283 ベアトリスの謎
リオンが馬車をバスティアンから借りる約束を取り付けてからは少し忙しい日々が続いた。授業もあるしダンス講習会もある。特にグレフォールに行くより日数が掛かるから私の体力強化も必要だ。
ダンス講習会については技術的な面で教導官の先生達に説明する事は殆ど無い。現在大人の先生達にとっては社交界でのダンスなんて当然過ぎる日常的な物だ。だけど分からない生徒が分からない事が分からない。上流貴族なら社交界に出る前から親に連れて行かれるから空気に馴染み易いし特別な場所に行く感覚も薄い。まあ私は行った事はないけどセシリアやルーシーもある程度は連れて行かれた事があるそうだ。
だから私が先生に説明するのは『何が分からないのか』を理解して貰う事から始める必要があった。基本的に男爵や子爵の子供は親が社交界に参加しても連れて行かれる事がかなり少ない。余程懇意にしている上流貴族が子供を連れて行く時にその相手をする為に同伴させる程度だ。元々男爵家や子爵家は地位が低い分社交界では本来の目的に忙しい。上流貴族との交流で名前を覚えて貰う為に奔走する。要するに出世の努力をする為に参加しているのに子供が一緒だと邪魔にしかならない。
当然そうなると庶民達が踊るダンスの方が馴染みが深くなる。すると舞踏会で踊るダンスのタイミングが分からなくなる。一般庶民の踊るダンスは基本的に二拍子程度の簡単なリズムで社交界のダンスでの三拍子、四拍子、六拍子に疎くなる。動きにメリハリを付けろと言われてもどうすれば良いか分からない。要するに方法論が曖昧で先生達も説明が苦手だ。
そこで私はダンスの教科書を作る処から始めた。経験と感覚で覚えた作法なんて何の役にも立たない。職人の技を見て盗めと言われても方法論がはっきりしてないと教える事なんて不可能だ。だから基礎の基礎から学べる様にする。勿論この世界には普通の紙なんてまだ少ないし自分達で書いて作る教本もダンスの事を書く余裕なんてない。だから木製の板に書いてアカデメイアの舞踏場の壁に設置した。
「――これは分かり易いですね。教練書が無くてもこれを見て自主練習も出来ますし、文字も少なめで」
「まあでも絵はちゃんと上手な人に描いて貰った方が良いかもです。今の絵って物凄く簡単に私達が描いた物ですし、分かり易くてもあんまり見栄えが良くないですよね」
テレーズ先生が実際に張り出した板を見て感心した顔だ。だけどやっぱり余り見栄えが良くない。何せ棒で描いた人間の動作に女性だと分かる程度に三角形でドレスを表しているだけだ。日本でいうトイレマークみたいな絵でシンプルで分かり易いけどシンプル過ぎて味気ない。
「そうですねえ……まあ絵に関してはこちらで画家や彫刻家に手配しましょうか。どうせですしアカデメイアの売りにするのも良いでしょうね」
「え? 画家の人は分かりますけど彫刻家の人も、ですか?」
「ええ、どうせですし木板ではなくレリーフとして立体的に彫った上から絵師に配色と文字を描いて貰うのです。その方が劣化し難いですし長期的に掲示し続けるのには向いているでしょうから。まあ美術品では無いのでそれ程予算も掛からないでしょう」
流石テレーズ先生。単なる講習用教材じゃなくてアカデメイアへの入学動機になる物に仕上げるつもりだ。男爵家や子爵家では子供に家の仕事を手伝わせる為にアカデメイアに入学させない事も未だ多い。当然そう言う環境で育った子供達は文化的な知識に乏しくなる。いわゆる『田舎貴族』と言われる貴族の多くがそう言う環境で育った人達だ。自分達の子供達が出世出来る為に知識を与えるのではなく、今の生活を維持する為に自分の仕事を手伝わせる――そう言う貴族は特に男爵家と子爵家に多い。
「どうするかは私には分からないのでテレーズ先生にお任せします」
「ええ、ルイーゼ。ちゃんと実績の一つになる様にして見せますからね」
「え……実績の、一つ?」
「忘れたのですか? 貴方が提案した生徒会と言う生徒組織の立ち上げも上手くいけば実績の一つになりますよ?」
ぐっはぁっ……そう言えばそんな話もあったんだっけ……そんなのすっかり忘れてたよ……。だけどこの貴族社会の中で例え学校とは言っても下流貴族の生徒が代表になる事もあり得る生徒会は厳しい気がする。それで私はテレーズ先生に素直に尋ねた。
「……あの、先生はどうして『生徒会』が良いと思われたんですか?」
「そうですね……先ず下流貴族の子供達は自分達の家の地位が低い事に慣れ過ぎて責任を背負ったり率先して考えたり出来ません。なのに親達の影響で陞爵ばかりを考えます。その結果まともに職務すらこなせなくなって不正な事に手を出す様になるのです。そういった意識を改善するきっかけになるのではないかと私は期待しているのですよ」
「……テレーズ先生、そんな事を考えてらしたんですか?」
「そりゃあそうでしょう? アカデメイアもそう言った子供達がより高みを目指せる為に創立されましたから。今はまだ随分と良くなった方なのですよ? レオボルトが在籍した頃は彼を持ち上げようとする生徒がとても多かったのですから。まあ貴方は自分から隠れようとしますけれどね?」
「……あ、あはははは……」
なんか藪蛇だったかも? だけどお兄様の頃ってそんな感じだったから全校生徒の憧れになったのかも知れない。当時のアカデメイアは王族が在籍してなかったからお兄様が一番地位の高い存在だもんね。そりゃあ女子全体からみて唯一の王子様みたいな物だし。いわゆる貴公子が一人だけで今でも憧れてる子が多いのはそう言う理由があったのかも。それに英雄の正当後継者だし純粋に男女問わず慕われてたんじゃないかな。
「……ですけどね、ルイーゼ。貴方は引っ込み思案で逆に目立たない様に自分を消そうとしているみたいで心配していたのですよ。特に準生徒の頃は悪い目立ち方をしてしまって大変な目に遭っていましたからね」
「……私、そんな風に思われてたんですか?」
「だって貴方、いつもリオンの後ろに隠れていたでしょう? それは今も同じですが貴方の場合、責任を課された場合はいずれも真面目にちゃんとこなしてきました。それに事情も知った今ではこの子は逃げようとしていたのではなく、何かに立ち向かおうとしていたのではないかと……私はねルイーゼ、貴方を特別扱いしませんが頑張った事は正当に評価しますよ」
そう言うとテレーズ先生は私の背中を撫でる。それで何とも言えない気持ちで胸が一杯になって私は俯いてしまった。
きっと……テレーズ先生は私を特別扱いしてくれている。だけどこれは私が私だからじゃなくてちゃんと評価してくれた結果、特別扱いするに値すると考えてくれた。それを「正当に評価している」と言ってくれている。
それに先生は私の事情についても深く知らない。単に自分が死ぬ未来を英雄魔法で知った程度しか知らない。その事で特別扱いをするんじゃなくてちゃんとやった事を評価して特別扱いしてくれる。テレーズ先生は本当に凄く良い先生だ。きっとこの先生に会えて私は幸せだ。
「……テレーズ先生は、やっぱり凄い先生ですね……」
だけど私がそう言うと先生はふと寂しげに笑う。
「……いいえ。私も唯の人間です。もし私が本当に素晴らしい教師であればベアトリスやクロエの様な生徒もきちんと導けたでしょう。でも私にはそれが出来なかった。出来たのはそう言った失敗を繰り返さない様に自分を戒める位です。もし貴方にとって私が良い教師だと言ってくれるのであれば、それはきっとちゃんと教えられなかった生徒達が私に教えてくれた結果なのですよ。『躓きは歩みを正す』と言うでしょう?」
だけどそう言われて私はよく分からなくなっていた。
私にとってベアトリスはやっぱり敵に近い存在だ。だけどテレーズ先生は最初から嫌ったりしてる様には見えない。クロエ様も縁が切れた相手を見てる感じじゃない。それ処か何処か彼女を信じてる節もある。伝染病をばら撒いたりはしないと言ってたけどお兄様はドラグナン王国が関わっている可能性が高いって考えてるみたいだった。
結局、ベアトリスは一体何がしたいんだろう? 英雄一族を目の敵にする理由もはっきりしないし私を嫌っている理由だって分からない。確かに以前お茶の講習会で揉めたけど逆恨みにしては計画がどれも感情的じゃ無さ過ぎる。むしろベアトリスより実行者の方が感情的だ。獄中で自殺したジェシカ・ゴーティエにしろ、庭園に現れたタニア・ルボーにしろ、卒業生でアカデメイア襲撃に関わった男性のジェラール・ベラニーだって王国に対して恨みがあるみたいだった。なのにベアトリス自身は着実に権力を手に入れて今では王妃にまで成り上がっている。
クロエ様を見る限りきっと親友のベアトリスも論理的だ。目的を達成する為にまるで遊戯盤の駒を動かすみたいに進めている。それに彼女が口にしたらしい『こんな世界は潰してやる』と言うのも良く分からない。
なんだかモヤモヤする。ベアトリスを良く知る人程こんな事になっても彼女に対して悪い印象を抱いていない。それにマリーアンジュって名前も私とアンジェリン姫の名前から取った偽名じゃないかってお兄様が言ってたけど、日本の記憶には『マリアージュ』って言葉があってそれとも発音が似てる気がするんだよね。単語だけで意味まで知らないけど。
私が考え事をしている最中もテレーズ先生は黙って穏やかに笑って見ている。そんな処に突然誰かがやってきた。息を切らせたクラリスだ。
「――あ、お姉ちゃん! やっぱりここでしたか!」
「……ん? あれ、どしたのクラリス? そんなに慌てて……」
だけどクラリスは私の隣にいるテレーズ先生を見ると何かを言い淀む様に口を閉じてしまう。彼女は少し迷いながら私に小さい声で言ってきた。
「……あの、お姉ちゃん……ちょっと良いですか?」
「うん? なあに、あんまり他の人に聞かれたくない話?」
「多分、まだ余り人に聞かせない方が良いと思うので……」
「ああ、前のリオンが言ってた内緒話みたいな感じなの?」
それで私はクラリスに引っ張られて先生から離れた。舞踏場の隅にまで移動するとクラリスは声をひそめて私の耳に小さく囁く。だけどその話を聞いた途端、私は思わず大声で反応してしまっていた。
「――な⁉︎ アンジェリンお姉ちゃんが妊娠かもってどう言う事⁉︎」
「ちょ、お姉ちゃん! なんで言っちゃうんです!」
「え、だって……え、どう言う事⁉︎」
「あ、あうう……ええと、まだ決まった訳じゃなくて……その、お部屋でお姉ちゃんが戻るのを待ってたんですけど、そしたら気分が悪くなったみたいで……その様子がエマお姉さんと全く同じだったんです……」
多分クラリスがそう言うって事は可能性が高い。だってこの子、お医者様の子でクロエ様の出産にだって何度か立ち会ってる。それにエマさんの症状とかどうした方が良いとか知識もあるし。
え、でも……なんで⁉︎ 本当に一体どう言う事なの⁉︎
それで軽いパニックを起こしているといつの間にかすぐ傍までテレーズ先生がやってきて私とクラリスを見下ろしていた。表情は何とも言えない感じで少し強張っている様にも見える。クラリスも少し怯えた顔で無言で先生を見上げている。そんな私達を見てテレーズ先生は静かに尋ねた。
「……どう言う事です? アンジェリン姫が妊娠? それは本当の話なのですか、クラリス・デュトワ?」
「あ、えっと……その、まだちゃんと分からない、です……」
「そうですか。それで……アンジェリンは今、何処にいるのです?」
「え、えっと……今、お姉ちゃんと私のお部屋で横になってて……」
「……分かりました。では行きますよ、ルイーゼ、クラリス」
そう言うとテレーズ先生は舞踏場の扉に向かって歩き出す。だけど少し早歩きみたいにも見える。私は訳が分からないまま、クラリスと一緒に先生の後に慌てて続いた。




