36 アカデメイアの休日
アカデメイアが冬季休暇に入ってから一〇日――つまり私が舞台でやらかしてから九日が過ぎていた。
あの舞台の日は正規生が異様にいて殆どが実家に戻らないのかと思っていたけれどそうでもなかった。結構な生徒が実家に帰省してアカデメイアの中は普段よりとても静かだ。
まあ、準生徒と違って正規生は十五歳から十八歳になるまでだからその時点で既に成人扱いだし婚約や結婚している生徒も実は結構多い。貴族にとって十歳を迎える前に家同士で婚約を交わす事もよくある話で任官されて無くても親を手伝って働いている人も多い。社交界への参加も外交担当みたいな物だ。
とは言っても行く処に行けば大勢残っている。校舎の中は人が殆どいないけど舞踏場や馬房、戦闘訓練にお茶会なんかでは今も沢山人が集まって修行に明け暮れているらしい。これって長期休暇中の部活動が近い印象かも。
そして私はと言えば今、アカデメイアの校舎の中を同じ準生徒の皆と一緒に散歩していた。散歩というと少し語弊があるかも知れない。要するに正規生がいない内に正規生が普段授業を受ける区画を探検しようという事になったのだった。
「――そう言えばマリーやリオンは帰省しないのかい?」
正規生の教室を見て回っている時、不意にシルヴァンが私とリオンに向かって尋ねてきた。私とリオンは顔を見合わせる。
「うちは帰っても今、お母様がいないから。お父様とお兄様もお仕事で王宮だし誰もいないからあんまり意味がないの」
「そうだね。リゼは料理出来ないから帰ってもまともな生活が出来なくて一人じゃ生きていけないからね」
「む……失礼ね、リオン。これでも叔母様が教えてくれたから多少はお料理出来るんだからね?」
「でもパンを焼いたり出来ないよね。窯の使い方も母さんから教えて貰ってないでしょ? と言うかリゼ、すぐ倒れるし」
「……むぅ……」
「確かに道具や材料があればリゼもある程度出来るだろうけどそれは出来るって言わないよ。作り置きのスープをお皿に装うのは料理って言わないし。先ず火を付けられないとね?」
こう言う時、私はリオンに言い返せない。だって彼は叔母様の家事の手伝いをよくしていたし火も起こせる。火を着けるのは実は凄い重労働だ。だから平民は鍋を火に掛けたまま基本的に火を消さない。スープも具材を追加して味を整えるからそれが各家庭独自の味になっているらしい。
「……あーそっか。公爵家って英雄一族だから魔法で火が点けられないのね。なんか地味な処で色々大変そう……」
不意に私のすぐ後ろにいたセシリアが得心がいった顔になって呟いた。それで私も振り返って彼女に尋ねる。
「そう言えばセシリアはお料理するの?」
「うん、するよ。狩りもするし猪肉だって自分で捌いたり血抜きしたりもするよ?」
「え、そうなの? なんか凄い……捌くとか出来るんだ……」
「そりゃうちは辺境伯家で国防貴族だからね。小さい頃から野営もしてたし魔法無しで火を付ける練習もしてたよ?」
「……そっかあ。セシリアって凄く生活能力高そう……」
「そんな事ないよ。ほら、ヒューゴ君も出来るよね。辺境伯領は昔から小競り合いの多い土地だし、男女関係無く糧食調達は必須項目だもの――ってヒューゴ君、聞いてる?」
だけどセシリアが声をかけてもヒューゴは反応しない。どうやらバスティアンと一緒に正規生の教室を見ている最中らしく二人で何やら話し込んでいる。それで業を煮やしたセシリアが近づいていくとやっと気付いたヒューゴが振り返った。
「……もう、ヒューゴ君ってば!」
「む? ああ悪い、聞いていなかった。それで何だ?」
「辺境伯家出身なら男女関係なく野営したり狩りして血抜きや料理をするよね、って話よ。ヒューゴ君も出来るんでしょ?」
「ああ、その話か。そうだな、まあ幼い頃は遊びみたいな感じで習うからな。野営と言っても中央貴族のパーティみたいな物で家族同士の付き合いって意味もある。俺とバスティアンも家族同士で一緒によく野営した。父上達は連携を打ち合わせる為だが自分で調理すると言う事は好きな物を食べられるって事だからな。肉や魚、山菜なんかも色々食べた物だ」
「もう! 食べ物の事ばっかりじゃないの!」
「セシリア嬢、野営の基本は体力の温存だ。特に食糧は兵士の士気に直結する。王都の騎士団はそれを疎かにするから士気がいまいち低い。貴族はもっと自分達で調理すべきだと思うぞ」
どうもヒューゴの説明を聞く限りだと野営はキャンプみたいな物らしい。ごめんねセシリア、もっとワイルドな感じなのかと思ってました。だけどサバイバルって基本的にキャンプだし戦闘のある辺境伯領では日常的な物なのかも知れない。
そう言えば以前、叔母様の家でりんごのシャーベットを食べた事があるけど基本的に貴族は料理をしない。だけどお茶だけは自分の手で淹れる。貴族令嬢でもお菓子を自作する人は多いらしいけどいわゆる普通の食事は作らない。調理場や器具が無くても魔法でお湯を準備出来るからお茶は簡単に淹れられる。
だけど私は魔法が使えないから無理なんだけどね! 英雄の魔法って使える種類が一つだけだから私やリオンは普通にお湯を沸かさないといけない。だからお茶は飲むけど他の貴族家と違って頻繁にお茶会をする習慣がないのも仕方ないよね。
勿論騎士団なんかだと野営もするから料理を作る事になるらしいけどいわゆる大雑把な料理が定番らしい。余りに美味しくなくてそこから料理に目覚める騎士も多いそうで男性調理師が多いのもその影響があるのかも知れない。
と言うか……うちはお母様が料理するんだよね。そう言えば叔母様も自分で料理する。お父様やお兄様は食材の調達担当で王都で買ってきたり森で狩りをする。叔母様の家で暮らしていた時も叔父様やジョナサン、エドガーがよく調達していた。
「……だけど新鮮な食べ物が食べられるのって良いよね」
「そりゃもう!」
「野営の一番の魅力だ」
私が叔母様の家での生活を思い出して呟くとセシリアとヒューゴはほぼ同時に答える。だけどセシリアは口元を抑えて頬を赤くしながら隣のヒューゴを窺っている。いやまあ、食べ物が美味しいって凄く魅力的だからね。人はこうやって美味しい物を自分で調理する事に目覚めていくのかも知れない。
だけどそんなヒューゴの隣でバスティアンがしきりに教室の中を見ている事に気がついた。どうやら会話するより設備の充実度の方に関心が高いみたいだ。それでリオンが尋ねる。
「……バスティアン、正規生の教室ってそんなに良いの?」
するとバスティアンは振り返って眼鏡を指で押さえながら少し興奮気味に話し始めた。
「リオン君、この教室は凄いですよ! 何といっても広さが半端ではありません! 準生徒の使う教室の三倍はありますよ!」
「え、そんなに広いんだ。なんでだろう?」
「そりゃあ正規生は人数が多いですからね! それにテーブルも固定じゃなくて個別です! 椅子と小さなテーブルがセットになっていて、それも折り畳めるみたいですよ!」
特にバスティアンはテーブルに興味津々みたいだ。私だってまさか折り畳みの席があるだなんて思っていなかったし興味はあるけどバスティアンは子供みたいに無邪気に騒いでいる。
……いやまあ、実際まだ私達全員子供なんだけどね?
基本的にアカデメイアは移動教室制でたむろ出来る固定教室がない。だから仲の良い生徒は基本的に食堂を利用する。ここの食堂は大きくて準生徒を含めた全生徒が入っても余裕があるのはその為なのかも知れない。それ以外は各自自分達の部屋に集まってやっぱりお茶を飲みながら雑談をする。
だけどそうやって騒いでいると教室の奥の扉が開いて教導官の先生が顔を覗かせた。最初は少し楽しそうな様子だったけど私とリオンを見て少し驚いた顔に変わる。
「あー、君達。どうしたの、準生徒の子達だよね?」
「え、あ、はい。冬季休暇で誰もいないから、正規生の教室を見てみたいと思って。もしかしてダメでしたか?」
私がそう答えると先生はうんうん頷いて笑みを浮かべる。
「そうか。確かに準生徒の設備と違うからね。基本的に準生徒は数が少ないから――君、座ってみたいなら座って良いよ?」
「えっ、良いんですか! じゃあ早速!」
そう言ってバスティアンは真っ先に椅子へ向かう。折り畳んでみたり座ってみたりと色々試している。ヒューゴも興味があるのか一緒になって触っている。セシリアとルーシーは流石に見ているだけで触れていないけど楽しそうだ。
そんな四人を眺めていると教導官の先生が私の元にやって来て申し訳なさそうに口を開く。
「ええと……マリールイーゼ嬢。散策中に申し訳ないんだけど君と話したいと言う御仁が偶然いらっしゃってるんだ。よければ少し時間を戴けないだろうか?」
「えっ? 私に……ですか?」
きょとんとして答えると隣にいたリオンもすぐ反応する。
「それは僕も立ち会ってよろしいですか?」
「僕も構わないだろうか?」
シルヴァンもリオンに続いて先生に尋ねる。そんな二人を見て先生は少しだけ考えると苦笑して頷いた。
「ああ、リオン様とシルヴァン様なら構わないでしょう。奥の扉を入ればその方がいらっしゃいますから。それじゃあ君達がお話する間はあちらの四人は私がお相手していましょう」
そう言って先生はバスティアン達の方に行くと正規生の設備について色々と説明を始めた。それで質問したり頷いたりしているのを見ると私はリオンとシルヴァンと一緒に奥の扉に向かって近付いて行く。
でも誰だろ? 私の事を知ってる人だよね? 確かにこの前凄く知られちゃったけど話をしたいだなんて変な話だ。
そして私達は扉を開いて部屋の中へと入って行った。