月満ちる時
病室の中で静かな呼吸の音だけが聞こえる。寝台の上に横になっているその人間は、消毒の匂いを体にまとわせて、深い眠りについていた。静かに眠る彼の横に、一人の少女が降り立つ。
「なんだ。まだ寝ているのか?」
狐はつぶやいた。彼女の頭にはもうあの面はついてない。代わりに彼女の髪は、彼女には釣り合わないような美しいかんざしでまとめられている。
「早く起きろよ。やっぱり暇ではないか。」
狐は言うと、時間を潰すかのようにうとうととうたた寝を始めた。
つい数日前のことだ。
「お帰りなさい。」
鳴神が江戸に帰ってきた。陽炎が消えた、否、帰ったことを知っても、鳴神は至って普通だった。
「そうかい。」
彼女は話を聞き終わると短くそう答えた。
「本当に身勝手な奴だねえ、あいつは。」
鳴神はあきれたようにそう言うだけだ。彼女は陽炎が帰ってもいつも通りに店を開き、普通の町人として毎日を歩き始めた。それこそが彼女に陽炎が望むことであることであることを、鳴神はよくわかっていた。狐もまた彼女を見習っていつも通りの席に座って酒をあおる。
「あいつには死ぬ以外の方法はなかったのだろうか?」
これは朧から陽炎の最後について聞いたときから思っていたことだった。覚悟はしていた。それでも、それ以外の何か打開策があるのではないかと最後の最後まで考え続けていた。
四季にも訊いたが、彼からの回答は単純明快。
「未来は変えられても、過去に起こっちまったことは帰られない。」
そんなことはわかっている。それでも……そうであったとしても……。
陽炎に見せつけてやりたかった。犠牲を出さずとも大切な人を守れる、そのことを陽炎に見せつけてやりたかった。
しかし鳴神は狐の悩みを訊いても、
「違うね。」
とただ答えた。
「死なずとも大切な人は守れる、そんなことはあいつもわかっていたと思うよ。それでも逆らえない事実と、刃向かえない現実を前にしてあいつは狐ちゃん達に希望を残したんじゃないのかな?
「希望……だと?」
狐の中でその言葉がこだまする。
「希望って……なんだ?」
「なんだろうねえ。」
鳴神はいたずらっぽく笑う。
「私には借金だけをのこしていったけどねえ。まあ、いつものことだけど。」
「え。あいつ結局払わなかったのか?
「そう。また飲み逃げされちゃった。とはいえ、狐ちゃん達にその付けを請求するってのも気が引けるし、もうあいつの飲み逃げは慣れっこだから、別にいいんだよ。だって、きっと、きっと、また金払うとかなんとか言ってあいつはただ酒を飲みに来るだろうから。」
狐は反射的に顔を伏せた。息が荒くなり、顔が青ざめる。鳴神のせいでは決してないと狐もわかっているが、それでも彼女を直視できなかった、かなわないと思った。
「大丈夫かい?」
鳴神が心配そうに言う。狐は小さくうなずいた。
「話題変えよっか。そうだ。四季くんは元気?」
「あいつか?あいつはまだ入院いる。」
「意識は?」
「ない。」
「そう。でも四季くんのことだから実は狸寝入りしているだけかも……なんてね。まあでも、あいつとやり合って入院ぐらいですんだんなら、すごいと思うけどねえ。アタシもお見舞いいこうかな。」
鳴神は自然に視線をずらした。いつも四季が座っていた席は長らく空席になっている。同様に、陽炎が座っていた席だって最後に温められたのはいつのことだっただろうか・二人はここにはいない。鳴神はすこし微笑んでうつむいたままの狐の方に視線を戻す。
「あいつのやることやることを、そんなふうに深く考えてもいいことないと思うけど。ね。」
狐はうつむいたままだ。
「あいつは四季くんやふくろうさんのように最適解を見つけるのが上手じゃないんだよ。失敗して、失敗して、そして最後まで失敗して人に迷惑ばかりをかける、そういう奴だから。まあでも、人間大体はそんな者なのかもしれないけどね。」
狐は何も言わない。
「あんた達は江戸を救った、それだけじゃあだめなのかい?あんた達はいい奴だって、悪い奴だってミサ変えなく助けてくれた。助けようとしてくれた。それはとてもすごいことだよ。私にはとても出来ない。やっぱり狐ちゃんは正義の味方なんだって、アタシは心から思ったけどね。」
狐の肩が小刻みに振るえる。
「もしかしたら狐ちゃんは、一人でも犠牲が出た時点で自分がやったことはすべて正義ではないということになってしまうノかもしれないね。でもね、絶対悪がないように、絶対正義なんてものは存在しないんだから、誰かの正義は誰かにとっての悪になり、誰かにとっての悪は誰かにとっての正義になる。正義の定義は曖昧でいいんだよ。だからこそ、自分でいいように決めつけちゃえばいいんだ。ずっと悪いことをしたってくよくよしていても、犠牲になった人に向ける顔がないじゃないか。狐ちゃんがこじつけていんだよ、正義の味方であり続ける為にも。」
鳴神はやさしく言う。
「今は泣いていいんだよ。」
狐の中で温かい者があふれた。
「届かないのなら手を伸ばせばいい。追いつけないのなら、もっと早く走ればいい。会えないのなら、会いに行けばいい。それが狐ちゃんらしいまっすぐさだよ。だから、それをしてとがめる人なんて誰もいない。行ってらっしゃい、狐ちゃん。アンタの行くべく場祖へ、さあ。」
「私は旅に出ることにした。」
狐は仲間を境内に集めるやいなやそう言った。
「なんで急に。」
「どうしたんだよ!]
ふくろうと熊が同時に叫ぶ。
「私はまだまだ未熟だ。私たちが私たちとして、私たちが獣組として生きるためには、私はここを出なくてはならなない。」
「俺たちのことを責任に思っているんなら」
「そうじゃないんだ。」
やもりの言葉を狐はさえぎるようにしていった。
「このままでは私はいつまでもみんなに依存してしまう。私一人でみんなを守らないといけなくなったとき、私は多分、人を殺してしまう。ここ数日間、私はみんなを守るためなら人を殺しても、死神を殺したっていいと、心の奥底では思っていたんだ。」
境内がざわめく。
「そんなの、誰だって思うだろ。でも、だからこそ、俺たちは互いに手を差し伸べなきゃなんねえんじゃねえのか。お前一人で俺たちを守んなきゃなんねえことなんて、本来はあり得ねえことなんだよ。」
「でもそれじゃあだめなんだ。師匠にはまだまだ遠く及ばない。家族のゴタゴタに周りの人を巻き込んで、こんなにへこたれているんだから、私はまだまだ青二才だろ?成長していないというより、弱くなっているようにも感じるんだ。だからこそ私は修行のたびに出ようと思う。もっともっといろんな者を見て、きいて、師匠のようになりたいんだ。」
狐は笑う。彼女らしい、はじけたような笑顔で。
「あなたなら、もしかすると、未来も、そして過去も変えてしまうかもしれませんね。」
ふくろうはすべてを見透かしたように言った。
「必ず、帰ってきてくださいね。」
「ああ、もちろんだ。」
狐は力強く、はっきりとした声でそう言うと、くるりと向きを変え石段に目をやった。
「たとえ未来がどう変わろうと、たとえドン運命に見舞われようとも必ず私はここに帰ってくる。」
狐は青空を見上げた。
「みんなのいるこの場所へ、必ず走って帰ってくる!」
「待ってますよ、いつまでも。あなたが帰ってくるのを、いつも通りにどんちゃん騒ぎをして待っています。」
「私がいない間この面は。」
狐は丁寧にふくろうの頭につけてやる。
「ふくろう、任せる。」
狐の判断に異論を唱える者はいなかった。
「江戸の町のことは任せてください。あなたが帰ってくるこの町を、僕らは守り続けます。だって僕らは仲間ですもん。そうですよね、みなさん。」
熊もやもりもいもりもいつも通りに笑って見せた。精一杯のはなむけを彼女に、と。
「行ってらっしゃい、狐さん。」
みんなになら任せられる。
行こう。私の行くべき場所へ。
「行ってきます!」
彼女の青い髪が流れる青空は、広く高く澄みきっていく。
「師匠。わたしは強くなれるでしょうか。あなたにも負けないような立派な頭領になれるのでしょうか?」
石段を勢いよく下り始めた彼女の頭を温かく柔らかい風がかすめていく。心地よい、朝の風だった。
「皆さん、しっかりしてくださいよ、まったく!」
狐が行ってからというもの、獣組は涙に暮れていた。といっても、泣きながら酒を飲み交わし、泥酔している者も多く、とても江戸を守るどころの騒ぎではない。
「まあまあ、いいじゃないっすか。」
なだめるようにやもりが言った。
「今は動こうにも動けないんすから。」
「そうだよ。せっかく俺たちが身をもって守ってやったってのに、あの幕府ときたら知らぬ存ぜぬと来た。結局、死神の剣もうやむやにされてさ。むしろ江戸全体の風紀の取り締まりが厳しくなっているっていうんだからやってられないよね。」
いもりもあきれたようにいうと酒をあおる。
「なあ、ふくろう。」
杯を置き、熊が言った。
「お前、こうなることわかってたんじゃないのか?」
「え?」
絡んでくる酔っ払いを押しのけて、ふくろうは熊を見上げる。
「なんですか?」
「いや、たいしたことじゃあねえんだけどお前、死神の一件が最後にはこうやって落ち着くってわかってたんじゃねえかなって。」
「まさか。」
「でも、お前ならありえねえ話じゃねえんだよ。死神の正体とか、狐の出自とか。」
「俺がきられることとか?」
「それにあの幕府の犬がきられることとかっすか?」
「お前、もしかしてあの幕府の犬がきられるようにしたんじゃねえだろうな。」
若干の心配の色をはらんでそういう熊をふくろうはくすりと笑った。
「さあ、どうでしょうね。もしかすると、皆さんも、あの幕府の犬も、死神も、狐さんも、僕の手のひらの上で転がされていただけだったりして。」
ふくろうは意地悪な笑顔を浮かべて見せた。
「嘘です、冗談ですよ。僕らを駒としてつかえるのは、この狐面の本来の持ち主、先代の狐さんだけですよ?」
彼のその笑顔は悪魔の笑顔と呼べるような者だった。
重い。
重い。
重い重い重い。
四季はゆっくりとまぶたを上げた。目に入ってくるのは、明るい満月の光。まぶしい。かけていた月が満ちるほど寝ている間に時がたったのか、と四季はため息をつく。すこしのんびり寝過ぎたか。
いや、それよりも、だ。
四季の上に横たわるようにして眠っている少女のかんざしが月光に照らされキラキラと光っている。
「ったく、どこの世界に見舞いに来て患者の上で寝る奴がいるんだよ。」
四季は小声でつぶやいた。
起きる気配のない狐を放置してなんとなく視線を動かしていると、ふと自分の枕元に自分の着物と刀が置いてあることに気がついた。刀なんて物騒な者をこんな所に置いておくことを許した馬鹿はどこのどいつだろうか。狐か、いや、局長とあの馬鹿だろうか。
だが、その着物を見て四季はつい息を飲んだ。用意された着物の中には、着慣れたあの三つ葉葵の紋がついた羽織がなかった。将軍を守る者の象徴として羽織っていたあの制服がない。それが意味することはすぐにわかった。
「行ってきます……。」
狐がそんな寝言を言う。
「行ってきますって……。」
四季は反射的にそう反芻する。そういえば、狐のいつもつけていたあの面がない。
「なるほど、な。」
四季は狐の身におきたことを察した。まさか、あのふくろうは言い様に俺を陥れたんじゃないだろうな。
「あいつ、どんだけ内の妹のことが好きなんだよ。」
四季はあきれたようにつぶやいた。
「さて、と。」
四季は体を起こす。その拍子に狐の体がごろりと寝台の上を転がる。四季としては、五体満足という訳ではないが、このくらい治っていればせめて狐とじゃれるくらいは出来るので、彼は深く傷を乙多見義腕を動かし、狐の頬をつねった。
「ん?んあ?」
狐は寝ぼけたように言った。
「お、貴様、起きたのか?」
目をこすりながら、狐は四季の顔を見上げた。
「起きたのか。じゃねえよ。誰をかばったせいでこうあってると思ってんだよ。」
「さあ。」
狐は見るからにしらばっくれて見せると、軽い動きで立ち上がり、寝台の縁にたった。
「というかてめえ、なんでここにいるんだよ。てめえ以外の奴らの気配もねえし、まさか一人でこの病院に入ってきたんじゃねえだろうな。」
「そうだ、当たり前だろ。伝説の盗賊、狐様を甘く見るなよ!」
「へえ、一人か。」
四季が悪魔の笑みを浮かべると、狐は本能的に悪寒が走った。
「なんだ!貴様、何をするつもりだ?!」
「俺が今ここで大騒ぎすりゃあ、どうせどっかで張り込んでいる見廻り組の連中がてめえを捕まえに来るだろう。言っただろ?あの剣が終わったら、てめえを捕まえてやるって。」
「ぬぬぬ!」
「さて、袋の鼠になった狐さんは一体どうやってにげるつもりなんですかい?}
四季は刀を手に取ると、左手で軽くぬいて見せた。
「で、でも、貴様のその右腕では前のように刀はつかえまい!貴様が利き腕である右腕で振る刀を避けるのなら昼飯前だが、左腕で振る刀なら朝飯前で避けられるぞ、私は。」
狐は焦って言う。
「ん?まあ、右腕は前のようにつかえやしねえが、でも別になんの支障もねえな。」
「は?」
「だって俺、両利きだから。」
「なに?」
「先生がもしもの為にって両利きに矯正してくれたんだよ。あの人もあの野郎のせいで利き腕の刀を奪われたような者だったからな。」
四季は軽く刀を振ってみせる。
「ま、右腕はてめえの頭をなでる専用にでもしようかね。」
「なぜそうなる!やめろ!私に触れるな!ちかよるな!」
「なんだよ、急に。あのときはなでても起こってなかったじゃねえか。」
「あ、あれは……ま、まあ、雰囲気だ!あいつが消えたのを見て貴様は相当飢餓参っているはずだと思っているはずだと思ったから、すこし甘やかしてやろうと思ったのだ!うん、そうだ!甘やかせてやったのだ、特別に!」
「甘やかす、ねえ。あの時俺様に頭をなでてほしいっててめえが言ってきたように感じたんだが?」
「は、はあ!?貴様なんかに頭をなでてほしいなんて思ったことは一度もない!」
「さあ、どうですかねえ?」
四季が悪魔の笑みを浮かべる。
「てめえを牢にぶち込んだ暁には、思う存分なで回してやるからな。」
「なっ。」
狐は後ずさりしようとして、寝台から落ちた。ぎりぎりで体重をなくしたために音こそ出なかったが、打ち所が悪かった腰をさすりながら立ち上がる。
「それにしても、貴様は相変わらず無様だなあ。」
「なんだよ急に。」
四季はため息をついた。
「貴様、この私を捕まえるとか何とか言っているが、貴様はもうそんな風に権力を行使することは出来ないんだぞ!ざまあみろ!」
興奮したように狐が言うと、四季は動揺もせず、ただ静かに人差し指を唇につけた。それを見た狐も慌てて口を塞いだ。やや騒ぎすぎたが、見張りが来る気配もないので狐はひとまず肩をなで下ろす。
「どうせそんなことだろうと思った。」
狐が落ち着いたのを見て、四季がつぶやいた。
「どうせあの腐った幕府のことだ。江戸の風紀を守る為とかなんとか言って、てめえら盗賊への締め付けも厳しくなってんだろ。んでもって、今回の一件は攘夷派の連中のせいにされて、うやむやに集結。俺はどうせ、処分。将軍を守った他の隊士はいいかも知んねえけど、俺見てえな用済みの人質は所詮捨てられるってことだな。まさか、死神がやったことも俺のせいにされてねえだろうな?」
「ざまあみろ、大正解だ。」
狐はなぜか偉そうに言った。
「貴様は処分どころか、死刑だそうだぞ。あの局長と隊長と屋良は昇進が認められたそうだが、貴様はあいつらとは大違いだな。まあ、でも、結局あいつらは自主的に退職してあの道場をつぐらしいけど。」
「は?本気か?あいつ、朧流じゃねえだろ。」
「貴様のを見てたから何となくはわかるそうだ。」
「それでいいのかよ……。」
「それに多分、あいつらは貴様を待っているんだよ。貴様が叱りに、いや、教えに来てくれるのを。」
「まってる、か。でも、俺は死刑なんだろ。」
四季が嫌そうに行った。彼はこの言葉が意味することをよくわかっていた。
「極秘で貴様は首をはねられるらしいぞ。つまり、貴様も相集うように死神の道まっしぐらだってことだな。」
「俺は嫌だぞ。あいつの後継げ、みてえの。てめえを捕まえようとしてんのも、人質にするつもりだろ、どうせ。」
自分はもう一人じゃない。
守りたい相手を、二度と失いたくはない。
死神として孤独に生きる道よりも、自分と同じ髪色の彼女とともに歩む道を選びたかった。
四季は狐を見て目を細めた。それに気がついたらしい狐は怪訝そうな科をした。なので四季はさらにやさしく微笑んでみせる。狐が気持ち悪そうに眉をひそめたと思うと、二人ともつい吹き出した。この馬鹿馬鹿しい日常が愛おしく感じた。
「つーか、てめえ、どうしてそんなこと失点だよ。一応極秘の処刑なんじゃねえの?」
「ふんっ。貴様のいない江戸城は前よりもずっと侵入しやすくなったからな。」
幸せだ。
今目の前にあるこの日常を先にそう感じたのはどちらだったのだろう。今までだって、決して幸せではないと思い続けていたわけでもない。それでもふと気がつくと、すぐ手の届くところに、幸せがあった。いや、すでにその幸せに飲み込まれていたといってもいいのかもしれない。
なんて楽しいのだろう。
純粋にそう思ったのだ。
「いつか死刑になるんなら、やっぱり今のうちにてめえを捕まえておかねえとな。」
「なっ。このごに及んでもそんなこと言っているのか?!」
「あたりめえだ。」
「貴様、改心したんじゃないのか?」
「改心もなにも……いいか、この際俺は幕府への忠誠とかもねえ本来の立場で言わせて貰うけど、みんなが仲良しこよしでずっと手をつないでいられる社会なんてありえねえ。絶対に手を折ってくるような奴がいるはずだ。」
「ぬぬぬ。私はそうは思わないぞ!指を折ってくる貴様の様な奴らを救ってやれば、いつかはきっと成り立つんだ、そんな世界だ。」
二人の意見ははじめと同じで、ずっと平行線のまま。互いに相容れることはない。それでいい。相容れない二人は、いつまでも反発し合うのだ。
「捕まりに来たんじゃねえのなら、なんでここに来たんだよ。」
「見舞いだ、貴様の。」
「嘘つけ。」
狐は気まずそうに目をそらした。
「別れ、というか、報告をしに来たんだ。私は修行に出ようと思う。」
四季はすこし間を置いてから答えた。
「へえ、そりゃあいい。俺も陽炎の代わりにされるぐれえならてめえについていこうかな。用心棒雇わねえか?」
「不要だ。私の敵は変態で妹が大好きな無職の男だけだからな。まあでも。」
狐は四季の方を見た。
「ついてくるかは、貴様の好きにしろ。」
狐は四季に背中を預けるように座った。
「まだ決着もつけていないからな。」
「どうせやっても勝つのはおれだけど。まあ、戦うくらいは付き合ってやる。逃げんじゃねえよ。」
「貴様こそ、にげるなよ。」
狐は窓の外の大きな満月を眺める。
「修行に行くついでに、あいつにまた会えたらいいな。」
四季は何も言わなかった。
「過去を変えることは出来なくても、過去から未来を変えることは出来るだろ。なんとかして過去に受ける方法を見つけ出して、昔に戻って、あいつが死ななくてはならない未来を変えてやるんだ。そう、私は本気で思っているんだが、これは夢物語だろうか?」
「ちげえよ、きっと。」
四季はそう静かに言った。
「あのはた迷惑な父親を助ける。てめえらしくていいんじゃねえか。面白そうだ。」
狐は笑う。
「私たちは親子同士似ているんだ。生きるのに不器用で、弱くて、どうしようもなく馬鹿で……だからこそあいつの中には死神が生まれて、にげると同時に守ろうとしたんだ。」
「まったく、嫌なところが親に似ちまったもんだ。」
「でも私には湧かすんだ。にげたい、でも、守りたい、あいつのそういう気持ちは本当によくわかるんだ。そういうのは多分、正義の裏側にあるんじゃないかと思う。だから、正義を求めれば私たちの中にもいつか死神が生まれてしまうのかもしれないな。」
狐の顔はどこか寂しげにも見えた。
「てめえの中には、死神なんて生まれねえだろ。」
「は?」
「てめえはそんなけったいなもんを生んでにげよう、なんていう賢いこと思いつかねえだろ。」
「なんだと!」
「それに、てめえの死神は、この俺だろ?
狐は嫌そうな顔をして四季を見た。
「せいぜい死神に食われねえように頑張るんだな。」
四季は狐の両頬をつかんで持ち上げた。無理矢理笑顔にさせられた狐だったが、四季の子供っぽいそのやり方に思わず笑みをこぼした。
「もし……もし……。」
「もし、じゃねえだろ。」
四季が狐の言葉を遮るようにして言う。狐は一度うつむき、兄の顔をまっすぐに見ると満面の笑顔を浮かべた。
「次にあいつに会えたら貴様はどうする?」
「んなもん、決まってるだろ。」
「だよな。」
二人は月を見上げた。夜空に浮かぶ満月はすこしまぶしすぎる。だからこそそんな月からほんの少し目をそらすように二人は互いを見合うと、声をそろえていった。
「馬鹿だって、笑ってやろう!」




