86 一人ぼっちの恐怖
私にとっての日本の記憶――とは言っても私自身が生きていた記憶は一切ないし、日本の事を全部覚えている訳じゃない。日本と言う国があって、そこには乙女ゲームと言う娯楽があったと言う事を覚えているだけだ。何故か私はそのタイトルを覚えていない。覚えているのは有名な登場人物と多少の情報だけだ。
でもゲームだなんて言ってもこの世界では伝わらない。それで私は『本に描かれた物語』に置き換えて説明する事を選んだ。
私の事が描かれた物語がある。だけどそれは私が主人公じゃない物語でその中の私は主人公の前に立ち塞がるライバルだ。そして物語が進むと私は命を落とす事になる。似た物語がいくつもあるけどその全てで私は死ぬ。溺死、焼死、自殺、他殺、不幸な事故から他人による殺害まで死因は様々だ。
そして直接手を下す訳じゃないけど原因となるのが主人公のマリエル・ティーシフォンと彼女の周りに集まる男子達。グレートリーフ王国王子シルヴァン、侯爵家子息バスティアン、辺境伯家子息ヒューゴ。それに正規生になってから知り合う騎士団長の子息マティス、恐らくイースラフト王国からの留学生レイモンド。基本的にこの五人と関わる事で私は死を迎える事になる。
そして全ての物語で共通しているのが主人公マリエルと恋仲になる男子は全て私と恋仲だった事になっていた筈だ。もしマリエルがシルヴァンと近付けば私はシルヴァンの婚約者。バスティアンと近付けば私も深い関係がある事になるけどその全てで男子達から捨てられる事になる。その理由も様々だけど一番多い展開がマリエルを敵視した私が彼女を陥れようとした事が発覚する。物語の上で私は捨てられて当然の女と言う扱いになって、その直後に命を落とす。
「……何だかそれって厭な恋愛物だな。本によって展開は違うのに主人公とリゼは必ず対立するのか。でも変な話だな。もしリゼが先に恋人なら後から横取りする主人公の方が圧倒的に悪女だろ?」
流石にリオンは理解が早い。元々シルヴァン達が遠因になる事を知っているしその事を本人達にぶちまけた後だ。そのお陰もあって今は余りシルヴァン達を警戒する事もなくなっている。だけど今回初めて話を聞いたクラリスは感じ方が少し違ったらしい。
「……あの、あくまでそのお話の中で、という事でご本人達と関係が無いお話なんですけど……」
「うん? クラリスは何か思う事でもあった?」
「あの……主人公が悪女にならない理由って多分ですけど、主人公以上にライバルの令嬢が悪人って事にすれば悪女扱いはされないと思うのです。それにどうしてライバルの令嬢が必ず死ぬのかと言うと多分、言い訳が出来ない状態にする為じゃないでしょうか?」
「……言い訳が出来ない状態?」
「はい。だってそのライバルの令嬢が実は悪人じゃなくて恋人を取られた事が発覚すれば主人公が絶対悪人になります。だけど主人公ですから実は悪人でしたって出来ません。戯曲なんかでもよく悪役が先に死んじゃうんです。でも死んじゃった人は言い訳出来ませんから『単に悪い事をした人』にしかならないのです」
「……なるほどな……確かにそう言われればその通りだよ。実際の戦争でも負けた側は言い訳が許されない。クラリスは戯曲とか見た事があるの? 何だか詳しいみたいに見えるけど?」
「はい。お父さんがよく連れて行ってくれたのです。うちはお医者さんなので余り貴族らしい事が出来ないから、教養だけはしっかり身に付く様にって。お爺ちゃんと一緒に行った事もありますよ?」
まさか、こんな話になるとは思ってなかった。私も悪役令嬢がちょっと可哀想だと思っていたけど具体的にその理由が分かった気がする。悪役令嬢は弁明を許されない。あくまで『悪役』であって主人公と和解する機会なんて絶対に与えられないからだ。
だけどちょっとくすぐったい気もする。クラリスはどうやらその悪役令嬢を私に結びつけたく無いみたいでわざわざ『ライバルの令嬢』なんて呼び方しかしない。リオンは私として呼んでいるのにそうしないのはクラリスの中では贔屓目がある気がする。
「……あの、クラリス……?」
「はい、何ですか、お姉ちゃん?」
「ライバルのれいじょう、じゃなくて……わたしでいいよ?」
「それってルイーゼお姉ちゃんの名前で言うって事ですか?」
そう言われて私は頷く。だけどクラリスはにっこり笑顔で首を横に振った。
「いいえ。そのライバルの令嬢はルイーゼお姉ちゃんじゃありません。だってお姉ちゃんは恋愛を避けてますよね?」
「……え……」
「あっ、違いますね。お姉ちゃんの場合は避けてるって言うよりも恋愛を怖がってる方が近い気がします……あ、そっか。だからリオンお兄ちゃんもはっきり言えないんですね。はっきり言ってしまうと恋愛を怖がるお姉ちゃんに断られて破局確定ですからね」
「ちょ!」
「ちょ⁉︎」
クラリスの余計な一言でリオンと私は相当慌てた。いやもう何かこの子、末恐ろしいわ。と言うかこの世界の貴族女性は基本的に恋愛事に対して物凄く積極的なのを忘れてた。早熟で例え一〇歳とは言えど恋愛事に関してはズバズバ言うし歯に衣も着せたりしない。
それに私の場合は避けたり怖がってる訳じゃなくて、恋愛感情がいまいちよく分かっていないだけだ。恋愛がどんな物かは頭で理解してるつもりだけど対象が自分になると分からない。それにリオンだって昔から私の事を妹みたいな物だってよく言ってたし。どんなに可愛いと言ってもそれは身内への愛情で家族としての話の筈だ。
「……なんか、厭な汗を掻いた……クラリス、そう言う事は余り触れない方が良いんだよ……」
「……えー。分かりましたー……」
リオンが疲れた顔で言うとクラリスは納得出来ない顔になって頬を膨らませる。だけど無理矢理納得したみたいだ。その様子にリオンは軽く咳をすると私の顔を見る。
「それで? どうしてリゼはあんなに何を怖がってたんだよ?」
「えと……それは……」
だけど……どう説明すれば良いんだろう、これ。今までは単純に私の記憶だけだった物が実際に視えてしまったから怖かったと言ってもきっと理解して貰えないと思う。
「えとね……さっきの、ものがたり……ぜんぶ、もじがよめるだけだったかんじ? それがじっさいに、みえたっていうか……」
「ん? それってどう言う事?」
「えと……もうひとりの、わたしが、みえたの」
「……もう一人のリゼ?」
「たぶん、みらいを、かえられなかった、わたし……かな?」
だけど自分でそう言ってやっと気が付いた。あのもう一人の私は必ず死ぬ。とても辛そうで悲しい目をしていた鏡の中の私はきっと近い将来に命を落とす。その結末を知っている上にそれが自分自身だから私は余計に怖くて仕方がない。
思い出すだけで背筋に悪寒が走る。両腕を抱きしめても身体の震えが収まらない。歯の根が震えてカチカチと鳴る。自分が死ぬ前の姿を見るのがこんなに怖いと思わなかった。だけどあれが私の未来視かと言うと違う気がする。じゃあ……私は一体何を見たの?
「リゼ、言いたくないなら言わなくて良いから……」
「……リオン……たぶんわたしは、もとのじぶんを、みたんだとおもう……いまみたいに、みんなが、たすけてくれる、まえの……」
「えっ? それは……未来を変える前のリゼを見たって事?」
「……うん……リオンや、クラリスに、あえなかった、じぶんだとおもう……たぶん、あのわたしは、しぬ……」
だけど私がそう言って俯いているとリオンが目の前までやってきて私の頭を胸に抱いた。私はもう、何をどう考えて良いのか分からなくて何も出来なかった。もう一人の自分も助かって欲しいとは思うけど、きっと彼女には手が届かない。あれが今なのか、過去なのか、それとも未来なのかすら分からない。悲しいのか怖いのか、この時の私にはもうそれすら分からなくなっていた。
「――リゼ、大丈夫。大丈夫だから。今、僕の前にいるリゼは僕が絶対に死なせない。だから……大丈夫、怖がらなくて良いよ」
それで私は彼の胸に顔を埋めたまま小さく頷く。それを見たリオンは私の頭を撫でながらクラリスに言った。
「クラリス。今の話は全部、誰にも言っちゃダメだ。しばらくの間はこの三人の秘密にしよう。訳が分からないと思うけどお願い」
「……はい、分かりました。私、誰にも言いません」
「それと……今日はもうリゼを休ませてあげて。きっと頭の中がぐちゃぐちゃで落ち着くまで時間が必要だと思うから。それともし何かあればどんなにくだらない事でも必ず僕を呼んで」
「分かりました。何かあったらすぐお兄ちゃんを呼びます」
そうしてすぐに私とクラリスは寝巻きに着替えてベッドに横たわる事になった。だけど指先が痺れたみたいに冷たくなっていて一人で上手く着替えられなくてクラリスが手伝ってくれた。
その後ベッドに入っても私は一人になるのが怖くて、結局クラリスにしがみ付く様に眠る事になったのだった。