259 医者になりたい子
さて、じゃあお兄様の魔法を実際にどうやって確かめるのかと言う話になった時だ。いきなり扉がノックされた。相手はこの特別寮の管理者だ。
「――申し訳ございません、アレクトー様。こちらにデュトワ家のフランク医師がいらっしゃるとお聞きしたのですが……」
「ええ、フランク先生ならいらっしゃいますわよ?」
「――ピエール・デュトワ氏より緊急の書簡が届いております。どうぞ目を通して頂けます様、お願い申し上げます」
そう言うと扉の脇にある小さな扉からカコンと言う音が聞こえる。書簡だけを届けられるポストみたいな物らしい。そこから丸くまとめられた書簡を取り出すと叔母様はフランク先生に差し出した。
「……ピエールから……実は本日の午後、バルボー子爵家に診察に伺うお約束をしていたのです。ご子息がお風邪を召されたそうで、私の代わりに息子のピエールが先に伺っている筈なのですが……」
「えっ、お父さんが?」
「まあ、それは……申し訳ありませんフランク先生。無理を言ってこちらに来て頂いた所為ですわね」
「……いえ……」
だけど書簡を開いて読むとフランク先生の顔が険しく変わる。全部読み終えると先生は深刻な顔で話し始めた。
「……息子によるとどうやらバルボー子爵家のご子息は伝染病のルジョル病に感染していた様です。息子が赴いてすぐに子爵様と奥方様が同じ症状で倒れられたとか。顔に赤い発疹が出ているので間違い無いでしょう」
ルジョル病と言うのは日本で言う麻疹みたいな物で風邪と似た症状を引き起こす伝染病だ。風邪と同じく特効薬のない病気だけど感染力が異様に高くて人から人へどんどん感染する。子供の方が症状が悪化しにくくて一度感染すれば二度と罹らないけど大人になってから感染発症すると合併症を引き起こして死に至る事のある怖い病気だそうだ。
私の日本の記憶によると割と日常的に聞かれる病名でそんなに大騒ぎをする程でも無い印象が強い。
「……でも、すぐに治る病気……ですよね?」
「いいえお嬢様。ルジェル病は忘れた頃に大流行する伝染病です。感染経験のない者は必ず感染するので私の様な幼少時に感染経験のある者が表に出なくなった頃に大流行するのです。大体一〇年に一度は流行しますが早い場合は二、三年でも発症者が大勢現れます」
「え……そんなに怖い病気なんですか⁉︎」
「ええ。抵抗力のない幼い子供が感染すると命を落とす事もありますし感染経験のない大人が感染すると重症化し易いのです。特に平民は治療手段が少ないので子供が大勢亡くなります。症状こそ風邪に似ていますが高熱で身動きが取れなくなって頭にまで病気が回るとほぼ死亡します」
ああ……そうか。ここは日本程医療技術が発展していない。抗生物質みたいな物も無いし血液検査も出来ない。かと言って私も名前を知っているだけで具体的に抗生物質がどんな物なのかを知らない。知識無双したくても出来るだけの知識がない。
「よろしいですか、お嬢様は体力が余りありませんし身体も同じ年頃の者と比べるとかなり弱いですからこの病気にはお気を付けてください。とは言っても感染力が強過ぎるので注意する余裕がないかも知れませんが……」
え、何それ怖い……高熱が出て寝込むとか私が感染したらそのまま死んでもおかしくない気がする。私の身体は見た目を裏切らないレベルで性能もかなり貧弱だ。と言うかこれ、もしかしてマリールイーゼの死因の一つだったりする?
だけどそんな時、クラリスがハッとした顔になった。彼女はお爺様のフランク先生の袖を掴むと少し緊張した様子で話し掛ける。
「……うん? どうしたんだいクラリス。お前もルジョル病に罹った事がないんだから気をつけなくてはならないよ?」
「あの、お爺様! アレクトーの叔母様が風邪だった事が分からないって仰ってましたよね?」
「うむ? ああ、そうだね。それがどうかしたのかい?」
「もしかして……叔母様は風邪じゃなくて、ルジョル病だった可能性はありませんか? 私、叔母様の頬に赤い発疹があったのを見てるのですよ」
「……何だって⁉︎」
フランク先生は驚いた顔になってクラリスを、そして私を見た。これ、もしかして私とクラリスも感染してない? え、これってかなりガチ目にやばい気がする。だけどそんな中でクラリスは続けた。
「でも多分、感染――と言うかもう治ってると思います。あの時はすぐにレオボルト様が英雄魔法を使われましたし、その中で三日間いましたから発症自体してないと思います。問題はそれでもう感染しないのかどうかが分からない事です。だけど叔母様のお部屋を何度も伺ってますし、一緒にいるだけで罹るのならその時点で感染し直してると思います」
あ……そっか。感染する前に巻き戻すのなら抗体なんて出来てないからまた感染する可能性がある。確かあの時って帰る頃にはもうお兄様は英雄魔法を解除してた筈だ。お母様とお別れする時に挨拶もしてるしウイルスが残っていればそこでまた新しく感染し直してもおかしくない。
だけど――この場合ってどうなんだろう? もし時間を巻き戻しているのなら抗体が出来てない。だけど元に戻ろうとするのなら病原菌に対して抗体が出来た上で元気な状態に戻ってる? どうもその辺りの判断基準が微妙に曖昧で物凄く困る。それはクラリスも同じ事を考えたみたいだ。
「なので――お爺ちゃん。私も連れていってください」
「……何だって? クラリス、それは本気で言っているのかい?」
「はい。そこで私が感染しなければレオボルト様の英雄魔法は感染する前に巻き戻したんじゃなくて、感染した上で元に戻ろうとする力を付与する事になります。私はお姉ちゃんと違って元気ですからもし病気になっても耐えられると思います。それに私、まだ子供ですからね?」
そう言って笑うクラリス。いや……だってこれ、本当は物凄く怖い事をしようとしてるんだよ? そんなの怖くない筈がない。実際に大勢の子供が亡くなる病気なんだからクラリスだって絶対に怖い筈だ。
だから私にはどうしてクラリスが笑えるのか分からなかった。だけどそんなやりとりをする祖父と孫娘を見て叔母様が真剣な顔に変わる。
「――分かりました。クラリスちゃん、本当に良いのね?」
「はい、クローディア叔母様。私は将来お医者さんになりたいのですからこれ位は自分で確かめたいです。患者さんで試す位なら私は自分の身体で調べたいです。だってお爺ちゃんと同じお医者様になりたいんですから」
それを聞いてフランク先生は激しく苦悩する顔に変わる。だけど結局、しばらくすると辛そうに孫娘に微笑み掛けた。
「……分かったよ、クラリス。もしお前が病気になってしまったらお爺ちゃんが必ず治してやる。お前は立派なお医者様になりたいのだものね?」
「……はい! お爺ちゃんみたいなお医者様になりたいですから!」
だけど私はこの時、どうしてクラリスがそこまで自分の身を犠牲にしてまで確かめたいのか分からなかった。私にとってクラリスも守りたい対象で危険な事は出来る限りして欲しくない。胸の奥がざわざわする感触。
「――じゃあレオボルトを呼んで連れて行きますわ。馬車の中で子爵家の敷地に入って馬車の中から魔法を使わせるわ。レオボルトの魔法範囲ならそれで充分屋敷内の全員を含められる筈よ。義兄さん達の家の敷地を全部範囲内に納められるのならそれ位は余裕で出来る筈だわ」
「……分かりました、クローディア様。よろしくお願い致します」
「ええ、任せてくださいなフランク先生。もし何かあれば私の力を使ってでも何とかして見せますわ」
本当にそんな事をして欲しくない。何か追い立てられる様な気持ちで、だけど私はそんな三人に何も言う事が出来なかった。