気持ちを隠れずに言っている。それは、狐も同じだ。おてんばなだけだったはずの少女が気がつけば大勢の命を背負うほどになった。大きくなったなんて感じてしまうのは、自分が歳をとったからだけだろうか。
「ああ。お前の言う通りだな。」
熊はかみしめるようにして言う。
「ここであいつの帰りを待とう。」
「ありがとうございます。」
ふくろうは静かに頭を下げた。