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かげろう日記  作者: 文張
26/42

九日目 その二

「じゃあ、そういうことで。」

座り直した朧は言った。

「ふぁっふぉふぁふぇ!(ちょっと待て!)」

面の下にきちんと猿ぐつわをはめられた狐は叫んだ。

「先生、狐がなんか鳴いてまさあ。」

四季はだるそうに、しかし、隠しきれない嘲笑を含んだ顔をして言った。

「なんと言っている?」

「えーっとですね。」

四季はわざとらしく腕を組むと、縄でぐるぐる巻きに縛られほとんど身動きのとれない狐の方に身を傾けた。

「ふぃふぁふぁふぁ、ふぉふぉふぃふぉふぉふぉっふぇ、ふぉふぉふぁふぁふぃふぃふぁふぃふぉふふ!(貴様ら、そろいもそろって、この私に何をする!)」

「てめえが礼儀に反したのがいけねえんだろ。」

「ふぁんふぁふぉ!(なんだと!)ふぉふぇふぁふぁふぃふふぃふぁふぉ!(これはやり過ぎだろ!)ふぉふぇふぉふぉふゃふふぃふぁふぃふぃふぇふぉふぇふぃふぃふぃふぁふぇふぇふぃふふぉふぉふぉふふぁふぁ。(これこそ客に対しての礼儀に欠けていると思うがな。)ふぉんふぉ、ふぃふぁふぁふぁふぁふぃふぁふぉふぉふぉうふぃふぁふぁ。(本当、貴様らは似たもの同士だな。)」

「そりゃあ、どうも。」

「ふぉふぇふぇふぁふぃ!(褒めてない!)」

やはり師匠に似た笑みを浮かべると、四季は朧の方に向き直った。

「私がすべて悪かった、あなたにはかなわない、だそうです。」

「おお、そうか。」

朧はわざとらしく言った。狐は反抗しようとしたが、次に朧の口から発せられた言葉を聞き、思わず声を失った。

「では、話を始めようか。お前らが知りたがっている、死神と虚幻陽炎の話を。」

狐は面の下からまじまじと四季の顔を見た。問いただしたいことはいくらでもある。なんで黙っていたのか、なんであいつもそのことを黙っていたのか。叫んで問いただしてやろうかと思ったが、それはかなわなかった。朧が話を始めたから、というのもある。だが一番は、ほんの一瞬狐に向けられた四季のその目があまりにも空虚だったから。その目の奥に、底知れない絶望や苦痛や悲しみや、諦めを感じたから。ほんの一瞬だけ見えたそれは、あっという間に消えて見えなくなってしまっている。けれども、やさしすぎる狐にとっては、その一瞬だけで彼を救いたいと思ってしまうのには十分だった。本来の四季のような物を垣間見た狐は、思わず言葉を失うしかなかった。

「俺があいつに初めて会ったのは、今からもう何十年も前の話だ。あの時、俺はのんきに隊長職についていて、攘夷派の連中の監視もかねて江戸の偵察に市中を回っていた時のことだった。」


 一人の少年が奉行所の男達に囲まれて震えていた。

「お前が犯人か。汚ねえ盗人やろうめ。」

先刻、ある大家に盗みが入った。悪名高いことで有名なその大家からは、不正な取引で得ていたと思われる高価な品々が盗まれたのだという。今も昔も、奉行所にはこの大家の方を取り締まれるような力はない。そこで白羽の矢が立つのは、やはり盗人の方だった。おびえている少年が大切そうに抱えているのは、明らかに分不相応な高価な着物。それは明らかに盗品であったが、いかにも弱々しいこの少年が盗人出ないこともまた、明らかなことだった。勿論、こんなことをした真犯人は狐、先代の狐である。彼はまだ狐としての仕事を始めたばかりであり、仕事にはまだあらが残っていた。盗んだ所まではよかったのだが、目立つ盗品をそのまま配り歩いていたのだ。着物を渡した狐がその場を後にした矢先に、少年は奉行所の連中に目をつけられたのであった。

 男達は、やっていないと否定する少年を力ずくで拘束した。それでも反抗してくる少年を静かにさせようと、男達は少年を無慈悲なしかし欲望にまみれたその目で見下ろす。

 助けてやるか。

 真犯人を知らずとも濡れ衣であることは明白な少年をかばおうと、朧が一歩足を踏み出そうとしたその時だった。

「ぐはっ。」

少年を殴ろうとしていた男が汚い声を出して倒れる。

「なんだ!」

「あがっ。」

「おい!」

朧は突然の事態に思わず身をかくして様子をうかがった。突如として現れたのは一人の青年。少年を拘束していた男達を次々に斬っていき、その身を赤で染めていく。無言で震うその刀裁きは、江戸一の剣客と呼ばれていた朧でさえも惚れ惚れとしてしまうほどに美しいものだった。最小限の動きで、最大限人を殺す。実践の中でのみ身につけられる、洗練された刀の動きだった。

「おい、そこのガキ。ぼーとしてないで早くにげるんだ。」

もう一人顕われたのは青年よりも少し年齢が下なように見える少女である。彼女も残党を斬り、枯死が抜けて動けなくなってしまっている少年の腕を無理矢理つかんで立ち上がらせた。

「逃げんのはお前も同じだ。そのガキつれて先ににげろ。」

やっと口を開いた青年は言った。

「はいはい。言われなくてもそうするに決まってんだろ。」

少女は少年を横抱きにして颯爽と屋根の上へにげていく。追いかけようとした奴はことごとく青年に斬られていった。

「俺という物がありながら、浮気とは感心できねえな。」

青年は血がついたままの刀を肩にの出ると言った。

「お前らも大変だな。塵見てえな連中の機嫌をとって尻尾を振ってなきゃなあねえなんて。あ、それとも、お前らはご褒美をもらえて満足って感じか?」

「お前、なにものだ!」

「こんなことが、人に出来るわけがない。」

騒ぎを聞きつけ集まってきた奉行所の他の連中も目の前に広がる惨状をみて思わずつぶやいた。すると青年は子供っぽく無邪気な笑みを浮かべた。

「俺がお前らの言っていた汚ねえ盗人だけど?」


 陽炎は牢の壁に寄りかかった。とはいえ、背中側にまわされたまま縄で縛られている両腕のせいで絶妙に据わりが悪く、快適とはいいがたい。それに、ついさっきまで行われていた拷問でついた傷は痛み、体中をしたたるぬるりとした血の感覚は不快以外の何物でもなかった。牢屋の鍵を無駄に丁寧に閉めると、拷問官達の足音は遠ざかっていく。陽炎は自嘲気味にため息を漏した。

 そんな様子を朧は壁に隠れて伺っていた。あの日以来、陽炎のことが頭から離れなかった。あれほどの剣技を持っている人物を野放しにしておけばいつか将軍に縦をついてきた時に厄介になるため予防線を張りに来た、というのは建前。本音は単なる好奇心だった。

 静かになったはずの彼の牢から再び話し声が聞こえてきたのはそれからすぐのことだった。

「よお。」

陽炎は牢の外に立つ男に言った。まるで妖術でも使ったかのように忽然と姿を表した男は不気味な狐面をつけていた。

「盗んだもんを貧しい奴にあげんのはいいが、そのまま渡すなよ。せめて目立ちにくい小せえもんにするか、金にしてから渡さねえと。」

すると狐は首をかしげた。

「なぜだ?」

狐は不思議そうな声で言った。

「なぜ通り過がりのお前があの子の身代わりになるんだ。掴まる段になったら、急におとなしくなったと聞いたぞ。」

「それを言う前に、お前には俺に言うことがあるんじゃねえの?」

「なに?」

そう言い返した狐だったが、すぐに何かに気がついたかのように背筋を正した。

「あの子を助けてくれて有難う。俺がふがいなかったせいだ。助かった。」

「そうだな。それでいい。」

陽炎は満足げに言った。

「なんであの子を助けたか、か。確かに俺はただの通りすがりだったし、あの子が誰なのかも知らねえが、でも、ああ言うの見ると体が勝手に動いちまうんだよ。連れには無駄なお人好しだの、面倒ごとに首を突っ込むな、だの、いろいろ言われてて、俺も直さねえといけねえことはわかってるんだけどな。この自己満足がやみつきになっちまってんのかやめられねえんだよ。あのガキが助かって、俺が縄について事件は一件落着。お前の成し遂げようとしていることの援助も出来るって。」

「そうだったのか。」

狐はかみしめるようにして言った。

「だが、人を殺すのだけはいただけないな。」

「俺はお前がどこの誰かは知らねえが、その口ぶりからして人殺しに辟易とした系の人間か?」

「ああ、そうだ。人生の少し先輩として教えてやるが、お前のやっていることがいくら人だけであっても、そのやり方ではいつか身を滅ぼすぞ。」

「ご忠告感謝するよ。案外、今回がその時だったりして。また大勢を殺しちまったし。」

「不吉なことを言うな。お前はここからいつでも出られる技量を持ってわざと捕まっているんだろ?」

「まあ、俺もなんか変わるきっかけになんねえかなって思って。」

 その時だった。

「人が来たか。」

狐のその声で、すっかり見入っていた朧は我に返った。牢の方に近づいてくる人の気配を感じた。

「どうせまた拷問だ。早く去るんだ。」

陽炎に言われても、狐は少し躊躇をしているように見えた。

「今回のことを申し訳ねえ、とか思うんなら、今度俺に会ったときにその仮を返してくれればいいから。」

「わかった。」

狐はそう短く言った。

「では、さらば。」

次の瞬間、狐の姿はどこにもなくなっていた。

 狐が消えたのとちょうど入れ違いになって牢の前に立ったのは役人達だった。

「おやおや。今度はお偉いさん達が俺の担当ですか?」

陽炎は冷やかすように言った。

「私語は慎め。黙ってついてこい。」

役人達は厳戒態勢の元陽炎を牢から出す。その縄を握っている顔に朧は見覚えがあった。役人達が自分に気がつかずに前を横切ろうとしたその時を狙って、朧は声をかけた。

「局長。」

「おお、朧隊長か。」

当時の局長は驚いた様に言った。

「ちょっと奉行所の方に顔を出そうと思ったら局長が牢の方に行くのが見えたんで、ついてきてしまいました。この男に何か用があるんですか?」

「上様がこの罪人を呼べとおっしゃってな。」

「上様が?」

「ああ、なんでも……。」

「おい、余計に口外するなと言われているだろ。」

役人の一人が局長に言った。

「ああ、そうだった。そういうわけだ。これ以上ははなせねえ。朧も俺がいない分早く仕事に戻れ。頼んだぞ。」

「そう、ですか。ならしょうがない。わかりました。」

内心では余計なことを言いやがってと悪態をつきつつ、当時まだ若かった朧は身を引くしかなかった。これ以上の詮索は不可能かと諦め、チラリと陽炎の方を見ると、陽炎も朧のことを見ていたようで、はかったように目が合った。ほんの一瞬のことだったが、朧はその瞬間、陽炎の顔を記憶にしっかりと刻み込むことになった。おとなしく役人に連れられていった陽炎が牢に戻るのは何十年も先のことになる。


「俺が再びあの男に会ったのは、ちょうど今から十三年前のことだった。」

 ことの発端は、見廻り組に届いた一通の手紙であった。内容は、死神が将軍暗殺を企てている、とただそれだけ。差出人の名もなくいたずらな可能性も十分あったが、それにしてはたちが悪いと厳戒態勢の元で捜査が始まった。

「死神、なんて殺し屋のこと誰も知らなかったと思うぜ。ただ、その手紙の後、本当に死に神が現れたかのように、ある屋敷でバタバタと人が死んでいった。まさか死神があそこまで働き者だとは思わなかったよ。」

四季と狐はただ黙って朧の話に耳を傾ける。

「とはいえ、おかげさまで死神をかくまっている連中のことはすぐにわかったんだ。なにせ、ほんの数日で全滅したからな。そうなったからには死神はいよいよ本丸に乗り込んで来るだろうと思った。そして、この予測は大当たりだったわけだ。だが、死神の見立てについては大外れもいいところだったが。」

朧は当時の自分を嘲るように笑った。

「あいつは突然現れた。俺の周りにいた隊士達が次々に斬られて死んでいくんだ。下手人がどこにいるのかもわからないままに、肩を斬られ刀を落とし、その場に倒れた。死を覚悟した、あのときだけはな。死神が俺を呼んでいるって。だが、俺は殺されなかった。なぜだと思う?」

朧は狐に問いかけた用だったが、彼女が答える前に答えを言った。

「陽炎が、あいつが俺たちを助けに来たんだ。いや、本人はそうは思ってねえかもしれねえが、ふらりとあいつが突然現れたと思ったら、死神の姿はもうそこにはなかった。消えたんだよ、俺も殺さずに。あの死神が。」

 それからしばらくして、陽炎と名乗る男がまた牢に入れられているということを朧は耳にした。人を殺した、と自首をしたらしい。彼の証言にあう死体も見つかり、彼の罪は明確であった。あの日以来死神は勿論、陽炎にも会えずにいた朧は急いで奉行所に向かった。どうしてあの日助けてくれたのか、どうしてあの死神は消えたのか。その答えを問いただすために、仕事を投げてまで急いで陽炎の元へ向かった。

「だが、俺は間に合わなかったんだ。俺が言ったときにはもうあいつは。」

強い風が道場を通り過ぎるようにして吹いた。朧の言葉の最後は、風達がさらって言ったが、言われなくともどんな言葉が続くのかは分かりきったことだった。

「俺の話は以上だ。よく最後まで聞けたな、四季。」

「まあガキじゃねえんだ、俺はもう。」

「いや。お前はいつまでもガキだって。」

ここまで話したところで、狐はもごもごと声をあげ四季を呼んだ。四季はいい加減狐の猿ぐつわを外してやる。

「死神っていたんだな。」

「は?てめえ、信じてなかったのか?」

「そういうわけではないが……だが、なんかこう人間が勝手に生み出した恐怖の化身、みたいなものかもしれないとも思っていたんだ。」

「馬鹿だな。先生はあいつにやられたって言っただろ。」

「それはそうなんだが。」

「いいや、案外狐の言っていることもあっているかもしれないぞ。」

朧が言った。

「あれは人ではない。あいつに俺は刀を振るったさ。だが、常に空を斬っていた。あいつに刀は届かねえ。あいつはどこにもいなくて、そして、そこにでもいたのかも知んねえな。」

「先生にしてはずいぶんと曖昧な言い方ですね。人間業とは思えないほど強いってことですかい?」

「そうじゃない。あいつは、本当に人じゃないんだ。お前らもあいつらとやりあえばわかるさ。」

四季は満足がいかないようだったが、それ以上言い返すことはなかった。

「ほら私が言った通りだろ?貴様は間違いを認めるべきだ。いでっ。」

四季は狐を遠くに転がした。

「俺は死に神とやり合って、将軍暗殺を防いだって言う功績で局長になった。隊士も多く犠牲になったが、その責任は問われなかった。だからそのせいで、俺は陽炎について公に出来るすべを失った。」

情報操作。そんなものは、あまりにもありふれた行為だ。死神のことも、陽炎のことも、都合の悪い多くの事柄は抹殺された。朧が話したことも、多くが四季にとっては初耳なことであった。

「この件には上部が関わっている。それを忘れるな。それともう一つ、忘れてはいけないことがある。」

朧は少し目を伏せた。

「死神に関わっている全員が嘘をついている。俺も、お前も、狐も、全員だ。あの化け物はそうやって成立しているんだ。だから、お前らは嘘で自分を失わないようにするんだな。」

少しの間沈黙が続いた。静かに朧は立ち上がると、壁に刺さった刀をとって肩に乗せた。

「さ、稽古をしよう。」

四季もその声を聞くと立ち上がる。狐はごろごろと転がって、四季にわざとぶつかった。

「なあ、貴様、もっといろいろ聞かなくていいのか?私はまだまだわからないことだらけだ。」

「いいんだよ。どうせ聞いてももう意味ねえし。」

「でも、あいつは嘘をついているんだろ。だったらまだ知っていることがありそうではないか。」

四季は狐のその言葉を鼻で笑った。

「先生がそんな親切に教えてくれるわけがねえだろ。」

「はあ!?」

「それに、俺はもう全部わかっちまったから。」

「なに!」

四季の言葉を聞くと、朧はこっそりと微笑んだ。

「おい、お前ら早くしろ。」

「へ~い。」

四季は返事をすると朧の後を追って草履を履いて庭へ出て行く。

「あ、待てっ。」

「やだね。」

「ちっ。」

狐は怒りにまかせて四季を追おうとしたが、ここに来てやっとあることに気がついた。

「貴様ら、私の縄をほどけー!」

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