207 ベアトリスの印象
「――まあだけど、コレット様が孤児院に来て奉仕活動をしてるだなんてねえ。あの頃は酷かったもんだけど随分まともになって良かったよ」
デボラはそう言うと少し嬉しそうに笑う。多分知ってる限りの事を話してくれたんだと思う。だって表情を見ているとそんな気がするから。
だけど話を聞く限り、ベアトリス・ボーシャンはアカデメイアに入るまではそれ程酷い性格はしてないみたいだ。使用人だったデボラの抱いている印象が好意的過ぎる。私の知ってるあの先輩とはまるで別人みたいだ。
それに……初めて聞いた名前も出ている。ブラン男爵家のクロエ――クロエ・ブラン。私はその人の事を全く知らない。もしかしたらベアトリスの焼死体と一緒に見つかったもう一人がそのクロエなのかも。後でロックにちゃんと聞いてみた方が良いかも知れない。
だけど何より、私は物凄く勘違いをしていた。冷静に考えてみれば簡単に気が付く事なのにどうして気付かなかったんだろう。多分、私には現代日本の記憶があるからだ。だから当然の事に違和感を憶えなかった。
この世界では甘いお菓子なんて基本的に食べる機会なんてない。それに例え貴族でも絵本なんて手に入れられる物じゃない。それにデボラの話を聞く限り、彼女はコレットに言葉も殆ど教えていない。産まれて赤ん坊だった彼女を育てていたからある程度は影響してるとは思うけど文字を教えてはいない筈だ。だってこの世界は識字率がかなり低い。
となるとコレットに文字や言葉を教えたのはベアトリス・ボーシャンとクロエ・ブランと言う男爵家令嬢と言う事になる。絵本を与えたのだってきっとベアトリスだ。だって子爵は長女に私財を注ぎ込んで一流の貴族令嬢にしようとしていた。なら古い絵本を手にいれて与えた可能性が高い。
それに甘いお菓子はかなり珍しい物で貴族でも余り口にしない。確かに果物でジャムを作る事はあるけどそれをお菓子に加工しない。精々紅茶に入れて飲むか甘くないクッキーに付けて食べる位だ。アレクトー家は元々魔法が使えない事もあって全部自力で作る。リオンや私だって色々教えて貰って作る事が出来る。だけど貴族としてそれは普通じゃない。クッキーみたいな物は作ってもリオンみたいに惣菜パンやピザもどきまで作ってしまえるのは明らかなオーバースペック、作れてしまい過ぎなのだ。
「……ねえ、デボラおばさま。ベアトリスさんは普段から甘いお菓子とか食べてたの? コレットも食べてたのかな?」
「やだねえ、おばさまなんて呼ぶのはやめとくれ。だけどそうだねえ。お嬢様は取り寄せた高価な菓子を食べてた筈だよ? そう言う一流の物に食べ慣れてないといざって時に恥をかくからって子爵様が言ってたしね」
私が尋ねるとデボラは笑いながら答える。だけどその答えに私の中では色々な事が組み上がっていく。
つまり――コレットに文字を教えたりお菓子をあげていたのはこのおばさんじゃなくてベアトリスとクロエと言う人だ。だけどコレットは自分にお菓子をくれたのは使用人だと思っている。実際にコレットの世話をしてくれたのはこのおばさんと、ベアトリス達二人の合計三人となる。
え、でも……何だか変だ。私のベアトリス・ボーシャンに対する印象と他の人達の評価が違い過ぎる。これがもし私が勝手に悪い印象を持ったのならまだ納得出来るけどあの先輩にされた事は一方的な罵倒と嫌がらせでそれさえ無ければ私だって別に悪くは思ってない。元々私は自分から他人に関わる性格じゃないし酷い話、何も無ければ接点すらないんだから。
「ねえ、デボラおばさまはベアトリスさんの事、好きですか?」
「うん? 私かい? そうだねえ、嫌いではないね。お貴族様のご令嬢だけど偉そうじゃないし小さい頃から真面目なお嬢さんだよ? 使用人にも丁寧だったし嫌いだった人はいなかったんじゃないかね?」
やっぱりおかしい。何かが変だ。周囲に評価されようとして演技をしていたにしては子供の頃からの評価が高過ぎる。私の会ったあの人が本当にベアトリス・ボーシャンだったのか自信が持てない。
結局私はデボラ婦人にお礼を言ってそのまま帰る事になった。私の知るあの女性が本当にベアトリス・ボーシャンだったのかどうか調べる方法を必死に考える。だけどその方法が思いつかない。そんな処で私の顔を見ていたリオンが不思議そうに声を掛けてくる。
「……リゼ、どうしたの? 何だか凄く難しい顔をしてるけど」
「……ちょっと分からなくなってるの」
「うん? 何が?」
「あの時、私が見たあの先輩が本当にベアトリス・ボーシャンだったのか分からなくなってきたのよ。私からすれば印象最悪な人だったんだけど他の人から見ると評価が高過ぎるんだよね。そんな事ってあるのかなあ?」
「……うーん、どうだろう? リゼは特に嫌な事をされてるから悪い印象が強いとは思うけど、会った事のない僕も実は余り良い印象は持ってないんだよな……」
「え、それってどうして?」
「だって……確かかなり前にお茶会の講習だっけ? 魔法を使って狡い事をしようとしたんだろ?」
「……うん、それはそうなんだけど……」
「あの時、テレーズ先生も相当怒ってたじゃないか。あの先生をあそこまで怒らせるのって普通じゃないと思うんだよな。なのにさっきのおばさんの話を聞いてるとまるで別人の事を話してるみたいだった。もしかしたらアカデメイアにいる間に何かあったのかも知れないとは思ったけどさ?」
うーん、どうなんだろう。だけどリオンも私と同じ違和感を覚えているみたいだ。一度テレーズ先生に聞いてみるのも良いかも知れない。だけどそんな時、手を繋いで歩いていたレミが私の腕を引っ張った。それで視線を向けると何処か不安そうな顔で私を見つめている。
「……うん? どうしたの、レミ?」
「ルイ姉ちゃん……僕、ちゃんと役に立てた?」
「え、うん。レミ、ありがとう。凄く助かったよ」
「……なら良いんだけど……」
だけどレミの表情は優れない。多分私が難しい顔をしてずっと黙って考え込んでいる所為だ。レミはちゃんと助けになってくれたのにこんな風に落ち込ませる訳にもいかない。それで私は立ち止まるとその場にしゃがんでレミを抱き寄せた。
「……ごめんね。ちょっと色々考え事してたんだよ。ちゃんとレミは役に立ってくれたよ? 本当に有難うね。何かお礼をしなきゃダメだね」
「え、本当に? 僕、ちゃんと役に立てた?」
「うん、物凄く助かったよ。それで……何のお礼が良いかな?」
私が笑ってそう言うとレミは真面目に考え始める。それで少しすると彼は私とリオンの顔を見てやっと笑顔になった。
「なら……兄ちゃんが作ってたパンみたいなの、僕も作ってみたい」
「え、来る前にリオンが作ってた奴? レミも作れる様になりたいの?」
「うん! うちの先生、もうすぐ結婚するんだよ。今はその準備で来てないんだけど凄く優しい先生で何かお祝い出来たら良いなって。あんな美味しいの、今まで僕食べた事がないからさ。きっと先生も食べてみたいと思うんだよね。それで……ダメかなあ?」
「あ、そうなんだ――リオン、どう? 教えてあげられる?」
それで私とレミが見上げるとリオンは苦笑して頷く。
「ああ、いいよ。どうせだから他にも僕が知ってる美味しい料理をレミに教えてあげるよ。何だったら作る時に僕も手伝ってやるよ?」
そう言ってリオンはレミの頭を撫でる。どうやらリオンもレミの事を小さい弟みたいに思ってるらしい。珍しくお兄ちゃんの顔になっている。
だけどそんな処でリオンは何かを思い出した顔に変わった。
「……あ、そう言えばすっかり忘れてたけどエドから言われてたんだ」
「ん? どしたのリオン? 何を言われてたの?」
「ネイサンがさ、エマさんに告白を考えてるらしいって。だからその事をリゼから前もって伝えておいて欲しいって頼まれてたんだったよ」
そう言われて私はハッとした。そう言えば前にエマさんに伝えておいて欲しいって私も言われてたんだった。色々ゴタゴタが続いていてエマさんにまともに会えていない。だけどその事より別の事が脳裏を過ぎった。
――そうだ! あの時エマさんが火傷しそうになって、それで助けようとして私も火傷したんだった! あれってベアトリスと口論になった時だった筈だ! なんで忘れてたんだろう、エマさん確かあの後でベアトリスの事を知ってるみたいな口ぶりだった! それにソレイユさんとカーラさんも知ってる感じだった筈だ! どうして私、そんな事忘れてたんだろう!
「――よおし! んじゃあ私も特別なジャムの作り方、教えてあげる!」
「え、姉ちゃん、本当に⁉︎ ジャムって甘い奴だよね⁉︎」
「そうだよー! 多分頼めば薔薇の花びらとか分けて貰えると思うし瓶に詰めて綺麗だしね! 結婚するなら良い思い出になると思うよ!」
「マジで⁉︎ やったあ!」
私が元気よく言うとレミが嬉しそうに歓声をあげる。その様子に私が満足そうな笑みを浮かべるとリオンも笑ってレミの頭を撫でる。
そうだ、折角レミのお陰で取っ掛かりが出来たのに難しく考えてる場合じゃない。どうせ何も分からなかったんだから出来る事は片っ端から全部やっちゃおう。嬉しそうに笑うレミを見て私はそんな風に開き直った。