286 お姉ちゃんの戦略目標
アンジェリン姫とマックス王子が婚姻手続きをしている部屋に向かいながら私は王様が言っていた事をずっと考え続けていた。
確かに王様が言う通り、お姉ちゃんもマックスも抜けてる部分がかなり多いと思う。だけど今までと今回を比べると何か引っ掛かる。私はアンジェリン姫を初めて会った時からずっと見てきた。あの抜け目の無いお姉ちゃんが果たして見落とすだろうか? とてもそうは思えない。
「――お姉ちゃんは王女様に会って何を確かめようとしてるんですか?」
廊下を歩いているとクラリスが尋ねてくる。それで私は答えた。
「んー……何かね。王様のお話がちょっと違う感じがするのよ」
「違うって……どう違うんです?」
「……アンジェリンお姉ちゃんって実は物凄い努力家で王族として役割をこなす事に一生懸命だったんだよね。なのに途中の部分を考えてないって何か変だと思うのよ。クラリスはまだ入学してなかったから知らないと思うけどお姉ちゃんって前はもっと尖ってたんだよ?」
「はぁ……そうなんですか?」
だけどクラリスはいまいち良く分かってないみたいだ。歩きながら首を傾げている。それを見て苦笑しながら私は昔を思い返していた。
私とリオンが準生徒としてアカデメイアに入学して少しした頃、アンジェリン姫はリオンを結婚相手にしようとした。それでリオンを取られると思った私は思い切り反発して勝負した。その時にアンジェリン姫の代役として出てきた三人の内の一人がジェシカ・ゴーティエ。その後孤児院のメリアスの家に赴いた時に起きた暗殺未遂事件の実行犯で、獄中で自殺してしまったアカデメイアの先輩生徒だ。
そのジェシカ先輩を焚き付けたのがベアトリス。こうしてみるとお姉ちゃんとの勝負から既に間接的にベアトリスが絡んでいる。ジェシカ先輩はお姉ちゃん曰く、かなり思想を歪められてしまっていたそうだ。
だからお姉ちゃんはベアトリスに対して良く思ってない。まああの頃は私もまだ今より体力がなくて勝負が終わった後で倒れちゃった所為でお姉ちゃんは私に対して強い負い目を抱いていた。すぐにお母様と叔母様の手で『再教育』をさせられた。まあ言い方こそ怖いけど要するに淑女として叩き直すって内容だったんじゃないかと思ってる。
その結果、アンジェリン姫は随分丸くなった。あれから私に対しては少しベタベタする様になって『お姉ちゃんと呼びなさい』とも言われた。
だけど多分、アンジェリン姫の目的は最初からそれだったんじゃないかと私はずっと思っている。お姉ちゃんは陰謀っぽい事をよく口にするけど単に回りくどいだけで人付き合いが下手だ。例えばマリエルが誤魔化すみたいに派手な感情表現をするみたいにきっとお姉ちゃんも自分の本心を誤魔化して隠す為にわざわざ策略みたいな言い方をする。
でもさ? それって私もコミュ障で人付き合いが苦手だから分かるんだけど、相手とのコミュニケーション方法が分からなくて取り敢えず派手で強調した言い回しをしてるだけなんじゃないかな。
人間って不思議な物で、そう言う時って少し茶化した言い方で笑い話にしようとする人が多い。無理な話題振りだから当然滑り気味だけど相手もそれに合わせようとするから微妙な空気になり易い。実際に仲良くなれるのはそこから更に時間が掛かる。マリエルが空元気だったみたいにお姉ちゃんは自分がそう言う陰謀系お姉ちゃんとして振る舞っていたのかも。
いやまあ、マリエルの場合は陽キャデビューを狙ってただけかも知れないんだけどね? 私と初めて出会った頃は凄く陰気だったし、それを覆したいと思ったのかも知れない。結局その自分のイメージに沿ってしか行動出来ないジレンマだってあったんだろうな。
つまり……アンジェリン姫も何か隠してるんだと思う。それを直接尋ねたい。もし私を見て饒舌なままならきっと正解だ。だってお姉ちゃんは私に対して普段から過剰な振る舞いをしがちだし。
クラリスは何か言いたそうな顔だけど何も言わない。私を伺うみたいに少し下から見上げるだけで無言で隣を歩いている。そうして先導する侍女の人が部屋まで案内してくれると私とクラリスは静かに扉を開いた。
アンジェリン姫は長椅子に座って辛そうに肘掛けにうつ伏せている。どうやら本当に体調が悪いみたいで顔色も悪い。口元とお腹を押さえながら強く目を閉じている。その様子は婚姻式でのエマさんと全く同じだ。
マックスは少し離れた椅子で書類にサインをしている。時折隣の書類に手を伸ばして忙しそうに見ているからきっとアンジェリン姫の分も一人で処理してるんだろう。私とクラリスが入ってきた事にも気付いていない。
「……あら……マリー、どうしたの……? ああ、だけど……あの時のエマさんが、どれだけ大変だったか、よく分かるわ……」
気配で気付いたのかアンジェリン姫は顔を上げる。だけどやっぱり顔色が悪い。なのに私の顔を見た途端に不敵に笑って見せる。きっと今、あの時のエマさんみたいにつわりで気分が悪くなっている筈なのに強がって演技をしてる様にしか見えない。そしてそんな話し声でやっと気付いたのかマックスが私とお姉ちゃんを振り返って苦笑した。
「む……ああマリー、すまんな。アンジェは体調が悪い様でな。仕方ないから婚姻の手続きを私が一人でやっている。もし良ければアンジェに付き添って見ていてくれると助かる」
「……あのさ、マックス。『つわり』って知ってる?」
「うむ? ああ、妊娠して女性が体調を崩す事だろう? しかしまだ先の事だと思うのだが……だが女性は元々体調を崩し易いと聞くしな」
それを聞いて私は内心呆れていた。つわりは妊娠すると早ければ一ヶ月位から始まって四ヶ月位まで続く物だ。これは出産の為に身体を作り替えていく様な物でその変化で匂いに敏感になったりする。生きながら別物の身体に変わるんだから当然体調も崩す。フランク先生からそう言う説明を聞いているしきっと王宮侍医だって似た説明してる筈だ。なのにマックスはその事に全然気付いてない。男ってそう言う事に無頓着なの?
だけどそんなマックスを見てアンジェリン姫は何も言わない。それ処か何処か優しい目で彼を見つめている。その様子を見てやっと気付いた。
「……ねえ、お姉ちゃん?」
「……うん? 何、マリー……?」
「あのね、もし違ったらごめんね?」
「……だから、何……?」
それで私はアンジェリン姫に近付くと誰にも聞こえない様に耳元で囁く様に呟いた。
「……もしかして、お姉ちゃん――マックスが本気で好きでしょ?」
「…………⁉︎」
私がそう口にした途端、お姉ちゃんの顔色がはっきり変わる。元々白くなっていたのに血の気が引いたみたいに青白くなった。それに動揺したみたいに目が左右に泳ぎまくっている。それで私は確信した。
「……お姉ちゃん、マックスに一目惚れしたんでしょ?」
「……な……な、何を……」
「だってお姉ちゃん、マックスと話す時って口数増えてるし。お姉ちゃんは自覚してなかったみたいだけどさ? 何だか政略結婚をするみたいな話をしてたけど、どう見てもお姉ちゃん、ウキウキで浮かれてたよね?」
「…………」
その途端、アンジェリン姫の青白かった頬に僅かに赤みが差した。
そう――お姉ちゃんはマックスに一目惚れをしたのだ。それをわざわざ政治的な結婚や作戦って誤魔化そうとした。元々私に対しては口数が多い方だったけどよく考えれば男性相手にアンジェリン姫は余り話さない。
この世界では女は男相手に饒舌になる方が少ない。もしかしたら準生徒の頃にリオンと婚約を考えたのも意識せず話せたから? そんな相手自体殆どいないからちょっと意識しちゃったんじゃないかと今になって思う。
そして王様の話が食い違っている気がしたのも気の所為じゃない。元々目的が違うんだから考える部分も違う。王様はアンジェリン姫が政治的な考えで今回の事を引き起こしたと考えてるみたいだけど実際はマックスと結婚したかった。当然そうなると戦略に対する途中経過、王様が言う戦術だって大きく違ってくる。アンジェリン姫の最大の目的はマックスと結ばれてそれを周囲に邪魔されない事だと思う。要するにマクシミリアン王子と全く同じでアンジェリン姫も別の意味で私を出汁にしてたって事だ。
「……お願いマリー……マックスに言わないで……」
消え入りそうな声でそう言われる。流石に私だってそう言う恋愛感情に口を挟む程野暮じゃないしそう言うのは自分で言うべきだ。だけどそんな一言を聞いて私はやっと心底安心していた。だってお姉ちゃんは自分を犠牲にして結婚するんじゃなくて望んでこうした事が分かったから。
「……分かったよ。でもちゃんと自分で言わなきゃダメだよ?」
「……うん……」
「だから別の事は言うね――マックス!」
「……え……?」
それで私がマックスを見て声を上げるとアンジェリン姫は怯えた様子に変わる。それでも振り返った王子に私ははっきりと言った。
「うむ? どうした、マリー?」
「あのね。お姉ちゃん、これってつわりが始まってるよ?」
私がそう断言するとマックスの顔色が変わる。どうやら本当に分かってなかったみたいで途端にオロオロとし始めた。
「な……何だと⁉︎ いやまさか、まだ一月程度だぞ⁉︎」
「あのね……それくらいで始まるんだよ。エマさんだってそれ位から始まって最初大変だったんだからね? 多分この後、ろくに食べ物を食べられなくなるからマックスはもっと気を配らなきゃダメなんだからね?」
「わ、私は……どうすれば良いのだ⁉︎」
「そんなの決まってるでしょ。ちゃんとお姉ちゃんの身体を労ってあげなきゃ。赤ちゃんが産める様に今、お姉ちゃんの身体は準備を始めた処なんだからね? これから三ヶ月は辛いんだから大事にしなきゃダメだよ?」
マックスは呆然としながらアンジェリン姫を見つめる。そのまま傍に膝をつくと手を取って苦しそうに尋ねる。
「……アンジェ、何故言ってくれなかったんだ! 私は自分がどれだけ物を知らないか分かっている! ちゃんと言ってくれないと――」
だけどそんなマックスを見てお姉ちゃんは覚悟を決めた顔になった。少し躊躇しながら、だけどはっきりと口にする。
「……マックス。会った時からお慕い申し上げていました。こんなに誰かを好きになったのは初めてなの。だから、その……」
「……アンジェ……」
そのまま二人は黙り込んでしまう。それで私は苦笑するとまだ二人にちゃんと言わなきゃいけない事を伝えてなかった事を思い出した。
「……そうだ。マックス、お姉ちゃん」
「……うむ……なんだ、マリー……?」
「……ええと……マリー……?」
「来年の七月か八月位かな? 二人共おめでとう。二人の赤ちゃんが産まれるんだよ? マックスはお父さん、お姉ちゃんはお母さんになるんだよ」
私がそう言うと二人は一瞬キョトンとした後再び見つめ合う。そして最初に口を開いたのはマックスの方からだった。
「……私が、父親に……そうか。そうだった――」
「……マックス……?」
「――アンジェ。私も君を愛している。例え今回の様な事件や問題がなかったとしても私もきっと、君と結ばれる事を望んだだろう」
そして二人は抱き合う。そんな様子を眺めながら私もやっと肩の荷が降りたみたいに気が楽になっていた。だけどそんな私を見つめてクラリスが少し呆れた様子でボソリと呟く。
「……まるで舞台みたいでした――でもルイーゼお姉ちゃんはどうして自分の事以外は気付けるのに自分の事はさっぱりなんですか。確かルーシーお姉ちゃんの時もそうだったって聞いてますけど……」
「んー? そりゃあクラリス、自分の事は分からなくても他人の事は自分の責任じゃないからね。その分客観的に見る事が出来るんだよ?」
「……まあ、良いですけど……でも……まあ、良かったです」
そう言ってクラリスも二人にお祝いの言葉を告げる。気恥ずかしそうに首を竦めて笑う二人を見ながら私は、やっぱりアンジェリンお姉ちゃんはなかなかの策士だと思っていた。だって目標を達成する為に戦術も考えて実行に移してた訳だし王様が言うみたいな政治的な目的じゃなかった。
だけど……これで来年、赤ちゃんを二人乗せた馬車でイースラフトに行く事になるのか。まああの馬車だし大丈夫だと思うけど。とにかく何事もなく、平穏に二人の赤ちゃんが産まれれば良いな。そんな風に考えて私は苦笑するしかなかった。