31 萎える心
私はもう一杯一杯の状態だった。
絶対に勝つ――そう言ったのに勝てる気がしない。どうすれば負けずに済むのか、そんな事ばかりを考えてしまう。そうして夜もろくに眠れないまま朝を迎えてしまった。
リオンは気を使ってくれているのか朝になっても迎えに来てくれない。だけどきっと今の私はかなり酷い顔をしているから見られなくて良かった。
私の使える英雄の魔法、それは直前予知だ。だけど例え何が起きるのか分かっても身体が萎縮してしまえば避ける事なんて出来ない。こんな大々的な勝負になってしまうだなんてちっとも思って無かった。どうして私はあの時、勝負しようと考えたんだろう。そんなの分かりきってる。私は言葉でアンジェリン姫を説得出来ないと分かっていたからだ。あの人はきっと私が嫌だと言っても実行する。だってそれを止める権利が私には無いから。リオンが受け入れれば私の言葉なんて無意味だ。
部屋に据え付けられた姿見の前に立つ。髪の毛もぼさぼさで酷い顔色だ。もうこのまま勝負に出てしまっても構わないかも知れない、だなんてヤケクソ気味な考えが浮かんでしまう。
だけどそんな時だった。不意に扉がノックされる。
「……はい。開いてます……」
私がそう答えてもすぐに扉は開かれない。それで誰だろうと思いながら近付いて扉を開く。するとそこにはよく見知った懐かしい顔があった。
「……ルイーゼ、久しぶりね」
「……ローディ叔母様……え、え、どうして……?」
「そりゃあリオンから手紙が届いたからよ。だけど片道一〇日も掛かるから流石にギリギリだったけれどね? だけど何とか間に合って良か――」
だけど私はもう我慢出来なかった。叔母様に抱きついた途端に涙が溢れてしまう。叔母様はしゃがむと私を抱き寄せて震える背中を優しく撫でてくれる。
「……ほら、もう大丈夫よ。前にも言ったでしょう? 何かあればすぐに駆けつけるからって」
「……うん……」
「――だけどリオンにルイーゼを守る様に言っていたのに結局逆に守られる事になるだなんてね。本当に情けない話だわ。でも私に連絡を寄越した事だけは評価してあげるわ、リオン?」
「……え、リオンが?」
そこで顔を上げると叔母様の向こうでリオンが居心地悪そうに立っている。そんな彼は言い訳する様に首を竦めた。
「……だって母さん、仕方ないだろ? リゼは僕相手だと意地を張って『助けて』って言ってくれないんだ。まあ今回は僕もどうすれば良いか分からなかったから。だから――リゼ、本当にごめん。僕には母さんを呼ぶ位しか思い付けなかった」
「……ううん……ありがとう、リオン……叔母様……」
だけどそう言ってしがみつく私を引き剥がして叔母様は楽しそうに笑う。
「さあ、時間がないんでしょう? 私が着付けと化粧をして上げる。それにまだルイーゼには教えていなかった事があるからそれもしっかり教えてあげないとね。だけどまさか教える機会がこんなに早くなるだなんて思って無かったから」
「……え、こんなに……早く?」
「本当ならルイーゼが社交界デビューして初めて舞踏会に出る前に教えてあげるつもりだったの。リオンもそうだけどクレメンティア義姉さんも物心が付く前に社交界にいたから、きっと教えてあげたくても教えられないと思って――ルイーゼ、これは『貴族の女の戦い方』よ。その方法を私が教えてあげる」
そう言うと叔母様はすぐに着付けの準備を始めた。私が準備していた叔母様から貰ったドレスを見て嬉しそうに笑う。そして私はドレスを着せられてから鏡台の前に座らされる。私の髪に手を入れながら叔母様は静かに話し始めた。
「……良い、ルイーゼ? さっきの様子だときっとルイーゼはどうすれば負けずに済むかを考えていたんじゃない?」
「……え……うん……」
「でもね、それじゃダメなのよ」
「え……どう言う事?」
「それはね、負けなければ良いって事は勝てなくても良いって考えてるのと同じだから。ダンスの練習を見てあげてた頃もよく言ってたでしょう? 気後れすれば反応も遅れる。反応が遅れれば見苦しくなる。だから踊らされるんじゃなくて自分から踊る様にしなさい、って。もう忘れちゃった?」
「……ううん。忘れてないけど……でも、あの舞台を見ちゃうと、大勢の人達に見られると思うと怖くて……」
「それは集中していない証拠よ。他の事を考えているから気になってしまうの。ルイーゼは気が弱い処もあるから自分を見る全員を捩じ伏せろ、とまでは言わないわ。だから舞台に立った時は自分が信じる事だけを信じなさい。他人の評価や視線なんて全部無視して構わない。リオンの為に踊るのならそれ以外を見るのは止めなさい。他に目移りする方が恥ずかしい事よ?」
それは……何処かで聞いた話だった気がする。私はふと視線を横に向けた。そこではリオンが立っていて私と視線が合った途端に楽しそうに笑う。それで私は昔の事を思い出していた。
リオンがまだ四歳だった私に言ってくれた事だ。他の誰も話を聞いてくれなくなって私の事を責めるとしても、リオンだけは責めずに一緒にいてくれる――あの時そう約束してくれた。
なら私もリオンだけを見ていれば良い。他の人達が私を否定してもリオンだけいてくれたら良い。他の人に良く思われなくても構わない。なのに他の人達にも悪く思われたく無いだなんて、そんな色気を出す余裕なんて元々私には無かった筈だ。
「……分かったよ、叔母様」
凄く不思議だ。叔母様が言ってくれた言葉でそれまで悩んでいた自分が納得してる。きっと緊張したり怖がったりするのは自分が納得出来る落とし処が見つからなかったからだ。だけどもう大丈夫。絡んでぐちゃぐちゃだった糸が解けて一本の糸だけが綺麗に見えている。そんな感覚が私の中にあった。
「――さあ、出来た。可愛いわよ、ルイーゼ。まあ、もし余裕があれば全部喰らい尽くすつもりでやってご覧なさい? 貴女はアレクトーの血統、英雄の子よ。貴女の前に立ち塞がる全てを薙ぎ倒して構わない。大丈夫、何があっても私が全部責任を持ってあげる。私の娘として頑張ってきて頂戴、ルイーゼ?」
「……うん。私、何とかリオンの事だけ考える様にするね。だから叔母様、見ててね?」
私がそう答えると鏡に映った叔母様の笑顔が見えた。