211 ハイレット伯爵家のクロエ
結局私はフランク先生に無理を言って何とかハイレット伯爵家に仲介をお願いする事になった。だけどその理由についてはリオンとクラリスには言ってない。と言うか思いつきでもあんな事を理由にあげてしまったのはその前に色々出た話の所為だと思う。だって一番私から縁遠いからだ。
フランク先生との交渉からおおよそ一月近く。もう七月で少し暑くなっている。でも乾燥した空気でそれほど過ごし辛い訳でもない。そんな中伯爵家から招待状が届いて私とリオン、そしてクラリスは赴く事になった。
ハイレット伯爵家は王都の近くにある領主を務める家だ。ルーシーのキュイス家は王都から離れているけど王都にある分ハイレット家のお屋敷はかなりしっかりして庭園まである豪華な建物だと聞いていた。馬車で少し揺られて到着すると聞いていた以上に立派なお屋敷でかなり驚かされた。
「――ようこそ、アレクトーの姫君。私はハイレット家の当主を務めております、テオドール・ハイレットと申します」
「あ、初めまして伯爵様。私はマリールイーゼ・アル・オー・アレクトーと申します。こちらは私の婚約者でリオン・エル・オー・アレクトー、それとこちらは……」
だけど伯爵は私が紹介するより先にクラリスの前に跪くと手を取ってにっこりと笑う。どうやら伯爵もクラリスとは面識があったらしくしっかり覚えられていたみたいだ。
「ああ、デュトワ先生のお孫さんでクラリス様ですね。妻が出産の折にはとても助かりました。再びのご来訪、歓迎致します」
「ご無沙汰しています、伯爵様。奥様とお子さん達はお元気ですか?」
「ええ、お陰様で。ですがやはりクラリス様が子供達の面倒を見てくださっていた様には上手くいきません。子供達もお会いしたがっております」
ハイレット伯爵は妙にクラリスに対しても恭しい態度だ。普通伯爵家が遥かに低い男爵家に対してここまで丁寧な応対はしない。テオドール伯爵は如何にも品が良い、いわゆるナイスミドルな感じだ。髭も綺麗に整えられていて物腰も柔らか。好感を持たない人はきっといないだろう。だけどそれでも手伝いで随行していただけのクラリスに対する態度にはとても思えない。それで疑問に思っているとクラリスが自分の目元を指差しながら小さな声で囁くのが聞こえた。
「……お姉ちゃん、ほら、私、これがありますから」
これ――ああ、魔眼かあ。そう言われてやっと理解する。きっとクラリスは赤ん坊を魔眼で見て泣く理由が分かったんだ。魔眼があれば言語化出来ない子供の気持ちが全部分かるしちゃんと分かってくれるクラリスにも懐いて当然だ。そりゃあ他の人には絶対に真似出来ない訳だよ……てかマジで万能過ぎて怖いな魔眼!
そしてそれからハイレット伯爵は領地内の視察業務があるという事ですぐに何処かへ行ってしまった。残された私達はそのままクロエ夫人の部屋へと通される。そこでクロエを見て私は物凄くびっくりした。
「……あ、すいません、僕、表に行ってます」
「あ、クロエ様、お久しぶりです。ええと、それじゃあ私は小さいお子さんの相手をしてますね? また後で来ますね、クロエ様」
リオンとクラリスはそう言ってそそくさと部屋を出て行ってしまう。残された私はベッドに座るクロエを見て何も言えなかった。と言うのも丁度赤ちゃんに授乳させてる最中だったからだ。リオンが慌てて出て行ったのはそれに気付いたからだった。
「……あー、別に構わなかったのにぃー」
「……え、いや……そんな訳にはいかないでしょ……?」
リオンが顔を赤くしながら出ていく後ろ姿を見てクロエはのんびりした様子で笑う。いやいや、普通おっぱい曝け出して赤ちゃんにお乳をあげてるのを凝視出来る男子なんていないって。
クロエは赤ん坊の身体を抱くと背中を軽くポンポンと叩く。小さなげっぷが聞こえて少し愚図りながらあやされて眠る。そんな赤ん坊の様子に私は目を奪われて黙って見つめていた。
考えてみたらこんな風に赤ちゃんを見るのは生まれて初めてで珍しくて仕方がない。私の周囲は殆どが歳上ばかりで赤ん坊に触れ合う機会なんて全く無かった。それに何だかミルクみたいな匂いが漂っている。
「あら、それで……貴方がアレクトー家のお嬢様?」
「え……あ、はい! すいません、ご挨拶もせずに……」
「いいのよー。赤ちゃんを見るのは初めて?」
「……はい」
「そう。じゃあちょっとこっちにいらっしゃい?」
「……え、でも……」
「いいから。ほら、この子の手に指で触れてみて?」
「……は、はい……」
躊躇する私にクロエは笑って手首を掴むと抱いた赤ん坊の手に私の指を近付けさせた。すると小さな手が私の人差し指をきゅっと掴む。だけどどうすれば良いのか分からない。身動き出来ずに固まる私を見るとクロエは楽しそうに笑った。
「ふふ。それでフランク先生から聞いたけど、さっき出ていった男の子が貴方の婚約者なのかしら?」
「え、はい。リオンって言って……処であの、私、どうすれば……」
「ああごめんなさいね。赤ん坊って指を出されると掴んじゃうのよね」
そう言って私の指を掴む小さな手を外してくれる。そこで私はやっと深くため息をついた。
何て言うか……赤ん坊って凄いな。そこにいるだけで存在感が物凄くあって、何を考えるにも真っ先に赤ん坊の事を意識させられてしまう。そんな風に思っていると夫人は赤ん坊を籠に寝かせる。その籠を侍女らしい人が抱えて隣の部屋に出て行くとクロエは微笑んで私に尋ねた。
「それで? フランク先生によるとマリーさん――ごめんなさいね、そう呼ばせていただくわね? 将来、婚約者と結婚する事について私とお話をしたいって伺ってるんだけど。どう言う事を聞きたいのかしら?」
だけど私はもう嘘をつく事なんて出来なかった。あんなに子供を可愛がっている姿を見て騙して話を聞く事なんて出来ない。それで叱られる覚悟をすると私は正直に話した。
「……あの、ごめんなさい。それは……貴方とお話をしたくてフランク先生に言った方便なんです。だから……本当にごめんなさい」
そう言うとクロエは「あら、そうなの?」と言って顎に指を当てて何やら考え始める。だけど少しすると笑顔で話し掛けてきた。
「――そう言えば貴方、アカデメイアの生徒なのでしょ?」
「え、はい。今は正規生の一年生です。もうすぐ二年生ですけど」
「そっかあ。じゃあテレーズ先生はご存知? まだお元気なのかしら?」
「ええ、私もテレーズ先生の授業に出てますけどとてもお元気ですよ」
「そう言えば貴方のお母様、クレメンティア様って昔は王宮でテレーズ先生に教えて貰ってたんだっけ。凄いわよね、親子揃って同じ先生って」
「……そうかも知れませんね。あの先生、凄く優秀な先生ですから」
そしてそんな他愛ない話をしていると不意にクロエは尋ねてきた。
「そう言えば……マリーちゃん、貴方は私がアカデメイアでどう言う扱いになってるのか、知ってる?」
「え……一年生で嫁いで、それで退校された……んですよね?」
だけど私がそう答えると夫人は楽しそうに首を横に振る。
「ええとね。実は私、正しくはまだアカデメイアの生徒なのよ。出産時期がきちゃったから通えなくなってね。だからまだ学籍は残ったままになってる筈よ? つまりまだ私は貴方の先輩って訳」
「……え……は、はぁ……」
「後輩が先輩とお話をしたいのなら別に理由なんていらないわ? だから騙したとか嘘をついたとか、そう言うのは気にしないで。それで貴方は私に一体何を聞きたかったの? 先輩として出来る限りお話してあげるわ」
なんか……この人、私が思ってたのと大分違う。ベアトリスと親友だと聞いてたからもっとキツい人かと思ってた。でも実際は何だかポワポワしてのんびりした性格に見える。話し方も何だか私よりお嬢様っぽいし。
「えと……有難うございます。それじゃあ……どうしてクロエさんは伯爵と結婚されたんですか? 男爵家の令嬢は普通、子爵家と結婚が関の山だって聞いたんですけど……」
だけどそう尋ねるとクロエはイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「あー、それはねー……一年生の頃にテオドール――今の旦那様の子供を妊娠しちゃったからよ?」
「……は?」
「いやー実は私、昔からああ言う歳上が好きなのよ。それで産まれたのがアランって言う男の子でね? それであの人、私にゾッコンでその後も子供を作っちゃって。アランの後に女の子二人が生まれてさっきの子はローランって言う男の子なのよ。お陰で伯爵家のお義母様も大満足でちゃんと男の子を産んでその後にローランまで産まれたから本当にご機嫌なのよ」
「……は、は、はぁ……そ、そうなん、ですか……」
「それで男爵家令嬢だった私がどうして上流貴族の伯爵家に嫁いだのか、だったわよね? それは私が男爵家でも古い血統だから。まあ小さい頃にお父様が亡くなって後は潰れるだけだったのよね。だけど伯爵家に嫁ぐ事になって実家も息を吹き返したし。その結果皆幸せになりましたとさ?」
何だか昔話みたいに締め括るクロエ。だけど私は戦慄していた。
いや、このクロエって人、一見ほんわかした雰囲気だけど貴族らしさをとことん煮詰めて濃縮したみたいな人だ。多分貴族令嬢としては大成功を収めたと言って良い。その上旦那様と相思相愛でその親にまで認められている。って言うか……十五歳で妊娠? 今の私と同じ歳で子供作って産んでる時点でもう目眩がする。ごめんルーシー、ルーシーなんて全然比べ物にならない強者がここにいるわ……。
「――まあ、他にも聞きたい事があるんでしょ? なら少し場所を変えてお茶でも戴きながらお話しましょうか。私もベッドにいると病人になった気がしてしまうし。それでも構わないかしら?」
思い切り笑顔でクロエから提案されて、私は愕然としながら頷く事しか出来なかった。