71 またね
次の日から早速マリーさんの勉強会が始まった。
私も自室に入れない時間があって暇を持て余していたから顔を出している。だけどバスティアンの教え方が余程上手いのかマリーさんの習熟速度は凄まじかった。
例えば教えられてすぐに理解出来なくても翌日にはきちんと理解出来ている。アカデメイアは社交界での振る舞い方を重視しているから普通の勉強と違って覚えるしかないんだけど彼女の記憶力にはバスティアンも舌を巻く程だったらしい。
例えばお化粧の知識なんかもあっと言う間に覚えて自分でメイク出来る様になってしまった。それにバスティアンの方針なのかお化粧の歴史なんかもきっちり覚えている。
「――では、貴婦人が扇で口元を隠すのは何故ですか?」
「ええと……お肌に白粉を塗って白くしていたけど、鉛入りの白粉は歯茎が黒くなったり歯が抜けてしまうから、それを隠す為に扇で口元を隠す習慣が生まれた……だったかな?」
「――あの……」
「……正解です。今は鉛を使った白粉は禁止されていますから出回っていませんが、昔はそう言う経緯がありました」
「えへへ。でも怖いですよね、昔の貴婦人って。毒になるのに白粉とか使ってたんでしょ? そこまでしてお肌を白くしたいだなんてやっぱり女の子は綺麗に見られたいですもんね」
「――えっと……」
「そうですね。ですけど最近では少し位肌が白くなくても余り言われなくなってます。逆に真っ白にするのは古臭い時代遅れなファッションとまで言われる事がある位です」
「昔は魔法で灯りをつけたりしなかったから薄暗かったらしいですしね。だから余計に白くしないとダメだったのかも?」
「――その……」
「それはとても良い着眼点です。照明魔法が出来たのはほんの十数年前ですからね。薄暗い中でもはっきり美しい顔を見せたいと望んだ貴婦人が多かったのかも知れません」
「そう言えば昔は蝋燭の照明が多かったらしいですね。そりゃ薄暗くなっちゃうのも当然ですよ」
「…………」
バスティアンの出した質問にマリーは少し考えながら詳細に答える。え、いや、そうなの? と言うかそれ、私は知らないんですけど……それになんでバスティアンって女の子のお化粧についてそんなに詳しいの? 女子力高い? 一応女の子の私ですらそこまで知識ないんですけど? て言うかもうこの時点で私、二人の会話に全然ついていけてないんですけど? もしかして私、要らない子になってる?
因みに今出回っている白粉は植物、お芋とかから作られたりするらしい。ただ、今の若い女の子は白粉を使う事自体が殆どないから年配のご婦人御用達になっているそうだ。使うとしても日焼け予防とかその程度にしか使われていないらしい。
でも本当にそんな知識、アカデメイアに入る為に必要なのかなあ? 私、本気で知らない事ばっかりなんだけど。それで満足そうにニコニコしているバスティアンに私は尋ねてみた。
「……あの、バスティアン……そんなことまで、しっとくひつよう、あるの……?」
「え? いえ、普通は必要ありませんよ? ただ彼女は何も知らないので理由も合わせた方が覚え易いかと思いまして」
「……ふぅん……そなんだ……」
「ですけどこちらのマリーさんは恐ろしい位に物覚えが良いですね。教えれば教える程次々に覚えてしまうので僕もつい力が入ってしまいます。以前ルーシーの勉強を見た事があるんですけど、彼女も凄かったですがこちらのマリーさんは同じかそれ以上です。お陰で僕も教えるのがとても楽しいですよ」
……なんか今、バスティアンの口からさり気なくポロッと凄い情報が出た様な気がする。え、ルーシーってバスティアンにそんなアプローチしてたの? もしセシリアも一緒なら絶対にその事を言ってる筈だからきっと二人きりで、だよね?
まあだけどバスティアンに先生役をお願いしたのは正解だったかも知れない。私だとそこまで上手に教えられないし。
「……えっと、それじゃ……わたし、あっちいってるね?」
流石に気まずくて笑って言うとマリーが私の腕に抱きついて必死に止めてくる。相変わらず長い髪で表情ははっきり見えないけど声は必死そうだ。
「ま、マリーちゃんも居て! だって私、マリーちゃんのお陰で頑張れるんだから!」
「そうですよ。マリーちゃんがマリーさんのやる気の元になっているんですから傍で見ていてくれた方が良いです」
なんかいつの間にか私、マリーちゃんになってる。まあ別に構わないんだけど……でも何となく気まずいものの、二人のやり取りを聞いているだけで知らなかった話が聞けるから楽しいと言えば楽しい。だけど楽しい時間って過ぎるのも早い。
あっという間に七日間は過ぎてしまった。私はただバスティアンが彼女に教えて、彼女が嬉しそうに勉強しているのを眺めているだけだったけど。でもこうして人のやり取りをじっと聞いているだけなのは初めての事でちょっぴり新鮮で楽しかった。
それに何よりマリーは随分明るくなった。会った時は死にたいとか言ってたし凄い沈み方だったけどもう完全に立ち直っている。私自身もそうだけど、辛かったりした時はやっぱり誰かと楽しく過ごせるのが一番効く気がする。
最終日のお勉強会を早めに終わった後、私とバスティアンは彼女を見送っていた。アカデメイアの門から出ても彼女は何度も振り返っては手を振ってくる。名残惜しいけどこればっかりは仕方がない。
同じ様に手を振っていたバスティアンに私はふと思った事を呟いた。
「……そういえば……」
「はい?」
「……バスティアンとふたりって、はじめてかも……」
「あー……そう言われると確かにそうですね。普段はリオン君やシルヴァン様が一緒ですし僕もヒューゴも少し遠慮してるのは確かにあります。でも別に話し掛け辛いって訳じゃなくて単純に聞いていると面白いんですよ。毎回後でヒューゴとあれは一体どう言う意味だったのか、とか話し合ってますしね?」
「……そうなの……?」
「ええ。ですからマリーちゃんがいつも彼女の勉強の時に傍で聞いているだけでも意味があったんですよ。それにまあ、彼女も男の僕と二人きりにされると色々気まずいでしょうしね?」
「……そっか……」
「でも……彼女はマリーちゃんと何処か似てますね。歳不相応に素直な処とか、小さい子みたいに好奇心で動く処とか。そう言えばマリーちゃんは知ってました? 彼女、同じ十四歳だそうですよ?」
「……マリーちゃん……」
「え……あ、すいません! つい、彼女の呼び方に引っ張られちゃって。もしかして嫌でしたか?」
「……ん……べつにもう、それでいいよ……」
それで寮に戻ろうと歩いているとバスティアンが不意に立ち止まって門の方を振り返る。
「……彼女、来年ここに入れたら良いですね……」
「……うん……でもたぶん、だいじょうぶ……」
「……そう、ですね。きっとまた会えるでしょう」
小さくそう答えるとバスティアンは指三本でメガネをくいっと上げる。こうしてみると最初にあった頃と比べて彼も随分素直になったよね。身長も伸びたし声も落ち着いたイケボになったし。もう完全にインテリ系イケメンだよ、これ。
こうして嵐の様に現れて嵐の様に去っていった同い年で同じ名前の女の子、マリーと別れたのだった。
まあでも多分、来年入学してくると思うし。それはそれで楽しみに待っている事にしよっと。
それより来週にはフランク先生のお孫さん、クラリス・デュトワがやってくる。今回の出来事は人に何かを教える事を知れたし、活かせたら良いな……と私は考えていた。