55 早過ぎる絶望
――私が、リオンを使って、正規生を……脅迫してる?
最初、私はお兄様が口にした言葉の意味が全く理解出来なかった。お兄様が今日、妹の私に会いにきたのは私を心配してとかじゃなくて、私を叱って責任を取らせる為だった。
請願書というのは問題があった場合に苦情を書類にして提出する正式に改善を求める手続きだ。レオボルトお兄様は今、騎士団の団長をしているから公務として私に会いに来たと言う事だ。
この前、エマさんに招かれたお茶会でカーラさんとソレイユさんが話してくれた事を思い出す。きっと二人が言っていたのはこの事だったんだ。沢山の請願書が届いたと言う事はきっと一通や二通処の話じゃない。請願は正式な手続きだから偽造なんて出来ない。実名を署名しないとそもそも受理されないから提出者は実名で正式な手続きを踏んだ事になる。
この請願は貴族の権威に似ているけど一つだけ明らかに違う部分がある。それは高い地位にある者では無く低い身分の者が手続きを行う点だ。基本的に高い地位にある者は問題があれば自力で改善するけどそれが出来ない場合はより高い地位の者に動いて貰う為に請願を行う。
だけど……きっとお兄様なら私の言葉を聞いてくれる筈だと私は思っていた。私が大好きな人達は私を一方的に責める事は絶対にしない筈だ。だからきっとちゃんと話せば私の言葉だって聞いてくれるに違いない。
「……お兄様、違うんです。それは――」
だけど――ダメだった。
「言い訳は見苦しいから止めなさい、マリールイーゼ。公爵家の、それも英雄一族と呼ばれる家の者がやって許される事じゃない」
「……え……」
「お前がやった事は我がアレクトー家の信用を地に落とす行為だ。まさかお前がそんな事をするとは僕だって信じたくはなかった」
お兄様は私の言葉を遮るとそう断言した。
急に世界から空気の半分が消えた様に感じる。胸が苦しくて呼吸が出来ない。浅く、早く、呼吸が乱れていく。目の前が暗くなって立っていられない。その場に座り込むと私は胸を押さえた。そんな私の頭を肩に抱いてリオンが呟く。
「……リゼ! しっかりして、リゼ!」
口元に肩を押し付けられて少し息苦しい。だけど何故か少し楽になった気がする。どうやら私は過呼吸を起こしていたらしい。でもそんな私を見下ろしてレオボルトお兄様は言った。
「マリールイーゼ、身体が弱い事を理由にしてもお前がやった事は正しくはならないよ。それにリオンを道具の様に扱って自分の手駒に使うなんてあってはならない。恥を知りなさい」
ああ……ダメだ、これ。お兄様は私の言葉なんて聞くつもりが無い。私が何を言ってもきっと聞いてくれない。それは死ぬ運命を知っていた私にとって何よりも致命的だった。
私が覚えた違和感の正体がやっと分かった。お兄様はいつもマールと呼んでくれたのにもうそう呼んでくれない。つまりお兄様にとって私はもう可愛い妹じゃないって事だ。
自分が大好きな人達が私の言葉を聞いてくれない。私は断罪されるだけで私の声は届かない。幼い頃からずっと抱いていた恐怖が今、私の心を捉えて離さない。なのに涙も出ない。
「――私は……」
ダメだ。それは言葉にしちゃいけない。
「――あの時、死んでた方が……」
ダメだ、絶対に口にしちゃいけない。だけど頭でそれが分かっていても止められない。
「――いない方が、良かったのかなあ……」
完全に言葉にしてしまった瞬間、私は強く自覚してしまった。涙も出ないし泣き声すら出ない。だってどうせ何を言った処で誰も聞いてくれない。私の言葉なんてどうせもう死んでいる。生きていない。もういないのと同じだ。何かに期待しちゃいけない。希望を持っちゃいけない。だって期待出来ないし希望も持てないから。私は絶望していた。
私には日本の記憶がある。だけど日本で生きた記憶がない。それは私には帰る場所がないって事だ。そしてこの世界にも私の居場所なんて何処にもなかった――ただそれだけの話だ。
どんなに頑張っても意味がない。泣いても意味がない。喚くだけ無意味だ。私がどう感じてどう考えようと関係ない。もういっそこのまま消えて無くなりたい衝動に駆られる。きっとこの時、私の心は完全に折れてしまったんだと思う。
「――リゼ、ちょっと待ってて。僕が決着をつけてくるから」
リオンが私を一際強く抱きしめた。私の耳元で小さく囁くと彼は私から離れていく。聞こえた声は何かを堪えるみたいに掠れていたけど声音は優しい。だけど私はもう立ち上がる気力すらなかった。そのまま床に座り込んだまま顔を上げる事も出来ない。
――いいよ、リオン。もう何をしても無駄だから。私みたいなどうでもいい、いなくて良い子は放っておいて構わないから。
だけど声を出す気力も無い。それを言葉にして一体何の意味があるの? もうまともに考える事も出来ない。だって考えても無駄だから。何をしても意味がないから。ただ、今まで色々してくれたリオンに申し訳ない気持ちだけが残る。
心が折れるってよく言うけどこう言う事だったんだ。何にも関心が向かない。自分にも、自分の命にも、取り巻く世界に対しても。全てに対して無関心で、もうどうでも良くなってくる
寂しい、辛い、悲しい――感情がそう感じてもそれ自体に関心がない。別に廃人みたいになる訳じゃなくて徹底的に全てに関心が持てなくなってしまう。糸電話の糸が切れたみたいに何も伝わらないし何も伝えられない。
リオンは腰に吊るしていた剣を抜き払う。刃を潰して先端を丸くした物だ。それをお兄様に向ける。
「――レオボルト。僕と決闘して貰おうか」
だけどお兄様は深くため息を吐くと呆れた顔に変わった。
「僕は決闘が余り好きではないんだけどな。勝てば正しい事に出来る制度は欠陥しかない。それに分かってるのか? 君がその方法を選ぶと言う事はマリールイーゼに落ち度があったと認めるも同然だと」
でもリオンは何も答えない。刃を潰した剣をお兄様に向け続けるだけで言葉を発しようとはしない。それで再びため息をつくとお兄様は彼に向かって言った。
「……仕方ない。では僕が勝てばマリールイーゼを家に連れ帰って謹慎させる。アカデメイアも自主退校させる。それと一つだけ言っておくが君では僕には絶対勝てない。英雄の力を使おうとしても無駄だからね――それで君が望むのは何だ?」
お兄様がそう尋ねるとそこで初めてリオンは呟いた。
「――そんなの、知ったこっちゃないんだよ」
「……何だって?」
「僕は目の前のクソ野郎をぶちのめしたいだけだ。望みが叶う頃にはもうあんたをぶちのめした後だろ? なんでそれを望む必要があるんだ?」
「…………」
「望む望まないに関わらず、僕はあんたをぶちのめす。それ以上でもそれ以下でもない。貴族被れの英雄もどきが言う決闘じゃない。僕が言う決闘はそう言う決闘だよ?」
「……そうか、分かった。では君がもし万が一、君が僕に勝てたら今回の件は全て不問に処す事としよう。それで君が望む様にすれば良い」
そう言ってお兄様も腰に吊るした剣を抜き放つ。それはリオンの持つ剣と違って実剣で刃も潰していない。そのまま二人は舞台の中央へと歩いていく。
それを他人事の様に感じながら私は剣技場の入り口で座り込んでいるだけだった。