十四日目 その一
「おーにーいーちゃーん!」
私は大好きな兄に抱きついた。私と同じ青い髪を持ったいつもの兄ならこうすれば喜んで頭をなでて抱きしめてくれる。けんかをしても、悲しいことがあっても、母が亡くなったときも、それだけは変わらなかった。けれど、最近、兄は変わってしまった。
「ん。」
短くそう答えてはくれるが、頭をなでるどころか視線すらこちらに向けてくれなかった。あの日から、ずっとそうだ。父が家を出て行ったあの日から。
「おにいちゃーん!大好き!」
「あっそ。」
兄の返事は素っ気ない。あの日から、彼の視線はずっと扉の方に向いている。まるで誰かが来るのを待っているかのように。
「おにーちゃーん!私、お外でたい!あきたー!父上まだー!いつ帰って来るの!いつのなったらお外に出ていいの?」
父はあの日家を後にする前に、自分が帰って来るまで絶対に家を出るなと言った。しかし、私たちが住んでいたのはほんの小さな小屋。この中で何日も隠れるようにして暮らすのにも限界はあった。
「うるさい。集中できない。静かにしろ。」
「おにーちゃーん、あそぼうよー!」
「離れてろって。」
兄はあきれたように言う。
「それに、傷が開いたらどうするんだ。おとなしくしておけって。」
「ぬぬぬ。」
傷、というのはやはりあの日につけられた刀傷のことであった。兄が丁寧に処置をしてくれたお陰で今はほとんどいたくはない。というよりも、あのときの絶望する兄の顔が脳裏に焼き付いて、痛がって兄をこれ以上心配させてはいけないという気持ちの方が勝って仕舞っていたのかもしれなかった。
「おにいちゃ」
「来た。」
兄は突然、私の口を塞いだ。
「んー!んー!」
「静かに出来るか?静かに、だ。」
私がこくりと頷くと、兄は口を塞いでいた手を放した。
「父上が帰ってきたの?」
私は小さな声で兄に耳打ちした。兄は答えない。代わりに扉の方をにらみつけると、私を抱き上げた。
「わっ。」
抱っこされたのは父にして貰った以来だったので、楽しくなった私は兄に抱きついた。ふと兄の顔を見ると、彼は私を安心させるかのように優しく微笑んでいた。その微笑みを見て、背筋が凍った。
「おにい、ちゃん?」
兄がまた、あの日のようになってしまう気がした。それは嫌だ!抵抗しようとした瞬間、足入れの中に投げ込まれる。すぐに戸を閉められ、つかえ棒もされ、戸はびくともしない。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!ねえ、開けて!お兄ちゃん!」
「静かにしろ。」
兄の小さな声が押し入れの外から聞こえた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん!」
「うるせえ!黙れ!」
今度は兄は叫んだ。私は、顔から表情が消えたのを感じた。全身から力が抜け、周りの重みに押しつぶされていくようだった。
「頼むから、静かに隠れていてくれ。俺はてめえだけは守んねえといけねえんだ。また父上がきっと帰って来るこの場所を、家族を、守んねえといけねえんだ。」
兄が涙をすする音が聞こえた。兄が刀をぬく音がした。兄が息を吐く音が聞こえた。兄が、刀を肩に乗せた音が聞こえた。
「 の娘 。」
「上様も 趣味 。」
「 なら 売ればいい。」
聞き覚えのない大人の声がした。兄が扉を開ける音がした。
「お前が のガキか。もう一人は 。」
「 死んだ。」
「俺たちをだませるとでも思ってんのか?いいから水の月の娘をだせ。」
「俺に妹なんていない。」
兄は、多分笑った。兄は、多分刀をぬいた。そして、多分兄は……。
嫌だ。聞きたくない。
残酷な音がする。何かが飛び散る音がする。兄が笑う声がする。こんな音、聞きたくなかった。大好きな兄のこんな声、こんな叫びを聞きたくなかった。
私は両耳を塞いだ。
嫌だ。聞きたくない。出来ることなら、すべてを忘れてしまいたかった。すべてを忘れて、にげてしまいたかった。
しばらくして、やさしく戸が開かれた。私は眠ったふりをした。今の兄の顔はみたくないと、ただそう思った。兄は優しく私の頭をなでると、頭に一本のかんざしを挿した。それは明らかに、兄が大切にしていた母の形見だった。
「いたくないか?」
兄は、静かにつぶやく。兄には私が起きていることなんてお見通しのようだったが、彼もまた今の私に見られたくなかったのだろう。金属がさびたような匂いを漂わせながら小さな声でつぶやいた。
「俺は今から父上を探しに町の方へ行ってみる。てめえはここでまってろ。俺はあいつと違う。すぐに戻る。だから、ここにいてくれ食い物は用意した。隣の部屋の戸は絶対に開けるなよ。俺が帰ってくるまで、ここでおとなしく待っていてくれ。この形見をてめえが持っている限りあれは絶対ここに戻ってくるって、わかるだろ?」
「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんじゃないって言った。」
私は小さな声で言った。音はすぐに布団の中に吸収されていったが、頭をなでてくれていた兄の手が止まった。
「こんな人殺しが兄じゃ嫌だろ。」
「そんなことない!」
「待ってろ。俺がちゃんと父上を探して、ここに連れて帰って来るから。兄でいられなくても、てめえだけは守るから。」
そんなの、嫌だと思った。
こんなの、全部夢ならいいのにと思った。
これ以上、兄を悲しませたくないと思った。
それから、兄は出て行った。ほんの少し目を開けて見た刀一つ持って兄の姿は、ひどく弱々しく見えた。
その姿を見て、私は気がついたのだ。兄が苦しんでいるのは自分のせいだと。兄を苦しめているのは弱い自分がいるからなのだと。だから、そんな自分のことを忘れて仕舞おうと思った。妹ではなくなればいいのだと考えた。
兄がいない間、私は兄との約束を破って外に出た。大人達が私を連れ去りたいのなら、連れて行ってもらおうと思った。そっちの方が、兄の為になると思った。
そして私は、師匠に出会った。
頭をなでられてかんざしが頭から落ちようとも、私はそんなことには目もくれなかった。あれは、他人のもので、私に兄なんていない。そう自分に言い聞かせているうちに、本当に私は妹ではなくなってしまっていたらしい。
私はいつの間にか、狐になっていた。
「貴様!」
狐は勢いよく目を覚ました。ひどく頭が痛い。めまいもする。はっきりしない視界には、かろうじて社の天井と、自分を心配そうにのぞき込む青年の姿があった。
「ふく、ろう。」
「まだだめです。横になっていてください。」
ふくろうは起き上がろうとした狐をやさしく布団の中に押し戻す。
「やもりも、いもりも、まだ眠っていらっしゃいますが、命に別状はもうないようです。応急処置がよかったからです。」
狐はふくろうの言葉を聞いて胸をなで下ろした。それと同時に、自分の体に残った傷にも丁寧に包帯が巻かれていることに気がつく。
「虚幻四季。」
うっすらとした意識の中、彼が手当をしてくれたのは覚えている。そのひどく悲しげな青に怒りと、悲しみと、そしてなぜか既視感を感じたことも。
あれ。
何かが引っかかる。
やもりといもりの話を聞いて一気に意識が鮮明になったが、それと同時に今まで見ていた夢の内容がおぼろげになっている。しかし、彼はその悪夢の中に彼が出てきたような気がする。一体どんな夢を見ていたのだっけ?
「虚幻、四季。」
狐はもう一度口の中で転がすようにその名を呼んだ。その瞬間、柔らかい手が狐の口元を覆った。
「狐さん、あいつはもういません。だからもう、あいつにとらわれなくていいんですよ。」
ふくろうの口調はいつも通り、とてもやさしい者だった。しかしその奥に、隠しきれないような怒りがあることに狐が気がつかない訳もなかった。
「もう、そんな名前呼ばなくていいんです。狐さん、ずっとうなされていました。どうせあいつの夢でも見ていたのでしょう大丈夫。狐さんはもう一人じゃないんです。」
ふくろうは狐を抱きしめた。夢。あいつの?何か自分が大切なことを忘れている気がしてならなかった。
「みんなは、みんなは今どうしてるんだ。」
「皆さんは修行をなさってますよ。皆さん、狐さん達のことが心配でしょうがなくてずっと張り付いて看病をしていたんですけど、それじゃあ逆に狐さんが起きたときに不安になってしまう、申し訳ないと勘違いされては困るからいつも通りにしておきましょうって僕が言ったんです。」
「そうやってふくろうは私の看病を独占したと。さすがは策士だな。私のことがどれだけ好きなんだ。」
狐は空元気を出して言ったつもりだった。しかし、はっと狐の方を見たふくろうの目は真剣そのものだった。
「好きです。僕は狐さんがずっと、好きです。」
「えっ……。」
狐は驚いて目を丸くした者の、すぐに視線をずらして気まずそうな笑みを浮かべた。
「私を慕う必要なんてもうないぞ。」
「そんなこと。」
「私のせいで、やもりといもりは大けがを負った。私のせいで、二人は死んでしまったかもしれなかった。私は、二人を守れなかった。獣組の頭首として、これはあるまじき失敗だろ。私なんて、あいつに殺されてしまえばよかったんだ。そうしたらふくろうが頭首になって、この組は守られて、誰もけがなんてしないようになったのに。今日で頭首の座をふくろうに渡すよ。私は狐の最後らしく、どこかで野垂れ死ぬから。」
「何言ってるんですか!」
ふくろうが叫んだ。
「狐さんがお二人を守ってくれたから、お二人は今も生きているんだ。狐さんが生きて僕らの所に帰ってきてくれたから僕たちは幸せなんです。狐さんはあいつから僕たちを、僕たちの幸せを守ってくださった。頭首として、あるべき姿として。」
「でも……。」
狐は一度言葉を切ったが、少しためらって言葉を続けた。
「でも、私はにげてばかりなんだ。あいつのことを言えないぐらいに。私だって精一杯やっているんだ。精一杯、頭首としての役目を果たそうと思ってる。でも、にげているのは事実だ。私はこの日常を壊したくない。仲間を失いたくない。その結果がこれだ。自分の弱さからにげた。その結果が、この有様なんだ。」
なぜだろう。今までに自分が犯してきた失態の数々が頭の中に次々と浮かんでくる。なぜだろう。忘れたいのに。
『こんな人殺しが兄じゃ嫌だろ』
一瞬、見たことのない、しかし、懐かしい記憶のようなものが脳に入り込んできて、頭に鋭い痛みが走った。狐は思わず頭を抱える。
「毒のせいです。狐さん、無理なさらないで寝ってください。」
「でも、でも私はこのままだとまたにげることになってしまう。あいつのことも、私は。」
「あいつは、狐さんをたぶらかした極悪非道な大悪人です。あんな奴のこと、気にする必要はない。狐さんはあいつなんかよりずっと強いです。あいつは、にげるよりも前に、諦めてしまっている気がするな。もう失うものはない。そう思ってやけくそになっているような。」
「そうなの、だろうか。」
狐は少し目を伏せて言った。
「あいつは強い。暗闇にも臆せずに入っていける。まるでその先の光を見ているかのように、あいつは強いんだ。そんなあいつが、あの日は暗闇の中で迷子になっていた。光からにげるように、そうして暗闇の中をさまよっているうちに入り口も出口も見失ってしまったかのように。」
「でもあいつが狐さんや、やもりやいもりにしたことをお忘れですか?」
狐はさらにうつむいた。四季が自分たちにしてくれたことと、自分たちにやってのけたこと、どちらもを天秤にかければ、圧倒的に加えた危害の方が大きいだろう。しかし、これは天秤で量るようなものなのだろうか。今の四季を見捨てることは、頭首としてあるべき姿なのだろうか。
「虚幻四季は、僕たちを人質にあなたを脅した。あなたを意図的に危険な目に遭わせ、終始駒としてしか扱っていなかった。そんな奴、助ける必要なんてありませんよ。あいつが見せた優しさなんて、所詮は全部まやかしなのですから。あいつに、あなたへの愛情なんてほんの少しも存在していませんから。だから、だから狐さん、あなたの役目はもう終わったんです。あなたはもう、これまで通りの獣組の頭首に戻っていいんです。ずっと、僕らの所にいてください。お願いします。もうどこにも、いかないで。」
ふくろうが流した涙が狐の服を濡らした。
「僕は、狐さんが大好きです。弱くて、一人では何も出来なくて、それでも必死で、今自分に出来ることを全部やってやろうってもがくいう狐さんが、大好きです。大口ばかりたたいては僕らを笑わせ、元気づけて、勇気をくれる狐さんが大好きです。あなたに弱音は似合わない。毒のせいなのか、あいつのせいなのかわからないですけど、あなたらしくないです。」
ふくろうは叱るように言った。
「強くなくてもいい。にげていてもいいんです。明日を一人の力だけで決める必要もない。にげることだって、仲間に頼ることだって大切な作戦の一つでしょ。負けるとわかっていて、それでも意地で一人で戦って自己犠牲に持ち込もうとすうなんてのは大きな間違いなんですよ。はっきり言って迷惑です。僕らは仲間の為ににげる方がお似合いだ。それに、何でも自分一人でこなされては、こちらの立場もありませんし、寂しいので。人間、少し弱い方が愛嬌があっていいじゃないですか。」
ふくろうの言葉は、素直に狐の心に響いた。自分を認めてくれる仲間がいる。それはなによリもうれしいことだし、何事にも代えがたい大切なことだ。しかし、だからこそ甘えてしまうのだ。甘えてしまうから、私は弱いのだ。甘えは、逃げだ。逃げは、弱さだ。
正直、このままみんなに甘えたかった。
しかしそれで、仲間を守れるのか?作戦でも何でもなく、ただの逃げなのではないのか。あいつを、見捨てて、本当にいいのか。
「ふくろう、私は馬鹿だから教えてほしいんだ。あいつは、本当に私の敵なのか?あいつは本当に、私の敵でしかないのか?確証はない。だが、あいつが私の過去に関係している気がするんだ。」
『ここでおとなしくまっていてくれ。』
再び鋭い痛みとともに頭の中で誰かの声が反響する。
「ほ、ほらまた聞こえる。これは、誰の声だ。私の過去にきっと関係あるんだろ。これは、誰なんだ。これがあいつなのか?これがあいつなら、どうしてあいつが私の過去にいるんだ。あいつは、私にとってのなんなんだ。」
「敵ですよ、ただの。」
興奮している狐を落ち着かせるようにふくろうは言うと、彼らしい優しい微笑みを浮かべた。
その微笑みが引き金となった。
頭が割れるような痛みに、狐は悲鳴を上げて頭を丸め込んだ。心配してのぞき込んでくるふくろうの顔に四季の顔が重なった。その顔になぜか既視感のある少年の顔が重なる。
「貴様は、誰なんだ!」
狐はふくろうにつかみかかる。
「狐さん、落ち着いて。」
ふくろうが落ち着かせようとするが、狐は抵抗を続ける。
「狐さん、狐さん!」
明らかに毒による発作なのだ。ふくろうはなんとか狐に我を取り戻して貰おうと必死に名を呼ぶが、狐は錯乱状態に陥ったままだ。
「貴様は、貴様は一体。」
「狐さん、僕です、ふくろうです。」
「誰だ、貴様は、貴様は!」
『お兄ちゃん!』
そんな少女の叫び声が、狐の中で響いた。
「えっ……。」
狐は動きを止め固まったまま目を見開いた。その声は明らかに自分の者だったからだ。
「おにい、ちゃん……。」
「狐さん?大丈夫ですか?」
はっとふくろうの方を見ると、彼はいつものふくろうの顔に戻っていた。
「あ……ああ、大丈夫だ。毒のせいだ。」
狐はそう答えたものの、旨の動機が収まらなかった。たった六文字のその言葉を口に出した瞬間、音をたてて自分の中の壁が崩れていくようだった。
「あいつが」
「大変だ!」
社の扉が騒がしく開く。狐は言葉を止め、そちらの方向を見た。ふくろうも少し遅れてそれに続く。
「き、狐!起きたのか!」
立っていたのは熊だった。狐を見るとぱっと顔を輝かせて、走り寄ってくる。
「ああ、心配をかけた。すまない。だが、私のことは今はいいから、それで、何があったんだ。」
狐は真剣な声で言った。なぜだろうか、嫌な予感がしてたまらなかった。
「いや、お前が起きたことに比べりゃあそんなに大変なことじゃねえんだけどな。」
熊は喜びを前面に出しつつも、少し気まずそうに目をそらしていった。
「一門の屋敷が襲撃されたそうだ。」
「え……。」
「一門の奴らは全員皆殺しだそうだ。」
社が静寂に包まれた。熊はそんなことよりも狐が目を覚ました喜びをいち早く伝えたいと気を急ぎ、ふくろうは静かに目を伏せ、狐は唇をかんで絶望した。
情報を仕入れてきたのはやもりの部下達である。奉行所に潜入していた彼らが伝えた内容はいち早く獣組の中で広がっていた。狐たちに伝わる頃にはすでに、ほとんどの仲間がこの残酷な知らせを耳にしていた葉だった。あいたままの木戸からは、外での仲間達の噂話が流れ込んできていた。
「かわいそうに。」
「いくら悪党でも、そりゃあないよな。」
「死神の仕業だろ。あの男が死神だったらしいし、怖えな。」
「死神は許せねえな。うちの頭にも手を出してきたし。だが、触らぬ神にたたりなしっつうし、不干渉が一番だろ。」
「かわいそうだけど……。」
死神に将軍暗殺を依頼していた影暗一門が殺された。そうなれば、犯人としてまず浮かぶのは死神だろう。だが、今回はきっと違う。そんなことは、ふくろうは勿論、狐も直感的に感じていた。あの日の四季は、そのくらいやりかねないように思われたからだ。
「皆さん、落ち着いてください。」
静寂を破ったのはふくろうだった。社の外で噂話にかまけていた仲間達の視線が一気にふくろうに、そして、狐に集まった。
「噂話もほどほどに。狐さんが目を覚ましましたよ。」
その言葉を聞いた瞬間、一気に歓声が沸き上がった。仲間達は一気に狐たちの元へ駆け寄ってくる。いわば押しくらまんじゅう状態だ。思考にとらわれていた狐もはたと我に返ると、いつも通りの無邪気な笑顔を浮かべて見せた。辛気くさい顔などしている場合ではない、仲間を心配させてはいけないという思考が一気に狐の頭の中を埋め尽くした。
「狐さん、よかったあ。」
「もうこれ以上心配をかけないでくださいよ!」
「よかった、狐さんが、狐さんが、帰ってきてくれた!」
口々にそう言っては涙を流している仲間を見ているうちに狐の頭からは殺気までの憂いが閉め出されていった。くずれかけていた壁も見る間に元通りの姿に戻っていく。
「みんな、すまなかった。心配をかけてしまったな。これでは師匠にも、みんなにも怒られて当然だよな。もうコンガはこんな危険なことはしない。みんなの元を一人で離れたりはしない。今まで通り、いやそれ以上にみんなを守ってみせるよ!」
狐の言葉でさらに熱狂が沸き立つ。狐の顔もみるみる元通りの子供らしい物になった。素直で純粋で、まっすぐで、やさしくて、みんな、の正義の味方。それが本来の狐の姿なのだ。
「これでいいんです。」
ふくろうは誰にいうでもなくそうつぶやくと、こっそり輪の中から抜け出した。これでもう、狐は当分四季のことを考えないだろう。それでいいのだ。狐には、狐でいてほしい。傲慢だと言われてもかまわない。彼女は自分たちの正義の味方なんだ。彼女を失うわけにはいかないのだ。実際、長い付き合いの中でふくろうは学んでいた。狐は仲間の前で虚勢を張っていると、本当に復活が早い。仲間、それが彼女の原動力であることは確かだ。だからその仲間が狐を守るのは当然の話だろ。
なんて、暴論にもほどがあるか。
あの気に入らない幕府の犬のような思考をしてしまった。まあいい。どうせあいつはもう、何も言ってこれないだろうから。
ふくろうは輪の中からやもりの部下を探すとこっそり連れ出した。予想通り、彼にはまだ話したいことがあったようなので、ふくろうは隠れてほくそ笑む。
「あの幕府の犬のことですね?」
ふくろうが小さな声で問いかけると、やもりの部下は小さくうなずいた。
「あの人に何かあったのでしょ。」
「ふくろうさんはもうご存じだったんですね。このことは狐さんには?」
「言ってない。それに言うつもりもありません。」
ふくろうはにこやかに笑った。
「あの人と狐さんはもう赤の他人ですから。あえて言ってお気を煩わせる訳にはいかないでしょう。なのでその件は僕の方で処理します。さあ、狐さんにばれる前におしえてください。あの幕府の犬はどうなったのですか?」」
ふくろうとて、四季のことは敵対視しているし、憎んでいるし、嫉妬をしているが、それでも人の心は持っている。四季が負けたなら負けたでその相手の場所でも推理して漏してやるし、敵は討てずとも最低限彼が回復する為の手まわしぐらいはやってやろうと思っていた。
「行方不明なのだそうです。狐さんがやられたあの日から。」
「屯所に戻っていないと言うことですか?」
「はい。代わりに、一門の屋敷にこんなものが。」
彼が懐から出したのは血ぬれた手紙のようなものだった。ふくろうはそれを見て思わず顔をしかめる。
「これが落ちていたのは不自然に広がった血だまりの中でした。襖から畳にかけて広がっていたその血だまりの近くにしたいはなく明らかにそこにいたはずの人物が消えたようでした。そしてそこにこれと、もう一通見廻り組への手紙があったのです。」
ふくろうは言葉を失った。四季がおそらくあの場所で死神と退治したであろうことは若手いた。負けることも予測はしていた。だが、現実は大いに予想を超えてきた。大量に残された血痕も、まるで遺書のような手紙も、すべては彼の死と結びついてしまうものだった。正直、死神がここまですると思わなかった。仮にも息子である四季を殺したのか?仮にも息子である四季は死を覚悟していたのか?親子とは、そんなものなのか?
「ふくろうさん?大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。少し、驚いてしまっただけで。予想外なことが起こっていたので。」
ふくろうは思考を高速で動かしつつ、示されていた手紙を受け取った。
「その手紙はどうしますか?狐さんには。」
「見せない。僕が処分するよ。この件は危険すぎます。」
明らかに、度を超している。次に死神に合えば狐は間違いなく殺される。そして、自分たちだってーー。ふくろうは狐に心の中で謝罪しながら手紙を懐にしまった。
「あの、本当にあの男の行方はわからないんですよね?」
「はい。あの日は騒ぎがあって、そっちに人が流れていて一門の屋敷の襲撃時点から目撃者がいないんです。現場には体をずったような痕はありましたが、そもそもかなり屋敷全体が血の海と化しているので、たどるのはなんとも……。目撃証言は今のところありませんね。」
「そうですか。あの、それはつまり、死体も見つかってないってことでいいんですよね。」
ふくろうは、油断していた。四季のこと。手紙のこと。狐のこと。死神のこと。考えることが多すぎたのかもしれない。
「どういう、ことだ。」
ふくろうは動きを止めた。とても、振り向くことなんてできなかった。
彼の後ろにはいつの間にか抜け出してきたらしい狐が呆然と立っていた。




