83 教導寮の幽霊
「――さて、これはマリーさんと直接関係がある訳じゃ無いんですが、またアカデメイア内で変な噂が出回っています」
その日、同級生の皆が再び私の部屋に集まっていた。変な噂、と言う事は以前にあった私に対する魔王呼びみたいな話なのかも知れない。特に侯爵家のバスティアンは正規生達とも上手く交流しているらしくこう言った校内の情報収集が得意だ。そしてそれを聞いたシルヴァンが頷く。
「ああ、僕も耳にしている。どうやらここ、教導寮に幽霊が出ると言う噂が広まりつつあるみたいなんだ」
話によればこの教導寮の近くを夜間通った生徒が不審な声を聞いたらしい。勿論夜間に無闇に出歩くのは良く無い事で規則違反になるんだけどいわゆる逢瀬を重ねる――つまり恋人達がイチャイチャする為に人目の無い夜間に出歩いていると言う事だ。
準生徒はともかく正規生は婚約や結婚していてもおかしくない年齢だし既に子供がいる人だっている。だけど十五歳で成人を迎えてすぐに出産する人はいない。これはあくまで『結婚出来る年齢』と言うだけで実際には十八歳位までに妊娠出産する人が多い為だ。
結婚の最低年齢は実は女性基準で決められていて赤ちゃんを産める――要するに月の物が大体十五歳位までに始まる為だ。それを基準に成人年齢が十五歳になっている。そして社会の基準がそうだから世間の親達はそれを基準に教育を行う。だから精神的成熟も自然と早くなるんだと思う。
そしてこの世界の婚約は事実上結婚とほぼ同じ扱いだ。何故なら婚約破棄自体がまず発生しない。余程の事情がない限り婚約を破棄する事はしないし、逆に婚約破棄が起きれば男女関わらず何方も周囲が結婚相手として認識しなくなる。結婚の最大の目的は後継者の出産だから婚約、つまり結婚解消は子供が作れない男女と言うレッテルを貼られる事になるのだ。そうならないのは戦死や病死による相手との死別位しかない。だから悪役令嬢の登場するゲームみたいに一方的な婚約破棄は起こり得ない。それが自分の評価も落とす結果にしかならないからだ。
――あー、だから私は絶対に死ぬ展開しかなかったのかも。
考えてみると私の記憶ではマリエルのライバルはマリールイーゼしかいない。主人公は基本的に後から入ってきた従来の関係を壊す寝取る側で、悪役令嬢は寝取られる側の被害者だ。だから主人公と恋仲になる攻略対象が実は悪役令嬢の元婚約者だったと言う展開は定番中の定番だ。それが理由で私も徹底して恋愛事を避けていると言うのもある。
私がそんな事を考えているとリオンが二人に尋ねた。するとバスティアンが答える。
「……それで幽霊って、具体的にどう言うのが出るんだよ? 僕もここで生活してるけど幽霊の話なんて聞いた事がないぞ?」
「それが……具体的に姿や影を見たと言う話は一切聞かないんですよね。この教導寮はアカデメイアの中でも中央に位置していますし庭園も近いですから比較的人通りが多いんです。正体を突き止めようとやってくる人も増えていますが姿を見た人はいません」
「……はあ? なのに幽霊って確定してるのはどうしてだよ?」
訝しげな顔に変わるリオン。だけどそれに答えたのはシルヴァンだった。
「……実はね。この教導寮は元々先先代の宰相だったバルザック家の邸宅を改装した物なんだよ。僕の曽祖父が王だった頃の宰相で今では家が断絶している。これは事故と色々な不幸が重なってそうなったらしい。他家に嫁いだ血縁者から建物と敷地を譲り受けてアカデメイアの基盤にしたそうだよ」」
「ああ……他の寮と違って古い造りなのはそんな曰くがあったからなのか。それで……どんな幽霊が出るって言うんだよ?」
「それが……小さな女の子らしい」
「女の子? 姿や影を見てないのにどうして分かるのさ? 足音が聞こえるとかそう言う感じの話?」
そんなやり取りに今まで無言で聞いていたセシリアが両手で耳を押さえて俯いてしまう。
「――ああああああ、きこえなあああああい!」
「……あー……そう言えばセシリアってその手のはダメだっけ」
「ちちちがうわよ! 剣でどうにも出来ないから苦手なだけ!」
「じゃあどうにか出来るなら相手出来るの? 無理でしょ?」
「絶対に無理!」
ルーシーの問いに明らかに取り乱すセシリア。セシリアって幽霊とかその手の怪談がダメなんだ? でもなんだか虫は平気だけどゴキブリだから怖いって言ってる様にも聞こえる。そんなセシリアに一度は視線を向けるけどリオンとシルヴァンは何も見なかった様に普通に話を続けた。
「――それで? なんで小さい女の子って分かるんだよ?」
「それが……何処からともなく小さな女の子の歌声が聞こえてくるらしいんだよ。それも何を歌ってるのかまでは分からない。どうも相当古い歌みたいでね。微かに聞こえるだけらしいんだけど……」
ふーん? と言うか歌声で小さな女の子って思ったんだ? だけど声がはっきりしないって誰かが歌ってたとかそう言うのじゃないのかなあ? でも真夜中に歌うのって余り良い事じゃない筈。
そんな時、くっついてベッドの上に一緒に座っていたクラリスが私の顔を見上げる。何か言いたそうな表情だ。それで私が首を傾げると彼女は遠慮しながら耳打ちしてくる。
(……あの、それってお姉ちゃんじゃないです?)
(…………?)
(だって……お姉ちゃん、夜中に鼻歌を歌ってますよね?)
(…………⁉︎)
あ、あっれー? おかしいなー。そう言われてみると私、この処ずっと真夜中に鼻歌を歌う練習してた気がする。それに鼻歌でも低い歌い方だと喉に掛かって声が出ないから自然と音域が高くなっちゃうから、小さい女の子のハミングに聞こえるかも知れな――
――すんませんッした! 私が幽霊のゴキブリでした!
え、でもうそ、そんな事が噂になってるの⁉︎ 折角誰にも聞かれない様に皆が寝静まった頃に練習してたのに! 確かに窓を開けて夜空を見上げながら歌ってたけど! ちょっぴり悦に入って浸ってた事も否定しない。でもほら、まだ割と暑いし窓を開ける位普通だよね⁉︎ それにまだ掠れた声だから歌自体ちゃんと聞こえたりしない筈――ってそうか、だから歌じゃなくて鼻歌だと気付かれなかったって事⁉︎ えー……ちょ、待って……それって前回と違って今回は私、完全に張本人じゃん……。
この時、私は全く気付いていなかった。自分の目元が真っ赤になって顔から血の気が引いている事に。当然私がそんな様子に変わればリオンが気付かない筈がない。彼は訝しむとサイドテーブルに置いてあった黒板とチョークを私に手渡して笑う。すっごい笑顔で笑う。爽やかに笑う。これ以上無い位の笑顔だ。と言うかもうバレてるよね、これ。
「……どうやらリゼは何か知ってるみたいだね?」
「…………」
「確かまだ声は出なかった筈だけど、ちょっと説明してくれる?」
「…………」
笑って誤魔化そうとするけど口元が引き攣ってしまう。リオンは本当に心底優しそうに微笑むだけでそれ以上何も言わない。だから私も素直に黒板に書いて見せる以外に選択肢はなかった。
《――真夜中、声を出す練習に鼻歌を歌ってました》
「……声を出す練習?」
《――失声症に歌が良いかも知れないって思って》
「……そうだったのか……」
《――ごめんなさい。反省してます》
「……ああ、いや。別に怒ってないよ? だけどリゼ、何とかしようと頑張ってたのか。隣の部屋なのに僕、全然気付いてなかったよ……」
だけどやっぱりちょっと気不味い。シルヴァンやバスティアンも呆れてはいないけど苦笑している。それで俯いたまま顔を上げられずにいると、それまで無言だったヒューゴが口を開いた。
「……すまん。恐らく俺の所為だ。うちの唱歌隊の話を先日マリー様に話したんだ。それで試してみようとしたんだな」
「え、ヒューゴが? リゼに教えてくれたの?」
「ああ。どうも声が出せずに焦っていたみたいだからな。少しでも助けになればと思ったんだがちょっとした騒ぎになった様だ」
まさか庇おうとしてくれるとは思わなかった。それで遠慮がちに顔をあげるとヒューゴが申し訳なさそうに頭を掻いている。それで私も思わず笑ってしまった――んだけど。
「じゃああれだね。実際どんな感じの歌なのか、リゼには是非とも一度歌って貰おうか。僕もちょっと聞いてみたいからね?」
うぐっ……このタイミングでそれを言う? 確かにあれからかなり練習して割と普通に歌える様にはなったけど。それでも人前で歌える程私も根性が座ってない。それで渋っているとくっついていたクラリスが笑顔満面で言う。
「お姉ちゃん! 私も聞きたいです!」
「…………!」
「私も一緒に歌いますから! だから歌いましょう!」
ひ、ひぃ……クラリスのこのアグレッシブさが怖い……。
結局リオンとクラリスに押し切られて、シルヴァンやバスティアンに興味津々の顔をされて、更に怖がっていたセシリアは恥ずかしさを紛らわせる為に私をせっついて結局私は歌う事になったのだった。
……後日談。
《――テレーズ先生はこの寮が元々、バルザック宰相様って言う人のお家だった事をご存知でしたか?》
時々様子を見に来てくれるテレーズ先生に私は黒板に文字を書いて聞いてみた。すると先生は首を傾げてにっこり笑う。
「ええ、知っていますよ? ここは元々お祖父様の家でしたから」
……えっ? え、でもテレーズ先生ってカルティエって家の名前だった筈じゃ? それで驚く私に先生は笑って言った。
「そりゃあ女は他所の家に嫁ぎますからね? 私だって女ですから当然一度は嫁いだ身です。夫とはすぐに死別しましたが」
それを聞いて私も本当に驚いたんだけど、でも不思議と納得していた。道理でテレーズ先生はアカデメイアで決定権を持ってる訳だ。王族の教導師をしてたのもお祖父様が宰相様だったから? と言うかこのお婆ちゃまって実はアカデメイアで一番偉い人なのかも知れない。お母様の先生でもあるし。