49 こわかわいい
アンジェリン姫がアカデメイアに復帰したのは結局、事件が無事に終わってから一月以上が過ぎてからだった。手続き自体はちゃんと終わったけどその後、アンジェリン姫はお母様と叔母様から物凄く叱られて淑女修行をさせられていたらしい。
そして魔法の授業で私とリオンが図書館にいた時だ。彼女が復学して真っ先にシルヴァンが相談してきた。
「――聞いてくれ、マリー、リオン……」
「ん? どしたの?」
「どうしたのさ、シルヴァン?」
「……姉上が……優しいんだ……」
「お姉ちゃんが? なら良かったじゃない?」
「違う! 普通に優しいんだ!」
シルヴァンが思わず大きな声で言ってしまう。それで司書の先生が私達のいるテーブルの方を見る。彼は慌てて口を押さえると声をひそめて再び言ってきた。
「……僕はどうしたらいいんだ……あんな穏やかで優しい姉上は見た事がない。何て言うか……物凄く、怖い……」
シルヴァンが何を言ってるのか分からなくて私とリオンは思わず顔を見合わせる。それで今度はリオンが彼に尋ねた。
「……いや、穏やかで優しいんなら良いんじゃないの? 元々シルヴァンはそう言う姉さんを望んでたんじゃないのか?」
「確かにそうなんだけど……元の姉上を知ってるから今の姉上と繋がらないんだ。落差が凄過ぎて何だか気持ち悪い……」
流石にその一言にリオンも私も眉をひそめる。
「……シルヴァン、君、色々酷いな……」
「うん。私もそう思う。それで具体的に何があったの?」
そう尋ねるとシルヴァンは話し始めた。
「昨日の夜、王宮の自室でさ。僕も姉上と一緒に寮に戻る事になって準備してたんだ。そしたら姉上の部屋に呼ばれてさ。それで行ってみたらお茶を出されて……」
「……それ、別に悩む必要無くない?」
「違うんだ、話は最後まで聞いてくれ――それでお茶を飲んで部屋に戻ろうとしたらいきなり抱きついてきて『ありがとう』と言われて額にキスされたんだよ……」
「……それの何処に悩む要素があるのよ……」
余計に彼が何を言っているのか分からない。それでリオンを見ると私に代わってシルヴァンに尋ねる。
「……あのさ。シルヴァンってお母さんに抱きつかれて額にキスして貰った事とかないの?」
「え……いや、まあ……それはあるけど……」
「じゃあ姉さんがそうしたらダメな理由は?」
「いやだって、あの姉上が、だぞ? それに例え姉弟と言ってもやって良い事と悪い事があるだろう?」
「……いや、良いんだよ。それ、物凄く普通だろ……」
「……兎に角それで怖くて昨日も余り眠れなかったんだ……」
リオンがぼそっとツッコミを入れる。だけどシルヴァンはテーブルの上に突っ伏して頭を抱えてしまった。
いやまあ、シルヴァンの気持ちはなんと無く分からない気がしないでもないんだけど……ちょっと酷くない? 悪くても嫌だけど良くても嫌だって言われたらどうしようも無いじゃん。
だけどそこで私はあの時、お姉ちゃんと二人で話した時に聞いた事を思い出して少し分かった気がした。そう言えば何の話をしたのかを私、話して無かったし。
「あー……えっとね、シルヴァン。お姉ちゃんがあんな感じの接し方だったのってシルヴァンの為だったんだよ?」
「……んん? マリー、それはどう言う事だよ?」
「お姉ちゃんはさ、弟のシルヴァンの事が可愛くて仕方なかったんだよ。だけどシルヴァンは次の王様で立派になって欲しいって気持ちもあって。それで色々悩んでたんだよ」
だけどシルヴァンは然程驚いてなかった。
「……そんなの、分かってるよ」
「え?」
「どれだけ一緒にいると思ってるんだよ。姉上は凄く不器用な人だから頭を使ってる――いや、使ってた。最適だからじゃない、それしか方法が無かったからだ。姉上はいつも僕の為って口癖みたいに言ってたからね。だからそれは分かってるんだ」
まさかシルヴァンがちゃんと分かってたなんて私は思ってもいなかった。やっぱり嫌っていても姉弟だから、って言うのはあるのかも知れない。そんな処で丁度授業の終わりを告げる鐘の音が校舎内に響いた。
だけどそれからしばらくして図書館の入り口に人影が見える。それを見た瞬間、私の方が間違っていた事を思い知った。
――あー、なんかごめんシルヴァン。私が甘かったよ。
人影は案の定アンジェリンお姉ちゃんだった。扉口で図書館の中を見回すと私が見えた途端に凄く嬉しそうな顔になる。そのまま物っ凄い笑顔で右手を振りながら私に向かって足取り軽く駆けてくる。
……但し、もう何て言うかすっごいキラキラしながら。まるでデートの待ち合わせで相手の姿が見えた途端に頬を染めて嬉しそうに微笑むヒロインを見てるみたいだ。それに気の所為かスローモーションにも見える。え、何これ……これって王女専用のスキルか何かなの? 気の所為か後ろにレース模様の光が見える気がするんだけど。
「……マーリーい! 来ちゃった! ダメだったかなあ?」
「――うぶっ……」
そしてそのままお姉ちゃんは私の顔を抱き寄せて豊満な胸にいきなり顔を埋められる。
え、ちょ、待って? 何この圧倒的ヒロイン感。なんか凄くピュアっピュアな感じになってるんだけど? と言うかお母様と叔母様は一体どう言う教育したの? 何をどうしたら青春ど真ん中な甘酸っぱい感じのヒロインみたいになってるの? 確かにお姉ちゃんは発育の割にまだ十四歳で中学三年生位だから少女漫画の主人公にもなれると思うけど。
いや、そりゃあシルヴァンだって戸惑う筈だよ。こんな風になったお姉ちゃんに抱き寄せられて額にキスとかされたら例え実の弟でも男の子は動揺するでしょ普通。確かに怖いよ……可愛過ぎてすっごく怖い。お姫様でこれは流石にチート過ぎる。
「マリーに早く会いたくて、走って来ちゃった!」
「――ぷはっ……そ、そう、ですか……」
「え、なあに? マリー、ちょっと素っ気ない?」
「……そ、そんな事……ないよ? 多分……」
「良かった! 私、マリーの事大好きよ!」
「……うぷっ……」
なんかヤバみが凄い。このお姉ちゃんは案外天然系なのかも知れない。正直女の私が見ても可愛いと思うし……こんなの解き放ったの一体誰だよ。
そして私が弄ばれる横で項垂れるシルヴァンの肩をリオンがポンポンと慰める様に叩く。
「……ごめんシルヴァン。まさかこんな事になってるとは僕も全然思ってなかった。確かにこれはかなり怖いかも知れない……戦慄すら覚えるよ……」
「……だから僕はわざわざ二人に相談しに来たんだよ……」
そしてそんな時だ。まだ鐘が鳴った直後で生徒も殆ど図書館に来ない中、もう一人入館して来るのが見えた。意外な事にそれはエマさんだった。手には教練書を何冊か持っている。
「あ、あれ? エマさん、図書館にどうしたの?」
「あ……ルイちゃん、リオン君……それに……シルヴァン様、アンジェリン様も……」
だけど何だか変だ。少し疲れた感じだし微妙にやつれているみたいにも見える。それに教練書は専用のカバーが付けてあってどうやらこの図書館の物みたいだ。基本的に教練書は各個人所有の筈なのにどうしてだろう?
そうしているとそれまで私に構いまくっていたお姉ちゃんがエマさんの顔をじっと見つめる。
「貴方……エマさん、もしかして何かトラブルに巻き込まれてませんか?」
「え……あ、いえ、アンジェリン様……」
お姉ちゃんが尋ねるとエマさんは苦笑する。だけど目を合わせようとしない。流石にそれは不自然というか変だ。だけどそれはお姉ちゃんも感じたみたいで少しだけ目を伏せて考えるとすぐに顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「――エマさん、これからエマさんの教室にいきましょ? 次の授業は何処かしら?」
「えっ? え、でも……」
「大丈夫よ。私に任せてちょうだい?」
何だか急にそんな事を言い出して、私はリオンとシルヴァンに視線を向ける。二人も何か感じたみたいで頷いた。
「――んじゃあ私もいくね。正規生の教室見てみたいし」
「リゼが行くんなら当然僕も行くよ」
「姉上が行くのなら僕も行きましょう。教導室に寄って正規生の授業見学許可も貰ってきます」
だけどエマさんの顔は曇ったままだ。そんな彼女の手を取ってアンジェリンお姉ちゃんは笑顔で引っ張っていく。その後ろに私達三人が続いてエマさんの教室へと向かう事になったのだった。