94 婚約と権威と恋愛と
お母様は一旦家に帰って今、リオンはクラリスを連れて食堂に行っている。厨房を借りて焼き菓子を作る為だ。どうやら私を甘やかすと言うのを実行しようとしているらしい。それで私はお姉ちゃんと二人で話す時間が出来た。
結局、婚約ってこんな物らしいとアンジェリン姫が教えてくれた。特別な関係にはなるけど特別な事をする必要は一切無くて、単に将来結婚する約束を家族ぐるみで決めただけだ。これは以前に教えて貰った事がある。だからほぼ同じ内容を繰り返し聞く事になった。
但し婚約すれば他の人は手を出せなくなる。恋愛対象として見る事も許されない。横恋慕なんてもってのほかで、いわゆる略奪愛は絶対悪扱いとされる。何せ家同士が絡んでいるからメンツの問題になって手を出せば報復されても文句が言えない位に厳しい。だから例えばよくある話で王子様を婚約者から奪う、みたいな事は絶対にないらしい。特にそれが上流貴族相手となれば褫爵も有り得るそうだ。
だけどそう言う行為が実在するのも事実で、じゃあ何故そう言う事をする人が現れるのかというと――
「――そんなの決まってるでしょう? 殿方は家を背負っているから先ず手を出さないのよ。だけど女は愛が全てだと考える人が多いからね。基本的に略奪愛に走る令嬢は自分より地位の高い殿方しか狙わないのよ。そう言う処が物凄く打算的なのよね」
アンジェリンお姉ちゃんはそう言って笑った。まあ確かに考えてみれば略奪愛の対象って基本的に地位の高い男性だ。地位が高い男性だからこそ強い権威や権力を持っている。だから一見、その権力を持つ男性さえ落とせば全て丸く収まる様に見えるけど実際には家のメンツを潰す事になる。そうなればもう、絶対に貴族社会の中では生きられなくなる。
だけどそう考える令嬢がいるのなら『真実の愛』とやらに騙される男の人もいるかも知れない。
「……じゃあ、たとえば、シルヴァンが、しんじつのあい、に、めざめた、とか……いいだしたら……?」
だけど私がそう尋ねるとアンジェリン姫は笑顔で答えた。
「ねえ、マリー。その『真実の愛』って何? どんな物を指して言ってるの?」
「……え……それは……」
「そもそも貴族や王族には自由な恋愛はないって以前にも言ったでしょう? 王族の私やシルヴァンはその事をよく知ってるし好意は抱いても恋愛に至らないわ? 婚約相手がいれば絶対に他の相手は見ないもの。大体頂点に君臨する王族が自分から秩序を乱せば他の貴族に示しがつかないでしょ? だから絶対に起こり得ないのよ」
あー、うん……この世界では貴族の権威を守る事が重視されているからそもそも略奪愛自体が成立しないとは思う。当然王族は自分から決まりを破らない。例外を作ればそれが権威の綻びに繋がるから。
つまり『王子が婚約破棄して別の女性に鞍替えする』と言う場面自体が起こり得ない。冷静に考えてみれば自分が主人公の立場だとして、婚約者を切り捨てて自分に鞍替えする様な攻略対象を本当に好きになれるかというと逆だ。きっと百年の恋も醒める。それを綺麗に言えば『真実の愛に目覚めた』であって、現実的に言えば単純に『婚約者よりこっちの方が好きになった』だけの話だ。そんなフラフラした男の人が魅力的だとは私には到底思えない。
そう言う意味では私はかなり幸運なのかも。何しろ相手はあのリオンだ。それに二人共公爵家出身で英雄一族でもあるから口出し出来る人もいない。それにリオンはああ言う性格だし婚約をしたからには絶対私を切り捨てない。そう言う点でリオンの事を私は絶対的に信頼している。
それらを考えれば婚約していれば恋愛絡みでトラブルが起きる可能性は圧倒的に低くなる。リオンと婚約しているだけで死因の大半を回避出来る。だけどそれはリオンを利用している気もする。だから必要な事は全部やってリオンが恥ずかしくない様にしておきたい。
「……こんやく、って……なにをしたら、いいの……?」
「特に何もする必要はないわ? これまでと同じく一緒に過ごして仲良くしてれば良いの。まあマリーの場合何かをする以前に先ずは相手を好きになって自分の気持ちを自覚する処からじゃないかしら?」
「……えー……でも……すき、って……よく、わかんない……」
「マリーは何も考えない方が良いと思うわ? マリーの場合は下手に考えたら酷い事にしかならないでしょうし。今までの事を見る限り、絶対に碌な事にならないでしょうからね?」
「……えー……」
「だけど……マリーって恋愛に積極的なのかそうじゃないのか良く分からないのよね。私と勝負した時なんてリオン君を絶対取られたくないって感じだったのに。マリーはてっきりリオン君の事が大好きなんだと思っていたわ?」
「…………」
だけど私はそれには答えられなかった。確かにリオンの事は好きだと思う。だけどそれが恋愛かと言われると分からない。小さい頃からずっと一緒にいたし、私も生き延びる為に恋心は持たない様に意識していたから。信頼しているのと好きな事は違う気がする。
何より私にとって恋愛は命に関わる怖い事だから。