十五日目 その二
「あれ?もぬけのからだ。」
江戸城に入った死神は瞬時に気がついた。人がいるような細工はされているが、人の気配はまったく感じない。
「なるほど。ばれたね。」
さてどうしようか。このまま将軍を追いかけに行ってもいいが、それでは何か物足りない。死神はこの状況をまったくもって悲観してはいなかった。
「よくやった!」
死神は満足げに言った。
「そっかあ、そうか。ばれたかあ。いやあ、さすが我が子供達!将来が楽しみだなあ。まあ、あの子達に明日が来るかはわかんないけど。」
にやりと死神は笑う。
「水の月、今日の月はね……。」
時は大きく遡る。
かつて一人の殺し屋が将軍にかしづかえていた頃、江戸の遊郭にはそれはそれは美しい青髪の花魁がいました。たゆたえば消えてしまいそうなほどに淡く、はかなく、凍り付くような美しさを持つ彼女を、人々は水面に映る月にたとえ、あがめたのでしたーー。
水の月ははめ殺しの窓から月を見るのが好きだった。月、といっても、彼女が眺めているのは空に浮かんでいる月ではない。彼女の瞳に映っているのは、中池に映る月の像だ。本物の月を最後に見たのはいつだっただろうか。遙か昔のことだったと思う。なぜなら、軒の影にいつも隠れて姿を見せてくれない月の本来の姿を彼女はもう覚えていないから。
彼女は生まれつき恵まれた容姿を持っていた。それだけに、ここにうりとばされてきてから、外の世界に出たことはなかった。体を代償に客の話を聞き、せいぜい想像するだけで精一杯。それ以上を望むことは許せなかった。
「月が見たい。」
そう言うのはもうやめにした。こんな言葉に応えてくれる者も、耳を貸してくれる人も、いるわけがないのだから。
それなのに。
そうだったのに。
水の月は遊郭の遊女達の中でも最上位に位置していたのは確かだった。客と言えば相当な金持ちばかりで、幕府のお偉いさんは常連である。幾ら金持ちがよくても、人間の本性なんぞ所詮は醜い欲に飲まれた獣に過ぎないの。そんなことはわかっていたつもりだが、彼は、そのどちらとも違っていた。彼女の部屋を、お世辞でも金持ちとは言えない身なりをした人間離れした浪人が訪れたのは、確か新月の日だったと思う。
「よっ。」
「何か御用でしょうか。」
水の月は、突然、窓についた飾りの欄干に姿を現した男に冷静に対応した。こんなことは初めてだった。花魁である水の月の部屋は、身分を隠してお忍びでやってくる客が多いせいで人目につく通りには面していない場所にある。それだけに,彼女の部屋に忍び込もうとすればまず確実に男衆に見つかるし、そうでなくても二階にある彼女の部屋まではしごもなしに近づくのは常人には不可能なことであるはずだった。そんな奴が来たとなれば、恐怖によって店の者を呼ぶのが正しいのかもしれないが、彼女はそれをする気にすらなれなかった。自分の身に何が起ころうと、どうでもよかった。
「江戸一の女に会えるって言うから来てやったのに、お前もずいぶんと野暮なことを聞くな。それとも、客をその気にさせるための誘い文句か何かか?」
「さあどうでしょうね。」
水の月は妖艶に笑って見せた。大体の男はこうしていれば簡単に堕ちてくる。この男もそれは例外ではないようで,小さく息をのむ音がした。水の月は今だ、とすこし着物をはだけさせ男を仰ぎ見る。
「そんなところにいてもしょうがないでしょう。今度はこの邪魔な格子の内側から、私を愛でに来てはくれませんか?早くあなたに包まれたい。」
要するに金を払って出直してこい、そう暗にいたつもりだ。普通の男なら、少しでもその気を見せればまんまと言うことを聞く。しかしこの男は普通ではなかった。
「そりゃあ出来ねえ相談だな。」
男はきっぱりとそう言った。
「俺雇われで金ねえし、こんな格好じゃお前と会うことも出来ねえだろ。第一、俺は今仕事中だから。」
男はヘラリと笑って見せた。なんだ、と水の月はすこし方をすくめてみたが、これもきっと単なる旦那様へのご機嫌取りで本心ではない。いや、本心なんてとっくに失っているのだが。
「お前、売れっ子だしどうせ間夫とかいないんだろ?なら俺にちょっと付き合ってくれよ。」
「あなたはお仕事の途中なのではないんですか?こんなところで油を売っていていいのですか?」
「ここってそういう所じゃないのか?現実を忘れ、ひとときの夢に浸るための場所。だから、男を追い返すなんて野暮なこと花魁がしていいのか?」
していい。だってこの男は金を払っていないのだから。そう思っも、彼女はそれを決して態度には示さない。
「そうですね。大変失礼いたしました。」
水の月は深々と頭を下げると、あんどんの灯を消した。
「付き合え、あなたは私にそうおっしゃいましたが、一体私の何をご所望で?」
水の月は窓にすり寄ると、格子から手を出して男の手をつかんだ。慌てている様子の男にすこし愛おしむような視線を投げ、男の手で自分の着物を脱がせる。あっという間に襦袢姿になって、男の手を己の肌に滑らせたその時だった。
「おいまて。何する気だ?」
急に真剣な顔になって男が言うので、水の月は動きを止めると、男の手を自分の頬にあてがった。
「ここですることなんて、決まっているでしょ、旦那様?」
彼の手に優しく頬ずりをしてみたが、それでも彼は真剣な顔のままだ。これでは足りないとでも言うのだろうか?見るだけでなく触れるというのにまだ満足がいかないというのなら、一体何を望んでいる野だろうか。ほんの一瞬考え込んで水の月の注意が男からそれたタイミングで、彼は手を引っ込めた。
「俺は別に、お前にこういうことを望んでるんじゃねえ。それじゃあ他の男と変わらねえじゃねえか。」
「では私は何をすればいいのでしょう?
花魁がこんなことを聞いてはいけない問いのはわかっている。それでもこんな口をきいてしまったのは、少なからずこの男に引かれていたからかもしれなかった。
「花魁、お前は男を楽しませる達人なんだろ?
「ええ、まあ。」
「だったら、俺を楽しませろ。このまますこし、俺と話をしてくれないか?
「え……。」
そんなことでいいのか?せっかくここまできたのに。本来は水の月を者にするには相当な金を積まないといけないはずであるにもかかわらず、彼はそれを飛び越してここまで来たというのに。
「最初は宴会して、その後話さねえ花魁と宴会して、その後やっと、花魁と口きけるんだろ?なのに俺は、他人行儀しねえでも、ありのままの俺だけを見せて、ありのままのお前と話せる。なんて恵まれてんだろうな、俺。」
そう言った男は、無邪気に笑って見せた。
こんな人間は、初めてだ。
こんなに幼稚で、きれいな人間とここで会うのは、初めてだ。
あんどんの灯を消しておいてよかった。今自分の顔を見られたら、とんだお笑いぐさだろう。頬が熱い。こんな気持ちになったのは、今回が初めてかもしれない。こんな気持ちが自分の中にあったのか。いや、この男が勝手に空っぽなはずの私の心にこんなものを作り出したのだろうか。
「いいでしょう。」
変わった男に当てられているだけだ。水の月はそう自分に言い聞かせて、こくりとうなずいたのであった。
男は名を「陽炎」と名乗った。仕事は何かと聞いても彼ははぐらかすばかりであったが、水の月にとってもそんなことはどうでもよかった。陽炎は欄干に腰掛け月の出ていない空を眺め、水の月は月の映っていない池を眺めながら、二人は他愛もない話をする。水の月にとっても客が来るまでの仮初めの休憩デあることはよくわかっている。それだけに、彼には不思議と飾らずに接することが出来た。
「お前、ここに来て何年がたつ?」
「ざっと十五年ほどです。」
「年季はいつ開けるんだ?」
「さあ。死ぬまでここで働いても終わらないかもしれません。」
水の月は素っ気なくそう答えた。彼女の親はとんでもない額の借金を彼女に背負わせた。食い扶持を減らしたいならいっそのこと殺してくれればよかったのに、両親は彼女を質に入れる家財道具と同様に熱かった。
「お前って、廓詞とか使わないんだな。そんな遊女初めて見た。俺が客じゃないからか?」
「いいえ。これは私の意地です。」
どうせ出られないのならわざわざ言葉を換えて別の誰かに一時的になる必要もない。はじめから別の誰間なってしまう方がいい。
「それに、こちらの方が現実味があると喜んでくださることが多いのですよ。」
「ここにはどんな客が来る?」
「それは言えません。それに、旦那様といるときに他の旦那様のお話をするのは御法度でしょ。」
「そうか。」
「私が遊女みたいじゃなくてがっかりしますか?」
「いや、まさか。むしろその意志の強さには感心したな。」
「花魁に感心?おやめください、そんなこと。私たちはどれだけ高潔を装っていても結局は嬌声を上げて男を喜ばせる道具にしか過ぎないのだから。」
陽炎の肩がピクリと動いた。
「旦那様?」
「……。」
「お気を悪くするようなことを言ってしまいました。申し訳ありません。」
「あやまんな。今のは俺がわりい。あのさ。」
陽炎は言うと、ほんの少しだけ水の月の方を振り向いた。その瞳がほんの少しだけ潤んでいるように見えた。
「すまない。俺にも仕事があってな。つらくない範囲でいい。お前の過去が知りたい。」
陽炎は、本当に変な奴だった。他愛もない会話の中には水の月への探りが時々含まれていた。彼が何者か。そんなことは水の月にどうでもいいことではあったが、時々彼が見せる本来の彼にはほんのすこしだけ興味を持ってしまっていた。
初めて会った日を境に、彼は頻繁に水の月の素を訪れるようになった。彼は決まって窓の外から話しかけてくるだけだったが、それでもそのひとときを水の月が心待ちにしていたことは否みようがなかった。
「お前、ここにいて楽しい?」
ある晩、陽炎は唐突にそう聞いた。
「楽しいか、ですか?」
「気楽に答えて貰ってかまわない。でも、ちょっと気になってな。俺は今の仕事、まったく楽しくねえし、好きにもなれねえ。むしろ、大っ嫌いだ、あんなもの。自分のことは制御できなくなるし。まあ、あいつを自分と言っていいのかもわかんねえけど。」
何を言っているのかわからない、と水の月が首をひねると陽炎はすこし慌ててみせた。
「悪い、こっちの話だ。忘れてくれ。変な質問しちまった。」
「楽しいか、そう聞かれても、私には楽しい、としか答えようがありません。」
「そう、なのか?」
陽炎はほんの少し目を伏せた。彼が言わんとすることはわかる。水の月は音もなく立ち上がると、格子から手を伸ばし、陽炎の頬を両手で包み込んだ。水の月の冷たい手がレると、陽炎は他の客のように頬を赤らめまるで生娘のような反応をする。水の月はそれが面白くて、くすりとほんの少し笑った。
「そんな顔しなさらないで。ここにいる以上、当然の話なんです。」
「当然?」
「楽しい、なんていう感情は普通なにかとひかくして生まれるものでしょ。でも、私はこれ以外のことを知らないのです。今が楽しいか、なんて聞かれてもこれ以外の人生を知らないのでどうしようもないのです。それに、他人と自分を比較したって何も生まれないじゃないですか。だったら私は、自分が生きるこの今を楽しいと思っていた方が得だと考えているんです。」
笑ってそう答える水の月に陽炎はすこし驚くような顔をしたが、すぐに諦めたように笑った。
「なるほどな。俺もそういう風に思えばよかった。」
その様子を見て、水の月はぐっと陽炎の顔を自らの方に引き寄せた。陽炎の耳元に口を近づける。
「こうなってしまってはもう終わりなんです。」
「終わり?」
「この世にみれんがあるのでしょう。この世になんの未練が、憂いがなければどんなことだって楽しく思えます。」
そう言われて、陽炎の頭に浮かんだのは男勝りで勝ち気な少女の姿だった。あいつは今ごろ、ちゃんと店をやれているのだろうか。
「いま、どなたかのことを考えましたね。思っている方がいらっしゃるのですか?」
水の月に指摘され、陽炎は慌ててごまかすように首を横に振った。
「そういうお前は、未練はないのか?」
「未練は、生きている人間が抱くものでしょ。私はもう死んでますから。」
「死んで……。」
「ほらまたそんな顔をして。私を哀れまないでください。」
水の月は陽炎から離れそう気さくに言う。
「ああ、でも、死んでいる人間は未練のせいで亡霊になるのか。じゃあ、亡霊のように浮世にとどまる私に未練がないのはどうしてでしょうか。」
陽炎はうつむいたまましばらく何もいわなかった。しかし、突然顔を上げたと思うと、明るい声で答えた。
「さすがは傾国の美女さんだ。どこぞのじゃじゃ馬とは言うことが違う。」
水の月をまっすぐ捉えた陽炎の少年のような無邪気なかおから、水の月は思わず目をそらしたが、その顔は脳裏に鮮明に焼き付いた。
最後に陽炎が遊郭を訪れた晩には、彼女は大口の客を取ることになっていた。用意も早々に終え、その時を待っていたところひょっこり陽炎が現れたのである。
「申し訳ありませんが、今日はもうすぐ旦那様がいらっしゃるのです。なので」
「脱げ。」
陽炎は水の月の言葉を遮るようにして言った。あまりに冷たいその言い方に、水の月は思わず肩をふるわせる。
「あの、旦那様?」
「その豪華な着物、汚したくねえだろ。」
陽炎の冷たい目を見て、水の月はすべてを理解した。
ああ、やっとか。
水の月は緩やかな弧を唇で描くと、ゆっくりと口を開いた。
「どうぞ。お構いなく。私を殺してください。」
陽炎がまた息をのんだようだった。何を驚くことがあるのだろうか。こうなることは、とっくにわかっていたのに。
「あなたは将軍様の殺し屋さんなのでしょ?」
「どうしてそれを。」
「ここはうつつの憂いを晴らす場所ですよ。聞きたくなくても、いろいろなことをふきこまれてしまうのです。そのお陰で私はころされるのですから、恨みっこなしなんですけどね。」
水の月はクスクスわらった。
「つまり誰かさんが俺のこと言ったのか。どうせ、この後来る奴だろ。俺もこの仕事あいつに頼まれてるし。」
あいつ、そんな不敬な呼び方をするのは陽炎ぐらいだろう。水の月の大口の客とは、江戸城の主のことであった。
「さあ、私を殺してくださいな。この生き地獄から、私を早く解放してください。」
殺してくれる人を待っていた。誰もがこんな自分を生かそうとする。自分さえも、自分を殺すことをよしとしなかった。やっと現れた、自分を救ってくれる相手。もっと犬死にするのかと思っていたが、どうせ場を整えてくれたなら、最後は美しく花魁として散りたいと思った。
「あなたは剣筋がとても美しいと聞きました。是非その刀で、私の首をはねてください。それがあなたのやりかたなのでしょう?」
「俺の……まあ、そうなるか。」
ぽつり、と陽炎は言うと刀をぬいた。
ああ、やっと。
水の月は目を閉じた。もう二度とこんな残酷な世界を瞳に移したくないと思った。
それなのに。
ばらばらと畳の上に何かが落ちたと思うと、ふわり、と抱きしめられた。水の月が恐る恐る目を開けると、自分の首を貫くはずだった刀は無造作に畳の上に投げ捨てられ、血ぬれるはずの陽炎の手が、自分の体をだきしめていた。そして二人を隔てていた格子は見るも無惨に消えていた。
「旦那様?」
「お前を殺せとは言われてねえんだ。お前を、連れてこいって言われて俺はここに来た。」
「え……。」
「この後来るお前のお得意さん、お前に跡取りはらませる気なんだってよ。つーか、もうはらませたかもとかなんとか言ってて、お前を大奥に入れたいんだと。」
水の月は反射のように己の腹をなでた。陽炎の言うことはまだ好みには起こっていないはずだ。それでも、自分に降りかかる未来を考えただけで、ぞっとした。
「大奥は、あんな所は、ここよりももっときつい。あんなもん、ほぼ牢獄だ。年期もなんもねえし、外になんて本当に出られなくなっちまう。」
遊女ごときが遊郭にはいってもいい待遇を受けられるわけもない。牢獄、その言葉はまさに言い得て妙であり、水の月が置かれている状況をよく示していた。つまり将軍は、口封じの代わりに自分の基につなぎ止めてまだまだ働かせようとしているのである。
怖い。
そんな感情がいつの間にか彼女を支配していた。
「大丈夫だ。お前はまだあいつらの思い通りにはなっていない。見ていたからわかる。お前が誇り高い花魁でよかった。そして、あいつらの思い通りにも俺はさせない。」
陽炎はすまない、と小さく謝ると、水の月がまとっていた思い着物を脱がせた。目立つ髪飾りも取り払ってしまったため。彼女の美しい青髪が宙に舞う。
「これは、俺が独断でしたことだ。俺は、本来監視対象でしかなかったはずのお前の美しさに心を奪われて、ついお前を者にしようとしてしまった。お前は俺に拐かされ、好き勝手されてあげくに殺され、死体は海に捨てられた。いいな。」
陽炎はまっすぐ水の月の目を見てそう言った。状況が読めていない水の月はただ動揺を返す。しかし、そんな状況でも彼女にはわかった。彼が本当にそんなことをするような人間ではないことを。
「まさか、私を逃がすつもりですか?」
水の月は震えた声で言った。
「安心しろ。俺がうまく後はやっておくから。お前のことはきっと、殺気みたいに噂されるようになるから、大丈夫だ。みんな死んだって信じてくれる。」
「何を言っていらっしゃるのですか!そんなことをしてあなたがあの方に背いたら、あなたはきっと、殺されてしまう。」
「よくわかってるんだな、俺が置かれている状況も。」
「あなたの事情はこの前聞いてしまったんです。守りたい方がいるのでしょう。その方を危険にさらしたいんですか?あなたはその子の為に死ぬべきじゃない。私は。」
水の月はすこし言葉をきりと、陽炎が捨てた刀を手に取った。
「守る者なんて何もない私が死ねばいいだけの話なんですよ。どうせ私がどうにかなって悲しむのはげすどもだけなのですから。」
「まて、それは違う。」
陽炎は水の月の手から無理矢理刀を奪うと、腰に修めた。
「俺が、悲しいんだ。」
陽炎ははっきりとそう言った。
「あいつなら大丈夫だ。それに、大丈夫。わかってる。お前のその、助けてっていう悲鳴だって、しっかり俺は聞いてるんだぜ。」
陽炎の手が水の月の目元に触れた。添えられた人差し指の上に涙がたまっていくのを感じて初めて、水の月は自分が泣いていることに気がついた。
「あれ、私……。」
自分が、変だ。こんなこと、思うはずがない。
陽炎に、生きてほしい。
この人と、生きたい。
「お前には生きてほしい。少なくとも、この世界にはここ以上に楽しい場所が合って、楽しいことがあるってことを知ってほしいんだ。」
「出来ません。」
水の月は強くそう答えていた。
「出来る。お前は賢い。だから」
「私は体を売ること以外知らないただの遊女ですよ。見くびらないでください。私は。」
彼女は小さく息を吐いた。
「私はあなたがいないともう生きられないんです。」
水の月は言い終わらないうちに立ち上がると欄干へと向かう。
「好きです。陽炎様。私の人生をあなたにあずけてもいいですか?」
水の月は手を差し伸べた。躊躇をした陽炎ではあったが、諦めたように笑うとその手をとる。その瞬間、二人の体は外に飛び出したのであった。
気がつくと、遊郭を見下ろしていた。
こんな日が来るなんて。
水の月と陽炎は今、遊郭からすこし離れた場所の火の見櫓の上で、夜の町を見下ろしている。水の月は、眼下に広がる景色を見ることに夢中になっていた。怪しく灯る光達。自分が今まであの光の中の一つであったとは、到底思えなかった。
「下ばっか見てねえで、上でも見たらどうだ?あんまのぞいてると、おっこっちまうぞ。」
「え?」
陽炎は水の月の肩を抱き寄せると、空を見上げ水の月を促した。
「月、見てえんだろ。」
「なぜそれを」
知ってるのですか、そう水の月が言うよりも先に、陽炎が声を出した。
「知ってるぜ、そんくらい。殺し屋泣けるなよ。」
つい、水の月は吹き出してしまった。月をみたいだなんて、私は誰かに言ったことはないような気がするのだけれど。
水の月は夜空を見上げる。夜空には、月の姿はない。月は、見えなかった。
「ごめんな、せっかくの夜なのに、今日は新月なんだ。」
「もう。」
水の月はわざと頬を膨らませて見せた。
「恨みますよ。」
「おお、怖い怖い。」
陽炎が笑ったのにつられて、静かに水の月は笑った。
「まあでも、これじゃあ恨まれても仕方がないよな。許してもらえなくても当然か。」
そう言うと、陽炎は懐から何かを出し、水の月に渡した。
「これは?」
手に取ると、それはかんざしだった。それはそれは美しい、銀色のかんざし。明らかに上物であった。
「男が女を口説きに行くのに、何か持ってくるのは当たり前だろ。」
「あなたが買った物なら、の話ですけどね。まさかこれ、上様から盗ってきたんですか?」
「そんなわけない、と思う。」
陽炎はあやふやに言った。
「まあ、いいです。つけさせていただきますね。」
水の月は慣れた手つきでかんざしを挿した。その姿はまさに、天女としか言い様がなかった。
「似合ってますか?」
陽炎は、何も言えなかった。言葉で表すことも出来ないほどの美しさに、陽炎はただ言葉を失った。
遊女とは、恐ろしいものだ。
「ふふふ、無理しなくていいですよ。似合わないですよね、こんな汚れた女にこんなに美しいものは。」
「そんな訳あるか!」
陽炎は水の月の肩をつかみ叫んだ。
「そのかんざしはきっと、お前でなけりゃあ似合わねえもんだ。その、」
陽炎はすこし言葉を切ると、水の月から目をそらした。
「すげえきれいだ。言葉が出なかった。」
「なんだ。」
水の月はまた鈴が転がるような声で笑う。
「あなたってほんと、おひとよしなんですね。」
「違う、俺は心からお前がきれいだって思って。」
「私のことなんか見捨てればよかったのに。」
「そんな、そんなことするわけねえだろ。俺は誰かさんのせいで、強気の女は苦手なんだよ。」
「本当にそうでしょうか。」
水の月は妖艶に笑って見せた。
「あなたは私が言わなくても、きっと私をこうして連れ出してくれたのでしょ。それが今日に早まってしまっただけで。」
用意してあったかんざしも、新月で申し訳ないというその言葉も、すべて彼の優しさを物語っていた。
「ちげえよ。」
それでも彼は、否定をした。
「本当は、この前の満月にお前を連れ出そうとしたんだ。まあ、俺は弱えから、そんなこと出来なかったんだけど。」
陽炎はすこし顔をかいた。
「あのときのお前はまだまだ死んでいたからな。あの状態のお前を外に出したところで、本当に遊郭よりも幸せに暮らさせてやる自信もなかった。でも、お前は変わった。ずいぶんと、人間らしくなった。俺は自信を持って言える。今のお前なら、きっと外の世界で幸せに生きていけるって。」
「ふふっ。ありがとうございます。でも」
水の月は言葉を切るとそのまま体重を後ろにかけた。彼女の体は重力に従い堕ちていく。
「私はあなたを死ぬまで恨みますよ。」
「たかが月がみえなかったってだけで、俺は一生怨まれる訳か。」
陽炎はあきれたようにいいながら、先回りをして落ちてきた水の月を抱きとめた。
「私を外に出したからには、責任を追っていただかないと。」
「責任な、おもしれえ。」
陽炎は言葉をかみしめるようにして言う。
「俺は昔、一人の少女を外の世界に連れ出したんだ。でも結局、守れなかった。でも、今回はきっと違う。いや、お前を守るよ。」
「月がねえ夜空ってのはこんなに暗いんだな。」
陽炎が眺めた遊郭の法学は今では騒がしくなっている。おそらくは水の月が失踪したことが、陽炎が裏切ったことが将軍にしれたのだろう。一人の女と、単なる使い捨ての駒を必死に探す醜い男達の巣窟と化していた。
水の月は、本当に月の化身か何かなのかもしれない。他人の、男という他人の存在があってこそ輝ける存在。彼女はまさにそうだった。そして今も、彼女は陽炎という太陽を使ってまた光り輝こうとしている。彼女が反射するその艶やかな光は、陽炎を飲み込んでいく。彼女のためなら、追われる身になろうとも、たとえすべてを失ってもかまわない、そう思えた。
もしも、もしも子供が生まれたたら。
自分でなく、彼女に似てほしい。したたかで、計算高く、意地っ張りな子供ならきっとーー。
きっと、俺の中のあいつを殺してくれるかもしれないから。
「今日も新月だよ。御免ね、水の月。」
月のない夜はこんなにも暗い者だっただろうか。
「早く未練なんかなくして、楽しいって言いたいな。そうして、君の所に早く行きたいよ。」
点に近い、城主から見ても、月は姿を見せることはなかった。
それでも。
彼の目に映り込んできたのは、半分に割れた満月の影。互いのかけた部分を罵り合いながら、それでも楽しみも苦しみも二人で分け合っているような二人の姿。
「さてと。」
自分のいるこの場所に近づいてくる影を横目に死神は立ち上がる。
「最後の大仕事といきますか。」




