九日目 その一
翌朝、先に目を覚ましたのは四季だった。そっと狐の眠りを妨げないように起き上がると、紙と筆をとって小さな机で書き始める。昨晩は誰かさんのせいであまりよく眠れなかったが、お陰で寝ぼけることもなかった頭で、四季は思考を巡らせ始めた。
狐が目を覚ましたのはそれから数時間後のことである。
「……ん。」
うっすらと目を開けると飛び込んできたのは明るい光。朝に弱い狐は光を避けるように反対側に寝返りを打つ。今度は淡い人影のような者が目に飛び込んできた。
「ふく、ろう……?」
「おはよう。」
その声を聞いて、狐は一気に目が覚めた。
「は、きさま……。」
すぐ隣に、四季がいた。同時に、今自分がくるまってるのは四季の布団であることを理解する。その瞬間に、昨晩のことがすべて思い出された。
「う、うわあ!」
狐は中に埋もれるように布団を巻き込んで壁際まで転がっていった。
「待てよ。」
四季が狐の布団をつかむと、今度は転がり出るようにして狐は壁に激突する。思いっきり打った頭を抱えながら、狐は飛び起きた。
「おはよう!」
何事もなかったかのように狐は元気に言う。
「あ、ああ。」
四季は引き気味に答える。
「やけに元気だな、てめえ。」
「昨晩はぐっすり眠れただろう!」
「何言ってんだ。どっかの誰かさんのせいで、ろくに眠れなかったぜ。」
「そ、そうだったのか。」
狐は引きつった笑いを見せた。
「ま、いいけど。」
四季はそう言うと何かを書いていたらしい筆を置き、狐の腹のあたりを指さした。
「なんだ?」
「それ、わざとやってんの?」
四季に言われて落とした視線の先には、帯が緩み少しはだけた忍び装束があった。
「は、はあ!」
狐は急いで装束を引き寄せ見えてしまっていた肌色を隠した。
「このっ。」
焦っているから、というよりも単に狐が不器用なせいなのだが、いっこうに帯を結ぶことが出来ない。いつもは狐が起きる前にふくろうが隠れて結んでくれていることさえ知らないにもかかわらず試行錯誤していた狐だが、急に動きを止めたと思うと上目遣いで四季を見た。
「すまないが、帯を結んでくれないか。」
「よろこんで。」
かしこまるようにそういうと、四季はふくろうが結んだものと遜色がないほどきれいにかつ手早く帯を結んでみせる。
「手慣れているんだな。」
「当然だ。こっちは毎日結んでんだから。」
「とはいえ、これは忍びが使うもので、貴様のものとはちがうだろ?どうして結び方がわかるんだ。」
「んなもん見てりゃあわかる。逆に、なんでてめえが結べないんだよ。」
「私もわからん!」
「開き直るなって。」
四季は帯を結んでやるついでに、変装として狐が着る着物を着せ、帯も結んでやった。
「むむっ。貴様やはり無駄になれているな。女物の帯をこうもうまく結べるものか?」
四季は遊び心をこめて帯をちょうちょ結びのように結んでやる。
「それほどまで多くの女の帯を無理矢理ほどいてきたってことか?なんてふしだらな変態だ。」
「発想力が豊かなのはいいが、心外だな。」
「じゃあ、なぜそうも懐かしそうな顔をしているんだ。」
狐は珍しくやさしく微笑んでいる四季の顔をまじまじと見ていった。
「顔に出てるか?」
「まあな。」
「そうか。」
そう言うと、四季はいつもの顔に戻った。
「俺としたことが、てめえに汚染されてがばがばになっちまったようだ。」
「濡れ衣だ。で、誰か思い出す相手でもいるんだろ、この状況で。」
「もしかして狐さん妬いてるんですかい?」
「な、なわけないだろ!」
叫んだ狐の口を四季の人差し指が塞ぐ。
「朝から大騒ぎしているとまた勘違いされて面倒になるぞ。」
「そういうものか?」
「ああ、そういうものだ。」
四季はうさんくさく笑って見せた。
「なら、いいだろう。貴様の思い人のことなど、正直どうでもいいのだ。さ、飯にするぞ。」
狐はそう言うと、完璧な町娘の出で立ちを身にまとって、颯爽と部屋を後にした。
「あーそうそう。貴様、金を忘れるなよ。」
そう言い残して扉を閉める狐に、四季は軽く笑いをこぼす。
「わかってるよ。」
子供のような帯を結んで、少女のようにはしゃぐ彼女に、四季は愛おしげに目を細め、その背中を追いかけるのであった。
「貴様、さっきから何をしているんだ?」
狐は唐突に四季に尋ねた、狐にとって、落ち着かない様子で鞘の抜き差しを繰り返している四季の姿が不可解でたまらなかった。
「身だしなみを整えてんだ。先生に会うからな。」
四季はそう素っ気なく言うと、また鞘をいじりながらあぜ道を進む。二人は今、朧の道場へ向かっていた。
「というか、てめえは何でずっと俺に肩車されているんですかい?」
「しょうがないだろ。貴様しか道は知らないんだから。」
狐はふんぞり返って言った。肩車、とはいえ狐が勝手に四季の肩にまたがっているだけ、という方が正しいのかもしれない。
「別にてめえを肩車すんのは嫌じゃねえんだが、先生に会うときには降りろよ。」
「気にするな。着いたらすぐにでも降りてやるさ。」
「てめえはこんなに肩車が好きだったのか、知らなかったぜ。やっぱとてめえは子供なんだな。」
「ふんっ。好きなだけ言え。人の上、それも敵の上にのって貴様を操っているような気分になれるのは、なんとも快感なんだぞ。貴様には理解できまい。」
「つーのは、負け惜しみで、実際はガキとおんなじで、高いところが好きなだけだろ。馬鹿は高いところが好きって言うしな。」
「なんだと!」
狐は四季にまたがったまま、上半身だけ前にかがんで上から四季の顔をにらみつけた。いつものようにさぞ不適に笑っているだろう、と狐は思っていたが、四季は心ここにあらず、という顔をしていた。
「なんだ?貴様、狐様を肩車しているというあまりの光栄さに放心状態にでもなったのか?」
「なあ。」
四季は狐の質問には答えるそぶりも見せずないんか考え事をしているような声で言った。
「うん?なんだ?」
「人への感謝ってどうやればいいんだ?」
四季は真面目に、極めて真面目にそう尋ねた。
「はあ!?」
狐は思わず四季の胸ぐらをつかんだ。その拍子にバランスを崩し肩の上からは落ちるも、きれいに着地をして、四季をぐっと引き寄せた。
「貴様、そんなこともしらんのか!」
狐は食いつかんばかりの勢いで言う。四季はその圧に圧倒されることもなく、涼しい顔でうなずいた。
「そんなことだけ、わかんねえんだけどな。」
「屁理屈をこねるな。まったく、貴様は今まで人に感謝をしたことがないのか?まさか、人をからかうことしかしてこなかったんじゃないだろうな。」
「まあ、否定は出ねえかも。」
狐はあからさまに引いて見せたが、すぐににやりと笑うと、四季から手を放し、そのまま自分の胸をたたいた。
「じゃあ、しょうがないな。幕府の犬野郎でしかない貴様に、人の心を教えて野郎ではないか。」
「ワーイ、ヤッタア。」
四季はそう言ったが顔が明らかに死んでいる。しかし、天狗になっている狐にはそんなことは目に入らなかった。
「まずは、なんと言っても感謝を言葉で伝えることからだな。贈り物をする、とかよりもずっと、それ以前の問題だぞ、これは。とはいえ、貴様のそのゆがんだ性格では素直に思いを伝えることも出来ないだろうな、」
「ソノトオリデス。」
「ならば、貴様がまず第一に出来るのは手紙を書くことだろうな。」
「ああ、それならやったことあるぜ。」
四季は急に真剣な顔に戻って言った。
「なんか、感謝の手紙に限らず、手紙にも決まりがあるって昔先生に教えてもらったが……覚えてはいるんだが、面倒じゃねえか、あれ。書いていると飽きてくるし、俺の性には合わないってとっくに諦めた。今回先生に出したのだって、そういうの全部無視して書いたし。第一、あんな紙切れで感謝なんて伝わんのか?」
「貴様、元も子もないことを言うなよ。」
狐は大げさに落胆してみせる。
「それに、てめえこそ。ろくに手紙なんて書けんのかよ。」
「書ける訳がなかろう。手紙の偽造なんかはすべてふくろうがやてくれていたからな。」
「またでたよ、ふくろう。」
四季は鼻で笑うようにして言った。
「で、するべきは感謝の手紙を書くこと。だが、俺もてめえも作法を知らねえ。どうすりゃあいいんだよ。」
「普通に書けばいいんだ。変に形式張らずに、ただ素直に。そうすると。思いは結構伝わってくるものだ。ふくろうはよく私に手紙をくれるが、形式を無視していてもそれには私への思いが率直に書かれていてこう、ぐっとくるぞ。まあ、私は時がろくに読めないからっていってやもりに感情を込めて読んでもらっているからかもしれないけど。」
「そりゃあ、恋文の話だろ?」
「何を言っているんだ。ふくろうはあれは日頃からの感謝の手紙だと言っていたぞ。ふくろうを貴様と一緒にするな。」
「仲間のことになると変に盲目だな、てめえは。」
四季に言われると、狐は少し頬を膨らませた。
「とにかく、だ。素直に、くれぐれも素直に、だぞ、手紙を書いてみろ。」
「う~ん、どうだろう。素直に、か……。」
「それも無理なのか?」
狐は大きくため息をついた。
「ならばしょうがない。もう、物を贈るしかないだろ。相手のすきな物、それもわからないのであれば、貴様が大切にしているものでも何でもいいから贈るしかないな。」
「なるほど。それなら出来そうだ。」
四季は納得したようにそう言うと、再び歩き出した。狐もくるりと体の向きを変え、四季を追いかける。
「ちなみに、貴様は誰に感謝するつもりだったんだ?話の流れだと、その師匠か?」
「ん、まあ、一人はそう。」
「そのいいぶりからして、他にも感謝したい相手がいるんだな。」
「いねえことを願うよ。そいつに感謝しなきゃいけねえ状況になるのを全力で回避しようとしている所だ。」
「はあ?貴様の言うことは相変わらず理解が出来ないな。」
「てめえの頭じゃ無理だろうな。」
「なんだと!」
狐はまた四季と取っ組みあおうとするが、それは四季によって遮られた。
「あーだこーだいってたら、先生の道場が見えてきたぜ。」
狐は促されるように四季の前に出て、指された方を見る。
「どこだ?」
「隙あり。」
四季はそう言うと、狐が髪の下に隠している面を引っ張った。
「うわっ。貴様何を!」
狐がそう言って四季の方を見ようと振り向いたのと同時に、四季は面から手を放す。その拍子に、バチン、といい音がして、面が狐の顔に張り付いた。
「いだっ。」
「そろそろ面をつけた方がいいんじゃねえですかい?ここは人もあんまねえし、狐のことを知っている村人なんていねえだろうから。」
「やり方が雑すぎるだろ!」
狐は叫んだが、四季は聞こえていないふりをしてまた歩き出す。
「おい!待てって!」
狐は諦めずに四季に叫ぶ。
「今、私の面に触れたな。触るなと言っているだろう!謝罪しろ!」
「頭は触んなって言われてるけど、面は言われたことねえよ。」
やっと口を開いた四季は軽くそう言ってあしらおうとする。
「頭を触ってだめなら、当然、面はもっと貴様の様な奴が触れてはいけない物に決まっているだろう!」
「そうか?」
「当たり前だ!」
四季はチラリと狐の方を見た。狐はまっすぐな目で四季を見てしかめっ面をしている。この様子だと、昨晩のことは覚えていないようだった。残念だ、とそう思う心を押しつぶして、ちょうどよかった、とおもう心にすり替える。
「申し訳っありませんだしたー!」
四季は言うが早いか走り出した。
「はあ!?」
狐も負けじと追いかけてくる。こうしてじゃれながら走れば、道場はもうすぐそこにあった。
「あ、そうだ。」
四季は道場を前にして突然足を止める。止まりきれなかった狐はそのまま四季に激突した。
「なんだ。」
「てめえ、その変装、先生に会う前にとれよ。」
「貴様、何を言っているんだ?とうとう頭がわいたのか?」
「先生の前では正装しろ。俺だって、今走っちまった分を整えてから先生に会う。先生は古くせえ真面目人間だから、てめえのそのなめた格好だと、間違いなく殺されるぞ。」
「それで、私を脅してまた言いようにもてあそぼうという算段か?甘いな、私は貴様の言いなりにはならんぞ。それに、貴様だって私を殺せなかったんだ。なら、師匠とやらも、この私を殺せまいよ。」
「殺す以上のことはしてきかねないけどな。まあ、いいか。てめえがどうなろうと、俺には関係ねえし。」
四季はあきれたように言うと、今回はきちんと道場の扉を開けて中に入った。道場の上座には道着をまとい、刀を脇に置いて、待ち構えるように静かに正座をしている朧がいた。四季は朧を一瞥すると、礼儀正しく礼をして道場に足を踏み入れる。
「は?」
四季の意外な行動に思わず声が出てしまった狐だが、慌てて口をつむんだ。静寂に包まれた空間には言い知れぬ緊張感が漂っている。その圧に負けじと拳を握りしめ、四季の後に続いて狐がそのまま道場に足を踏み入れたその時だった。
シュン。
と音が聞こえた時にはすでに、狐の顔のすぐ横を何かが通過した後だった。狐は、自分の体が動けないほどに一瞬にしてこわばったのを感じた。朧は先ほどから体制を変えたようには見えないが、口元には誰かに似た笑みを浮かべている。眼球だけを動かして捉えた視界の端には、さっきまでは遙か前方にあったはずの刀の柄。
この恐怖を味わうのは、今回で三度目だ。
狐を恐怖で縫い止める為の刀が、整然と壁に突き刺さっていた。




