214 幸せになる為に生きる
クロエ夫人と会ってから私達はアカデメイアの日常に戻った。だけど夫人が話してくれたコレットの過去について本人には話していない。なにせコレット自身ちゃんと覚えていない事だしわざわざ掘り起こして知らせる必要なんて無いからだ。コレット自身が知りたいと言えば話す事も考えるけどそうじゃないなら余計なお世話でしかない。
だけど『アカデメイアの日常』とは言ってももう既に夏季休暇に突入している。相変わらず学校には大勢の生徒が残っていて講習会や舞踏会の準備でおおわらわだ。あの事件で私もリオンも授業に出る時間を抑えていたから参加して学票を稼がないといけない。そこで早速予定を聞こうと私達はテレーズ先生の元に赴いていた。
「――マリールイーゼ、それでクロエは元気でしたか?」
「はい、四人目の赤ちゃんが産まれた後で大変そうでしたけどとても幸せそうでしたよ? でもテレーズ先生に色々教えて戴いていた事を目の前で実践されてるみたいで、ちょっと色々勉強になりました」
「そうですか……あの娘は一見大人しくてのんびりしている様に見えますが中々の策士ですからね。一年生だった頃も一手打てば五つ六つが返って来る様な事ばかり企んでいたみたいですから」
うへ、やっぱりあの人ってそんな頃からあんなだったんだ……テレーズ先生も笑ってはいるけど苦笑に近い。やっぱりクロエ夫人は貴族としては物凄く有能というか有能過ぎる気もする。アンジェリンお姉ちゃんも大概だけど良い勝負なんじゃないかな。でも王族と良い勝負な時点で男爵家出身なのに伯爵家に嫁げたのも当然だったのかも知れない。
「……あの、先生。そう言えばクロエさんが言ってたんですけど……」
「はい? 彼女が何か言ってましたか?」
「はい。クロエさん、まだアカデメイアに在籍していて休校してるだけって仰ってたんですけど……それって本当なんですか?」
「ええ、そうですね。彼女は在籍しています。基本的に在学中に結婚しても放校や退校になりません。子供を産んだ後で復学して卒業を目指す生徒は割と多いのですよ。まあですが彼女の様に一年目に結婚して子供を四人も続けて産む生徒は初めてですけれどね?」
「あ、あはは……まあそうでしょうね……」
「それで――今回、クロエに話を聞きに行って得た事はありましたか?」
だけどテレーズ先生に尋ねられて私は言葉に詰まった。今回ハイレット伯爵家に赴く為にテレーズ先生にはフランク先生に言った嘘と同じ話をしている。いわゆる『近い将来結婚する時の為に心構えや経験談を聞いておきたい』という嘘だ。本当はベアトリス・ボーシャンの親友とされた女性がどんな人なのか、もし分かるのならベアトリスが何をしようとしているのか聞き出せればと考えていた。
でも実際はクロエ夫人は何も知らなかった。昔のベアトリスについて話を聞けた事は大きい。だけどあの人はあの人なりに考えて単独行動をしただけだ。多分ベアトリスにはどうして自分が伯爵家に嫁ぐのか、きちんと説明はしていない。だってそれを言えばきっとベアトリスは親友が己が身を犠牲にして妹を助けようとしたと考える筈だから。
とは言ってもそれは本当に聞きたかった話であって先生に言った嘘とは全然違う。先生の質問に答えられる様な話は一切していない。それで咄嗟に答えられず黙っているとそれまで黙っていたクラリスが顔を上げた。
「……先生、お姉ちゃんはクロエ様とお話して、自分もいつか赤ちゃんを産む事になるのかと意識してます」
「まあ、そうですか。そう言った事を意識出来たのなら良い事ですね」
「……クラリス……」
テレーズ先生が頷くのを見て私は勝手に話すクラリスを遮ろうと名前を呼んだ。だけどクラリスはそんな私を見ようとしないまま先生に向かって話を続ける。
「きっとお姉ちゃんはそんな考えが湧いた事に戸惑っています。だってお姉ちゃんは今まで、そう言う事を考えるのを避けていましたから――」
だけど――
「――クラリス! もう止めて!」
私が大きな声をあげるとクラリスは黙り込んでしまう。その向こう側に黙って座っていたリオンも顔を上げて驚いた様子だ。そんな中でクラリスは私を見て真っ青な顔に変わる。
「……ち、違うのです……お姉ちゃん、ごめんなさい……お姉ちゃんの気持ちは理解してます。だけど……将来に夢を持って良いと思うのです……」
怯えた様子で私を見るクラリス。だけど私はやっと自分がどうして将来について考えたくないのかを理解していた。
「……ごめんねクラリス。いきなり大きな声をあげて」
「……いえ……」
「だけど――テレーズ先生。正直にお話すると、多分私はまだまだ将来について考える事が出来ません。だって私は卒業まで生きていられないかも知れないから。リオンはそんな私と婚約してくれたけど私は結婚する未来を想像出来ません。確かにクロエさんが赤ちゃんを抱くのを見て良いなと思いました。だけど自分がそんな母親になれる姿が想像出来ないんです」
「……リゼ……」
私の言葉にリオンは顔色を変えて沈んだ表情に変わる。だけど今言った事が私の本音だ。以前にも同じ事を考えた事はあったけど今回クロエ夫人の見せてくれた具体的な将来の姿を見てやっとどうして私が恋愛に興味を持てないのか分かった気がする。
私はまだスタートラインにすら立てていない。普通の女の子として将来に夢を抱ける状況にもなっていない。溺死しそうになったり――あの時はマリエルが助けてくれたけど、いつ死んでもおかしくないのだ。
今までは周囲の皆が助けてくれたお陰で偶然だろうと何とか生き延びる事が出来た。だけどこの先はそうとは限らない。私の運命はアカデメイアを卒業するまで分からない。在学中に命を落とすのが本来の未来だから。
だけど前とは少し考えが違う。私はリオンと婚約したけど死んでしまうかも知れない私を背負わせたくない――以前はそこまでしか考えていなかったけど、今は……背負わせない為に頑張って生き延びなきゃいけない。
その為に全力で抗っていて将来の夢を考える余裕がない。何よりも私は先ず生き延びてアカデメイアを卒業しなきゃいけない。そうしないと未来を考える余裕がない。クロエ夫人が赤ちゃんを抱く姿を見て衝撃を受けたのはきっと、私自身そんな具体的な将来を考えた事が無かったからだ。
今の私には甘い夢を見る資格がない。残り三年を生き延びて元の未来を覆さない限り私には『将来』はやってこない。
「――今回、私はクロエさんのお話を聞けて良かったです。私が一体何と戦っているのかを思い出させてくれたから。きっと私は死にたくないから生き延びたいんじゃなくて、生き延びて幸せになりたいんだと思います」
隣では今にも泣き出しそうな顔でクラリスがしがみついている。リオンも歯噛みをしながら俯いている。そんな中で事情を知っているテレーズ先生は穏やかな様子のまま優しく笑った。
「……そうですか。なら良かったです」
「……テレーズ先生?」
「だってマリールイーゼ、貴方はクロエが見せてくれた様な将来を得たいと思ったのでしょう? なら今の時点で最良の経験だった筈ですよ?」
「え……でも……」
「それに先ほど貴方自身が言ったではありませんか。死にたくないから生き延びたいんじゃない、幸せになりたいから生き延びたいのだと」
「…………」
「今までの貴方は野生の獣が持つ本能で考えていたのにそれがやっと人間らしい目的で考えられる様になったのですから。そう言う目的がなければいざと言う時に踏ん張れませんからね。貴方はもっと欲を持つべきです」
「……え、欲……ですか?」
「ええ。ですから将来の夢を見ても良いのですよ。貴方が言う幸せになる為ならきっと限界だって越えられるでしょう。そう言う何かを乗り越える力になるのは結局、その人が持つ欲望や将来の夢なのですよ」
だけどそう言われても私にはよく分からない。その将来の夢を持つ余裕がないから考えられないのに、それが私の力になる? だけどそんな達観した考えはまだ私には持てそうにない。それで黙っているとテレーズ先生は思い出した様に口を開いた。
「そう言えば――貴方はエマ・ルースロットの事を聞きましたか?」
「え? エマさん、何かあったんですか?」
「つい先ほど、報告に来たのですよ。どうやら貴方達はハイレット伯爵家に出向いていてまだ話していないのでしょうね。彼女はイースラフトのアレクトー家に嫁ぐ事を決めたそうですよ。ジョナサンと一緒に私の元に来て、出来れば知人が多く集まるこのアカデメイアで挙式を執り行いたいと手続きを承りました」
「え……ちょっと待ってください、テレーズ先生! アカデメイアは結婚式まで出来るんですか⁉︎ て言うかエマさんがジョナサンと結婚⁉︎」
「勿論出来ますよ? 舞踏会だって実際に行っていますし各貴族家もやってきて社交パーティをする事もあります。それに貴族全員が王都の近くに住んでいるとは限りませんからね。学友に囲まれて挙式を執り行う事はそれ程珍しい事ではありません」
そうか、エマさん……ジョナサンと結婚する気になったんだ。きっと今が夏季休暇だから卒業する前に式を挙げるんだろうな。という事は当然、クローディア叔母様もやってくる筈だ。だって長男の結婚式に参列しない母親なんていないもの。それに叔母様の性格なら絶対に駆け付ける。
「……そっか。エマさん、幸せになってくれたらいいな……」
私が呟くのを聞いてやっとリオンとクラリスは救われた顔になった。