88 助けてあげる
アンジェリンお姉ちゃんはあっと言う間に手続きを進めて私の部屋で一緒に暮らす事になってしまった。勿論これからずっと一緒と言う訳じゃない。事実上もう退校していて一時的に復学する流れになっている。だけどそれよりも私は『お見合いしてきた』と当然の様に言うアンジェリン姫の一言に少なからず衝撃を受けていた。
いや、だって……私の二つ上でまだ十六歳だよ? 確かに一年位全然姿を見掛けなくなってたから変だとは思ってたけど、まさかお見合い行脚の旅に出ていたとは思わなかったしアカデメイアも退校してるとは思ってなかった。
「――んー……そうねえ。私としてはアカデメイアで良い相手が見つかればそれはそれで良かったんだけどね? でもリオン君の事はマリーに負けちゃったし。そうなるともう他の国で良い相手を探すしかなかったのよ。だって私、もう十六歳だし」
「……でも、まだ、じゅうろくさい……でしょ?」
「もう十六歳、なのよ」
お姉ちゃんはベッドの上に座って抱きかかえたクラリスの頭を撫でながらそう言った。クラリスはガチガチに固まっていてまるでお人形さんみたいになっている。考えてみたら男爵家出身の彼女が王族のお姫様と触れ合う機会なんて一生であるかどうかだ。そんなアンジェリン姫は小さく笑うと私に言う。
「そうねえ……マリーは公爵家の上に英雄家の出自だからそんなに意識しないのかもね。だけど王族貴族に関わらず、女の子は早く婚約なり結婚する物なのよ? そもそも婚約って結婚するには少し早過ぎるって言われるのを避ける為だし。それに結婚するまで恋愛をする為に婚約期間って時間が準備されているのよ?」
「……え……そうなの?」
「そうよ? だってほら、王族なら早いと八歳九歳で婚約するけどそんな歳だと異性を意識する事自体無理だもの。だから婚約して籍だけ入れて確定させるの。その後はお互い異性として意識する様になれば結婚ね。だってほら、殿方は抱いた後でも好きになれるけど女は相手を意識しないと好きにはならないもの。意識してお互いに好きにならないと無理やり子作りする事になっちゃうし世間体も悪いでしょ? まあ、そう言うのが好きな殿方もいるみたいだけど」
「……そ、そうなんだ……?」
すいません。そう言う物と言われても頭が追い付きません。と言うか私にはその手の常識が全然ないって自覚してる。でもお姉ちゃんの説明は妙に生々しいし、衝撃的過ぎて自分が死ぬとかそう言う悩みで苦悩している余裕が全く無い。
「……だからね? 好きになった相手と結ばれる事なんて王族や貴族の女には先ず無いのよ。子供の内に家同士で付き合いがあるのも仲良くさせて意識させる目的もあるし。そう言う意味ではアカデメイアも恋愛的な意味での社交界って言えるのかも知れないわね」
はー……アカデメイアってそう言う側面もあるんだ。そんなの私は考えた事もなかった。だけどそう言われてみると貴族子息や令嬢って社交界にデビューするまでは異性処か友人や知人が出来る場所自体が無い。そう言う意味では私だって叔母様のお家に行ってからリオン達と仲良くなった以外に交友関係は一切無かった。
貴族家に生まれると親同士の交流がなければ基本的に他の誰かと知り合ったり触れ合う機会がない。狭過ぎる交友関係は濃密な友情を育むかも知れないけど逆に新しく知り合う相手に対しては心を開く事がない。実際セシリアやルーシーだって仲良くなったのは随分後の事だし最初は物凄く警戒されてたんだと思う。そりゃまあ貴族の頂点に立つ公爵家の娘に嫌われでもしたらその後大変だしね。
そう言う意味ではアカデメイアは出会いの場で、触れ合う機会の無かった相手と出会える場だ。何せアカデメイアには国内各地から貴族の子供達が集まる。それも社交界と違って陰謀や企みがない分気持ち的にも大らかになる。まあそれで羽目を外す人も多くなって不正行為とか手を出しちゃうのかも知れない。
「――まあ、私の事はどうでも良いのよ。それよりマリー、貴方、声がまともに出なくなってるでしょう?」
「……え……どうして、それを……」
「あのねえ……そんな鼻に掛かった声をしていればすぐに分かって当然でしょう? それに――」
そしてアンジェリン姫は私に手を伸ばす。そのまま抱き寄せられて私はクラリスと一緒に抱きつかれる事になった。だけど嫌な感じが全くしない。優しく髪を撫でられて思わず目を閉じてしまう。
「――これよ」
「……え?」
「マリーは自覚してる? 前は嫌がって無かったけれどどう甘えて良いか分からないみたいな戸惑いがあったわ? まあ今は今で可愛いと思うけど、前はそう言う処も可愛がりたいと思った理由よ?」
「……それは、どういう……」
そしてアンジェリンお姉ちゃんは私に微笑んだ。
「……今のマリーは私に依存してる。このクラリスにもね。以前は絶対に誰にも縋ろうとはしなかったわ。どんなに辛くても自分の足だけで立とうとしていたし……まあ私に依存してくれるのならそれはそれで構わないし私も思う存分甘やかしてあげるつもりだけど、以前のマリーならそれは嫌なんじゃないかと思うのよね」
そう言われて私は目を大きく開くとアンジェリンお姉ちゃんから慌てて身体を離した。鏡を見なくても自分の顔から血の気が引いているのが分かる。私はすっかり忘れていた。アンジェリンお姉ちゃんはバカな人じゃない。むしろ賢過ぎる人だ。それも努力でそれを手に入れて自分なりの解釈を加えたレディクラフトの天才だ。
呆然とする私を再び抱き寄せるとアンジェリン姫は私の髪を優しく撫でる。だけどもうさっきみたいに心が安らがない。事情を知らない筈なのに自分の状態を私以上に理解されてしまっている。
「……マリー、依存も甘えるのも悪い事じゃないのよ? そうして休む事だって人間にはあるわ。何があったのかは知らないけれど、私はマリーがまた立ち上がれる様になれば良いと思ったのよ?」
「……え、じゃあ……そのために……?」
掠れる声で尋ねるとアンジェリン姫は何も答えず、無言で私を抱きしめる。そしてされるがままになっていた私の耳元で囁いた。
「だって……貴方は私の可愛い妹ですもの。その妹が苦しんでいるのなら、それを助けるのがお姉ちゃんの私がやるべき事でしょ?」
もう、涙が溢れそうだった。この人はもしかしたら一番私の事を知ってくれているかも知れない。これまで色々あってくじけそうになっている私を理解してくれている。
「……おねえちゃん……たすけて……」
「ええ、勿論。お姉ちゃんが可愛いマリーを助けてあげる」
私は生まれて初めて誰かに助けを求める。そんな言葉にお姉ちゃんはにっこり笑顔になって首を傾けた。