196 私の役割
「――あら、やっといらしたのね。タニア・ルボー先輩? ああ、今はエリーゼ・ラボーさんとお呼びした方がよろしかったのかしら?」
私は偶然を装って女――タニア・ルボーの前に姿を現した。それこそ角を曲がったら偶然会ったみたいに澄ました顔で。それまで余裕綽々だったタニアの顔に驚愕が浮かぶ。立ち止まったまま固まった彼女に私は追い討ちを掛ける様に思い切り微笑み掛けてやった。
「だけどごめんなさいね? 余りにもお名前に捻りがなくてどちらだったか忘れてしまったわ? ルボーが本名よね? 本当にラボーとか紛らわしくて、他に思い付けなかったのかしら? とても浅はかで愉快な方ね?」
「……ッま、マリールイーゼ……様……」
「あら、変ね? 貴方、私を嘲笑う為にいらしたのでしょう? なのにその相手を様付けで呼ぶの? 随分殊勝な心掛けね。だけど残念ながら貴方を逃すつもりはないの。男性が知らない抜け道を通って入ったのでしょうけれど騎士達が待ち構えているわ。捕まるしか無いなんてお可哀想ね?」
「な……どうして抜け道の事まで⁉︎」
そこでタニアは心底驚いた顔に変わる。当然これもハッタリだ。アカデメイアに来ている元卒業生、騎士は基本的に男性だ。だけど男性が通れる抜け道を女が通れるとは限らない。体力も無いし何より服装が運動出来る物じゃない。制服はドレスの上に軍服の上着を引っ掛けた程度で何よりもスカートが行動の邪魔をする。パンツ姿の男性とは基本的に違うのだ。
なら当然女でも使える抜け道も存在する筈だ。それにこんなに男女の接点をなくした学校なのに男女が共通して使う抜け道もあり得ない。男性は男性同士、女性は女性同士で先輩から後輩に伝えられてきた抜け道が必ずある筈だと私は考えた。勿論そう言う繋がりが殆どなくて出不精の私はそう言う物自体を一つも知らない。だけど警護に着いている騎士は原則男性だけだから分かるのは男性用の抜け道だけなんじゃないかと思っていた。
「な、な、そんな、事は、い、一体何を……」
どうやら私の予想とハッタリは大当たりだったらしい。タニアははっきり分かる位に狼狽えている。やっぱりこの人はベアトリス・ボーシャンと比べるとそれ程賢い訳じゃない。世間知らずの貴族令嬢が少し世間の裏を知っただけで自分が特別だと勘違いした程度だ。
ただ私を嘲笑って優越感を得たい為に敵地に入ってくるだなんて余りにも愚か過ぎ――あれ? 違う、そんな事の為に危険を冒してまでこんな処までやってくる度胸は貴族令嬢にはない。じゃあ何か他に目的があった?
ぶっちゃけ私の使えるカードは少ない。持っている情報や憶測を全ツッパして畳み掛けただけだ。そのお陰でこの人は萎縮してしまっている。この内に他に何か見落としている事が無いか考えて捻り出さないと。
だけどタニアは腰の後ろに隠していたらしいナイフを取り出した。握る手が震えているけど目が座っている。どうやら私は追い詰め過ぎてしまったらしい。こうなるともう、英雄魔法を使って凌ぐしかない。
「……あら、私と勝負をしたいのかしら? 別に構いませんけれど」
そう言った瞬間、視界が紫色に変わる。私の英雄魔法、相手の動く先を見る事が出来る力だ。叔母様の家で発現してアカデメイアに入学した後にアンジェリンお姉ちゃんと勝負した時も使った唯一能動的に使える力。
だけど視界が染まった瞬間、脳裏にふと過ぎる。私は今にも飛びかかってきそうなタニアを前に呆然としながらも思わず尋ねてしまっていた。
「――貴方、もしかして……コレット・モンテールさんの様子を見て来る様に、ベアトリス・ボーシャンから頼まれたのでは無いの?」
あの時、コレットに抱きついた時に見えそうだった赤い光景。すぐに消えてしまったけれど視界の色が変わった瞬間思い出す。もしかしたら証言されると困るから口を塞ぐ為かも知れない。でもその目的の為だとしたらやっぱり変だ。もう審問会の召喚も済んでコレットは知っている限りの事を話した後だし情報だって漏れた後だ。今更口を塞ぐ為に敵地に侵入してまでリスクを冒す意味がない。
「あ……ああああああッ!」
だけど私がそう口にするとタニアの身体が大きくびくりと震える。目は大きく開かれて血走っている。私が言った事がとどめになったらしく彼女はナイフの柄に手を添えて私に向かって突進してきた。
――ああ、ダメだ。これはもう避けて何とかするしかない。
だけどそう覚悟を決めた時、突然薔薇の花びらが飛び散った。植えてあった花壇の中をまっすぐに通り抜けて疾風の様に何かが通り過ぎる。その人影は手に剣を掴んでいるけど抜いてはいない。そして後数歩で私にまで辿り着く処だったナイフを掴むタニアの手を取って剣の柄が彼女の脇腹に吸い込まれるのが見える。それは――リオンだった。
「……リオン……その、有難う……」
ホッとして声を掛けるけどリオンは崩れ落ちたタニアを地面の上に横たえて鋭い目のまま私に近付いて来る。そして目の前までやってくると惚けた顔の私を睨んでいきなり掌で頬を打ち付けた。ジンジンとする自分の頬を思わず手で押さえて黙り込むとそのままリオンは私を抱き寄せる。
「――バカ! なんでリゼは危ない事をするんだよ!」
「……え……危ない事、って……」
「あのジェシカって奴はリゼを殺そうとしてた! なら他の奴だってリゼを殺して構わない判断をしてるって事だろ⁉︎ なんでクラリスと一緒に逃げようとしないんだよ! 頼むから、もっと自分を大事にしろよ!」
その言葉が頭に染み込んでくると膝がガクガクと震え始める。そのまま立っていられなくなってリオンは私を横抱きに抱え上げた。だけど強張って彼の胸から顔を上げられない。
そんな事、少しも考えてなかった。ただ、私はこれ以上皆を疲弊させる訳にはいかないと思ってた。これまで尻尾も掴めなかった相手がやっと姿を現したんだから何とか捕まえるしかないと思っていた。
だけどその相手は私を殺す事に躊躇しない。私は排除して良い相手だと思われている。自分が狙われている事を知っていた筈なのに現状を何とかしたいとしか考えてなくて、私は自分から危険に飛び込んでいた。
リオンの言葉で今になって恐怖が訪れる。身体が、喉が震えてまともに言葉を返せない。それでも必死に歯を食いしばって何とか声を出す。
「……ご、めん……リオン……ありが、とう……」
私がそう声にならない声を呟くとリオンはしっかり私を抱き締める。
「……もう、絶対こんな事はしないと約束して。だけど怪我をしてないみたいで本当に良かった。リゼの役割は戦う事じゃないんだからさ?」
そう言ってリオンは私の背中を撫でてくれる。私はただ黙るだけで彼に何と言えば良いか分からない。
やがて騎士達が集まってタニア・ルボーを拘束して連れて行く。騒がしく散った薔薇の花びらが舞う中で私はリオンにずっとしがみ付いていた。