十一日目 その四
開けた扉の隙間から入り込んできた弱々しい月の明かりが四季を照らした。雨に濡れたせいで落ちた染料の隙間から彼の髪の本来の色である青がのぞいている。もう隠すようもないと、四季はあえてそのままにしていた。
「さあ、どうぞ中へ、って俺が言うのも変ですが。」
四季はおどけてそう言うといつもの席に座った。陽炎もいつもの場所に座る。狐いないお陰で、二人の間には大きな隙間が出来ていた。
「どうやら、ふくろうはとっくに俺とあいつが兄妹であることに気がついていたみてえですぜ。」
陽炎はなんの反応も示さず、ただ静かに四季の話に耳を傾けていた。
「それにしても、あいつって何であんなにガキなんでしょうね。俺たちは双子だってのに、全然似てねえ。似てんのは髪の色ぐらいでさあ。」
「お前達は育った環境が違う。しょうがないことだろ。」
陽炎はうつむいて答えた。
「違う環境、ねえ。てめえに捨てられたあの日から、俺はてめえを追いかけて町に行ったんでさあ。あいつただ、喜ばせたかった。けれど、どれだけ探してもてめえはいない。諦めて家に帰れば、妹は人さらいにあったと聞かされ、あげく、てめえは処刑される。俺はその時のてめえや自分への恨みを忘れたことは一度もない。でも、俺はずっとその気持ちを封印してきたんだ。ガキの俺と一緒に、ずっと心の奥底に仕舞って見ないようにしてきたんだ。俺はそうやって、無理矢理『大人』になったんだ。それなのに、あいつに会ったら、そんな努力が全部水の泡になった。」
四季は少し、目を伏せた。
「あいつが昔からまったく変わっていない理由、てめえもわかってんだろ。あいつの時は、あの日に止まっちまったんだ。俺たちの帰りをまったまま、あいつの時なんてとっくに止まっちまってたんだ。」
幼い彼女は現実から逃げ、仮初めの家族に囲まれた夢の中で生きることを選んだ。冷めない夢の中でねむり続けた彼女の時計の針は、動く必要性を失ったのだ。毒の制で四季の頭の中に浮かんでくる思い出の中の彼女は、今の狐と何ら変わらない。すぐに調子に乗って大口をたたいて、強がってばかりで、寂しがり屋で、負けてばかりで、臆病で、人なつっこくて、やさしくて、かわいらしくて、愛おしい。
「俺、さっきあいつに『人殺し』って言われちまいやした。」
四季は先ほどのことを思い出すように言った。
「人殺し、なんて何度も言われてきやした。今まで、そう言われても何も感じなかった。だけど今回は、やっぱり違ったんでさあ。勿論、俺はあいつが俺のことをやっとそういう風に感じて敵と認識してくれるならそれは喜ばしいこと何でさあ。けれど、ああ言われてやっと、自分はもうとっくに守りたい者を失ったんだなって、改めて痛感した。俺にあいつを守る資格なんかねえ、あいつにはもう守ってくれる別の存在が出来たんだからそいつらに任せるべきなんだって。あわよくば昔に戻れるんじゃねえかってほんの少しだけ思っていた自分の浅はかさにやっときがついたんでさあ。」
「お前は、守る者を失ってなんかいねえよ。」
陽炎は言った。その声はあまるで、父親が息子に話しかけるような、慈愛に満ちた者のように感じられた。
「今だってお前はあいつを守ろうとしているじゃねえか。あいつにいくら嫌われようと、あいつにいくら忘れられようと、今のあいつにとってお前がたった一人の肉親であることに違いはねえし、その肉親にまで見捨てられちゃあ、あいつの末路は決まったもんだからな。」
「急に父親ぶりやがって。」
「どうとでも言え。だが、これは肝に銘じておけ。人は、何かをするために生きているんだ。逆に言うと、生きてんなら何か知ってことがあるんだろ。俺がお前らを残して消えたあの日からお前らはそれぞれの道を生きてきた。それはお前らにしてえことが会ったからだ。それは、バラバラになっちまった家族をまた一つにするためかもしんねえ。それはいつまでも帰ってこないたった一人の兄を待つためかもしれねえ。何でもいい。何でもいいそれが、この世の未練ってもんになる。死のうとしているなら、せめて未練を晴らしてからにしろ。間違っても、お前のしてえことを残して死ぬんじゃねえぞ。」
陽炎が言い終わるが早いか、突然四季はばんっと机をたたくと、勢いよく陽炎をにらみつけた。
「てめえは。」
陽炎は微動だにしない。
「てめえはこの世に未練はなかったのかよ。てめえのしてえことってなんだったんだ。そこに我が子のことは入ってなかったのか?」
その声には痛いほどの悲しみがこもっていることがわかった。いたたまれないと思いつつも、陽炎はそっと笑みをこぼした。
「さあな。今それを探している最中だからな。」
「はあ?てめえは死んでんじゃねえのかよ。」
四季は怪しむような目で陽炎を見る。
「おい、父親に死んでほしいみてえな口きくなよ。まあ、とにかく、俺はまだ死んでねえ。もうすぐ処刑されるみてえだけど。」
「どういうことだ。」
「俺は今、未練を晴らすための旅をしてんだよ。それもたちが悪いことに、時を超えて、な。」
それは十二年前のことだった。
「何見てるの?」
牢屋の小さな格子窓から夜空を眺めていた陽炎にそうのんきな声をかけたのは彼の影である。否、ただの影ではない。彼の影だった者は自我を持って陽炎の姿となって、陽炎のすぐ近くの壁にもたれかかっていた。
「お前は俺なんだから知っているだろ、何を考えているかぐらい。」
「知っていることと理解していることは違うよ。僕は君がいましているような詩的な心は理解できないから。」
「ああそうかい。」
陽炎は空に浮かんだ月を眺めていた。すっかり細くなったその月は沈みかけで減が下を向いており、まるで怒っているかのように思えた。
「怒られても当然なのにな……。」
陽炎の独り言の意味も理解できないらしい死神は軽く首をひねって陽炎の方を見ている。
まるで違う二人ではあるが、陽炎と死神は一応は同一人物である。己の運命に苦しみ、判断を恨み、生きることにもだえた結果陽炎は死神を生み出した。人を殺すことに何の躊躇も抱かない、運命を呪ったりはしない都合のいい存在が死神という名の化け物であった。
「君が死んでも僕は死なないよ。いつも言っているけど、君が殺さなければ僕は死なない。むしろ、君という枷が外れて今まで以上に暴走してしまうかもね。」
死神の制御をはじめは陽炎も出来ていた。だが、死神に飲まれる時間が長くなればなるほど、彼の意志は死神に届かなくなっていた。そもそも、今のように勝手に死神が顕われるなんてはじめはあり得なかったのだ。いつの間にか、自分が死神に操作されるようになっていることは身にしみてわかっていた。このままではいけないということも。そして、死神の言うとおり、死神を殺すことが出来ればすべてが解決すると言うことも。
「自白だけで処刑はされないからね。こんなことをしたって無意味に等しいのに。僕を他人に殺して貰おうなんていう甘えた発想は早く捨てるべきだよ。」
陽炎は死神に反論しない。その通りだ。わかっていても、自分では自分を殺せないのだ。その弱さと甘えの象徴こそ、死神だった。
「それとも、誰かの助けをここでまっているのかな?」
死神はわざと陽炎の顔をのぞき込むようにして言った。何も言わない陽炎を見て、彼はケラケラと笑った。
「実に君らしい発想だね。どこまで他人に甘えれば気が済むんだか。最初は妻に、次は子供に、最後は浅い縁でしか結ばれていないはずの仲間に。」
「それは違う。」
陽炎ははっきりとそう言った。
「残念ながら、こんな所までこんなどうしようもない人間を助けに来る馬鹿は、俺は知らねえな。」
「そうかな。君の仲良しはみんな馬鹿だと思うけど。」
「お前に何がわかるんだ。ふざけてねえでようがねえなら引っ込んでろ。」
「冷たいなあ。」
死神はわざとからかうように言った。
「俺のことは俺でかたづけねえといけねえ、そんなこと言われなくてもわかってるっつーんだ。」
そういって陽炎が思い浮かべたのは地面の息子の顔だった。いざというときのために教えた剣術の腕は陽炎をもうならせる者がある。まだ幼いのにあれほど出来れば十分すぎるほどに力をつけた彼なら、死神を、自分を、殺してくれるかもしれないとそう思った。
「なるほどねえ。だとしても、僕は全力で、いや、軽くあの子を斬るけどね。」
死神は陽炎の心を見透かして言った。
「あのさ、いい加減往生際が悪いと思わない。ただ僕を殺せばいいんだよ。そうすれば簡単に君の憂いは晴れるんだ。もしかして、君はこの期に及んで死にたくないとか言わないよね。」
「そうじゃねえ。ただ、決心がつかねえだけだ。」
「君らしい屁理屈だ。つまり、君はこの人生に未練があるってことなんだね。」
「未練?」
考えたこともなかった。だが、言われてみればその通りなのかも知れなかった。
「なら、しょうがない。君の為に、人肌脱いであげようじゃないか。」
「おい。余計あんことすんな。いいから、お前はおとなしく俺の影にでも隠れていろって。」
「君を未来へ連れて行ってあげる。」
「はあ!?」
「したいことがあるんでしょ?知りたいことも、会いたい人も。見たいものもあるんでしょ。だったらそれぜーんぶ俺がかなえてあげる。僕だってざらに化け物をやっているんじゃないんだ。んじゃあ、行くよ!」
話を聞き終えた四季はただあきれたような視線を陽炎に返した。
「それがてめえの言う未練の旅、か。」
四季はため息をつく。
「正直に言って、俺はまだてめえを疑ってます。時を超えるなんてそんなこと、あり得るんですかい?俺にはてめえが俺をだまそうとしているようにしか思えねえな。」
「お前の目の前にいるこの俺が何よりの証拠だろ。俺だって最初は疑ってたさ。いや、今もか。これはあいつが見せている幻覚なんじゃないかって今も思っている。だって今俺が目の当たりにしている江戸は、今まで俺が当たり前に思っていた江戸とはあまりにも違いすぎるからな。」
確かに、ここ数年で大きく江戸は変わった。海を渡って異国から来たとか言う連中のお陰で、しきたりは守りつつも、話す言葉も技術であっても部分的に大きく臣下市長に思える。
「信じられねえとは思っていたが、この店に来てあいつと話して、俺はそこでやっとここが自分がいた世界の十二年後の世界あることがわかったんだ。そんときにやっと俺はとっくの昔に死んでいて、死神の被害もなくなっていることを知ったんだ。」
よくもそれで正気が保てていたものだ、と四季は半ばあきれつつ陽炎の言葉に感心する。
だが一方で、疑問も生まれた。
「ちょっと待って下せえ。てめえの話だと、死神を殺せるのは手目だけなんじゃねえのか?処刑人にあっさり殺されてくれるんなら、この話ははじめからおかしくはありやせんか?」
「いいや。あいつが行ったのは、技術的にあいつを殺せんのは俺しかいねえって話だ。俺と同等、嫌、俺以上の剣技を持つ奴がいれば、そいつでも死神を殺せる。で、死んだ俺はどっかの誰かさんが処刑ってことでかたづけてくれたのかもしれないな。」
陽炎は四季の方を見た。四季は聡い。この視線の意味なんてすぐにわかった。だが、あえて視線をずらし、気がつかない振りをして受け流した。陽炎も諦めたように元の姿勢に戻る。
「というわけで、俺はそのことを聞いて安心しちまったんだよ。気がついたら、お前達に会いに行っていた。躊躇なくお前らを巻き込んでしまった。それがどれだけ危険なことなのかも気がつかずに。」
陽炎は言い終わると肝炎したような笑いを浮かべた。
その後陽炎は、死神の今までの所業について四季に話した。朧を殺したこと、いもりとやもりを傷つけ狐を害させようとしたこと、今の自分では死神の挙動を制限できないとはいえ、すべて自分の責任だと謝った。だが、四季からすると、まるで他人事の葉だと思った。悪いことをした子供の代わりに頭を下げる母親のような、まるで自分事とは思っていないようなものだ。わかっている。これこそが陽炎の弱さなのだ。彼もまたこうしていいわけをして逃げ続けてきたのだろう。
胸に沸き上がるこの感情は怒りだろうか。いや、きっとそれだけではない。怒りにつながったありとあらゆる感情が四季の中を満たした。怒り。恨み。妬み。苦しみ。嘆き。呆れ。失望。絶望。空虚。優越感。満足感。喜び。そして、わずかな心配。こんなにも自分が無責任な感情を抱くなんて驚いた。いや、それ以上に忘れていただけなのかもしれない。
四季は再度、自分の胸に言い聞かせた。
俺は化け物だ。
俺は人殺しだ。
たとえそれが身内であっても殺すことを躊躇しない。むしろ喜びすらも感じる化け物。そうであることは子供の頃から変わらないし、これからも変わらない、はずだった。本質はきっと死神と変わらない、醜い化け物なのだ。
この暗示がいつしか緩んでいたのはなぜだろう。緊張を緩ませた張本人、小柄な少女の姿がすぐに思い浮かんだ。
ずっと守りたかった妹。
ずっと会いたかった妹。
ずっと謝りたかった妹。
ずっと記憶の中で光を照らしてくれた妹。
ずっと記憶の中で待っていてくれた妹。
ずっとずっとその頭をなでてやりたかった妹。
あいつは俺の前から消えた日、無責任にも俺の中にたくさんのあいつを残していった。そのせいで、今まで一度も彼女のことを忘れたことなんてなかったし、そんなことが出来るはずもなかった。一目でも見たいのだと、毎日ガラにもなく祈っていた。
だから、あいつに出会って俺も弱くなっちまったんだ。妹を助けたいと、父親を助けてやりたいと、そんなことを思ってしまいほどに。
「俺はお前もあいつも斬りたくはない。鳴神はもう逃がした。だからお前達も速く逃げてくれないか。今の死神は本当に取り返しの訊かねえ間違いをおかしそうなんだ。だから、頼む。にげてくれ。」
陽炎は深く頭を下げた。四季の心はそれを見ても揺らぐことはなかった。
「はあ?俺はあいつじゃねえんだ。にげろ、だと?なめてんのか。今確信したぜ。やもりといもりを斬ったのは他ならぬてめえだ。死神じゃあねえ。あいつなら殺してらあ。てめえは、あいつらを餌に狐と俺を呼び出してわざと俺が狐の前で人を殺すように仕向けて、俺たちを仲違いさせようとした。俺たちをてめえに会う前の敵対状態に戻して、自分がいた痕跡を根こそぎなくそうとでもしたんだろ?」
「ばれていたか。さすがだな、本当に。そういう頭が回り過ぎちまう所は母さんによく似ている。」
四季は陽炎をにらみつけた。
「わりいが、てめえの思い通りにはさせねえよ。強えもんに屈する前に、弱えもんにh弱衣紋なりの命の散らし方ってもんがあるんだ。それに、てめえにも、死神にも俺はやっぱり恨んでも、恨んでも足りねえくらいの思いがあるんだ。精一杯悪あがきはさせて貰う。三日後だ。三日後、一門の屋敷で決闘するぞ。
三日もありゃあ浪士の大量殺人なんて騒ぎ収まっちまうだろうし、どうせ殺す連中の家なら遠慮なく暴れられるだろ。決闘は元から望んでたことだ。俺があいつの分まで斬られてやりやすよ。」
四季は刀をほんの少しぬいて見せた。
「覚悟しろよ。俺は結構しぶといぜ。」
四季の言葉を聞くと、陽炎の口元が少し笑ったように見えた。それが陽炎のものなのか、はたまた死神のものなのか、それは四季にはわからなかった。だが、そんあんことどうでもいいのもまえまた事実だ。いずれにせよ、本当の敵と殺り合える。それを考えただけで、四季もまたついえみがこぼれた。勿論、悪魔の笑みが。




