50 エマ・ルースロットの受難
アンジェリンお姉ちゃんに手を曳かれてエマさんが向かった教室には女性しかいない。いわゆる令嬢向け授業だった。
流石に授業中もずっとエマさんと一緒にいる訳にはいかないから私達は教室の最後列のテーブルに腰掛ける。教室の中を一望出来る席で一番高い場所にある。授業を受ける正規生達は最後列には座っていない。人数の問題もあるけど中程から前に集中していて、エマさんはその中でも最前列に座っている。
アカデメイアの授業は基本的に教導官の先生がやり方を説明した後は自由にして構わない自主学習形式だ。これは特に実技授業では顕著で他の人がどう言うやり方をしているのか見たり聞いたりする事が出来る。今回は刺繍の授業で前回の続きらしく皆途中まで進めた状態からみたいだ。
だけどエマさんの持っているのは刺繍枠と言われる布地をピンと張って刺繍をし易くする道具だ。円形のリングが二つあってそこに布を嵌め込む。最初の準備段階で使う物で他の正規生は皆途中からなのにエマさんだけがゼロからやり始めるみたいだった。
それにエマさんの周囲にだけ誰も集まらない。他の正規生は数人で集まったり相談して楽しそうなのに、彼女だけはたった一人で黙々と作業をしている。流石に私も違和感を覚えた。
だけど私やリオン達がエマさんを見つめる中でアンジェリンお姉ちゃんだけは周囲の正規生達を眺めている。その横顔を見ていると不意にお姉ちゃんの穏やかな目が細く絞られて私は一瞬ドキッとした。
「――マリー、一緒に来てくれる?」
「え……あ、うん。でも何処に行くの?」
「少しお話をしに行くだけよ? シルヴァンとリオン君は……ここに残っていた方が良いかも知れないわね?」
そう言うお姉ちゃんの目はもう普通に戻っている。リオンとシルヴァンは無言で頷くだけだ。まあ、そりゃあ女の子しかいない教室で歩き回って話し掛けるなんて二人には厳しいよね。
それで私がお姉ちゃんに付いていくとその先に二人だけで座っている女生徒がいる。刺繍を手にしているけど時折前の方をちらちらと見ている。そんな表情は嘲笑うみたいで正直、私は余り良い印象を受けなかった。
「――お勉強中、失礼しますね?」
「……えっ……あ、アンジェリン様⁉︎」
だけどそんな二人にお姉ちゃんは笑顔で声を掛ける。二人は振り返ってお姉ちゃんを見ると驚いた声を上げた。見上げる顔が赤く染まって驚きながら物凄く嬉しそうに変わる。
「ええと、お二人のお名前を伺っても?」
「あ! ええと私、トネリア子爵家のカーラと申します!」
「わ、私はシャペル子爵家のソレイユと申しますの!」
「まあ。カーラさんとソレイユさんと仰るのね。お二人は私をご存知みたいですけれど私はアンジェリン。それと――こちらの子は私の可愛い妹でマリールイーゼと言いますの」
「……それは……」
だけど二人は私を見た瞬間複雑そうに変わる。何て言うか余り良い感情を持たれていないみたいだ。敵意とまでは言わないけど忌々しい位には思っている感じだろうか。
お姉ちゃんは二人に向かって私を前に出すと両肩に手を置いて頬をくっ付けて笑う。何というか私はどうすれば良いか分からなくて曖昧に笑うしかない。
「とっても可愛いでしょ? だけどマリーはまだアカデメイアに不慣れで少し世間に疎い処がある子なの。まあそこがまた可愛らしくて放って置けないのですけれど」
「……は、はあ、そうなのですか……」
「それで――この子のお世話を男爵家のルースロット嬢にお願いしているのよ。アカデメイアでは流石に侍女が付いて回る訳にもいかないでしょう? ええと……あの方、何と言うお名前だったかしら?」
「あ、エマ――エマ・ルースロットさん、ですね」
「ああそうそう、確かエマさん。それで授業に出られない事があるかも知れなくてね。そこでカーラさんソレイユさんに是非お願いしたい事があるの。もしエマさんが困っていたらどうか助けてあげてくれないかしら?」
「……え……私達が、ですか?」
「そんな……姫殿下が直々に?」
二人は顔を見合わせて驚いた声を上げる。だけどお姉ちゃんは眩しい笑顔で頷く。
「ええ、だって世話をさせていて授業を受けられないと流石に体裁が悪いでしょう? あの方は真面目だからどんな事があったか話して貰ったりするのよ。アカデメイアの上級生だし色々と聞いておけば私やこの子の役にも立ちますからね?」
「……え……あ、はい……承りました……」
「……分かりましたわ。どうぞお任せくださいまし……」
二人は少し気が進まない様子だけど頷く。そこでお姉ちゃんは私から離れて近付くとおもむろに二人の手を取った。
「まあ、本当? それはとても嬉しいわ! ありがとう、カーラさん、ソレイユさん! お二人はとても頼りになるわ! どうかお二人共、あの方のお友達として仲良くしてあげてね?」
「……お、お任せください! 私達は学友ですから!」
「そうですわ! エマ――エマさんの事はお任せを!」
「お願いしますね! ああ、いけない。お勉強のお邪魔をしてしまいました。本当にごめんなさい。それじゃあ私達は見学の続きをさせて頂きます。お二人にはとても期待していますよ」
そしてお姉ちゃんが頭を下げて私も慌てて頭を下げる。そのまま彼女は私の肩を押してリオン達がいる席に戻る。私は何か釈然としない物を感じながら何も言わなかった。
だけどふと振り返った処で私は見てしまった。さっきの二人が自分達の物じゃない刺繍枠を取り出すと互いに頷いてエマさんの方に歩いて行くのを。それでやっと気がついた。
――あの二人……エマさんをいじめてたんだ!
案の定、二人はエマさんに刺繍枠を差し出す。それを彼女は少し驚いた様子で受け取る。だけど二人は上機嫌で楽しそうにエマさんと話し始める。それは何と言うか私にとっては本当に気分の悪い物でしかなかった。
無言で席に着くとお姉ちゃんが私に尋ねてくる。
「……マリー? 随分とお冠になってるみたいね?」
「……そりゃそうだよ。あの二人、エマさんに嫌がらせしてたんだ……道理でエマさん、刺繍を最初からしようとしてた訳だよ……許せないよ、ああ言うのって……」
だけどアンジェリン姫は憤る私に微笑む。
「だけどねマリー。その憤りが誰の為になるのかを考えなきゃダメよ? 彼女達にとって私達が理不尽になるのか、それとも恭順したいと思えるのか……その影響を一番受けるのはマリーが守りたいと思う物なんだからね?」
でも私は素直に頷けなかった。だってエマさんが被害を受ける事は分かっていた事だ。それを前もって何とかしないといけない事も分かっていた。なのに色々と大変な事が続いて私はそれを後回しにしてしまったんだから。
エマさんの男爵家は泡沫貴族と呼ばれる立場で貴族の中でも一番軽んじられる。そんな立場の人間が上流貴族と関わる事になれば絶対に嫌がらせをされる。だって男爵家の娘が自分達を差し置いて公爵家や王族と一緒にいるんだもの。それが分かっていたのに私は防げなかった。それが悔しくて堪らない。
暗く沈む私の背中に触れるとお姉ちゃんは優しく言う。
「……私はそちら側に偏り過ぎていたけれどマリーはもう少し振る舞い方を覚えた方が良いのかもね?」
「…………」
「人と言う物は正面からぶつかれば必ず反発するの。だからもし何とかしたいなら巻き込むのよ。例えばさっきの二人――」
そう言ってアンジェリンは前に視線を向ける。そこではエマさんとさっきの二人が話しているのが見える。エマさんは少し戸惑いながら、だけど気分は悪くないみたいだ。
「……あの二人はエマさんが嫌いだった訳じゃないのよ。ただ自分達より下の貴族が公爵家や王族に認められて近付ける事に不満だったの。もしマリーが感じた通りあの二人を叱りつけて正そうとしたらどうなったと思う?」
「……え……それは……二人と家が罰を受ける……?」
尋ねられて真っ先に思い出したのが例の話だ。エマさんやあのお茶会講習の時の正規生が下手をすれば大変な事になっていたかも知れない、『権威』の怖さの話だ。
だけどお姉ちゃんは私の髪を撫でながら笑った。
「流石にそこまではならないけれどそれで二人は不満を募らせるからきっとエマさんはもっと酷い扱いを受ける事になるでしょうね。だって彼女達は私達に文句が言えないもの」
「……え……そうなの? どうして?」
「だって二人は別にエマさん自身を嫌ってないもの。強いて言えば境遇に納得出来ないからかしら? それで叱られてもエマさんが優遇されてる様にしか感じないでしょう?」
「でも……じゃあどうすれば良いの?」
「だから『巻き込む』のよ。対立じゃなくて一緒に歩いていると思ってくれれば自然と仲間意識になるわ。確かに彼女達にも非はあるけれどそれを指摘しても意味がないのよ。良く思ったり悪く思われるんじゃダメ。そうじゃなくて自分も仲間の一人だって思って貰えれば一番皆が幸せになれるでしょう?」
そう言ってお姉ちゃんは笑う。だけど私はそんな彼女が実は凄い人かも知れないと感心していた。確かにアンジェリン姫に人気があるのも分かる気がする。この人は臣下を臣下として評価するんじゃなくて仲間の一人として見ている。そりゃあそんな風に接してこられたら好きになるよ。外見もこんな綺麗な女の子だし、胸もでっかいし、胸もでっかいしね。
「……お姉ちゃんって凄いね。そんなの私、全然考えてなかったよ。と言うか私に出来る気が全然しないよ……」
私がそう言うとアンジェリンは寂しそうに笑う。
「私は皆の王女様でそれ以外出来なかっただけよ。それにその所為で特定のお友達も作れなかったし」
「……そっか。王女様って女の子の中で一番偉いもんね」
「えっ? じゃあ私の母上は?」
「お妃様は女の子じゃなくて女の人、でしょ?」
「マリーの中ではそう言う扱いなのね……まあでも今の私にはマリーがいるからね! ほーら可愛い可愛い!」
そう言ってお姉ちゃんは私に抱きつくと髪を撫でる。この人が私に構おうとするのはもしかしたら特定の友達が作れなくて寂しかったのかも知れない。
そんな事を考えていると授業の終わりを告げる鐘が鳴った。