188 帰還
エドガーの話から七日程が過ぎた頃。イースラフトからこの国にやって来るには一〇日近く掛かる。明日はエマさんに会う機会もあるしネイサンが来る事を伝えようと考えていた。エマさん達は正規生四年で既に授業に出て来る事自体が少ない。真面目だし学票も充分あるみたいで就職活動に力を入れている。これはカーラさんとソレイユさんも同じで三人共優等生だから教導官の先生達からの覚えも良い。
どうして明日エマさん達と会う機会があるのかと言うと単純にテレーズ先生の処に行くからだ。エマさん達は就職活動の為に、私は例の暗殺未遂事件後のメリアスの家に関する話をする為に。要するにレミ達孤児達がその後も安心して暮らせているのかを知る事が出来る機会だった。
勿論行くのは私だけじゃない。あの時一緒に行ったリオンとクラリス、それにマリエルとマティス、セシルも一緒だ。まあ実際の処は奉仕活動で得た知識や教訓を座談会系式で報告する為だから私達が特別扱いを受ける訳じゃない。単なる授業の一環で他の生徒達はとっくに済ませている事で私達の班は事件に巻き込まれた所為で報告が遅れただけの話だった。
だけど時間が過ぎた所為で座談会系式でも難しい。皆と相談して改善案や気付いた事を書き付けておく。明日はそれを見ながら報告する。報告会とは言っても勉強と違って答えがない。それにどちらかと言うと奉仕活動は貴族が果たすべき義務を学ぶ為の授業だ。マリエルは困っていたけど私は好き放題意見が出せるし気楽だ。勉強じゃないし……勉強じゃないし!
まあそんな感じで明日に備えて色々考えている時、突然廊下から騒がしい物音が聞こえて部屋の扉が突然開かれた。それで扉の方を見ていると衝立を回り込んで見覚えのある姿が現れる。それはネイサン――ジョナサン・エル・オー・アレクトーだった。無精髭で酷い顔になっているけど。
――え、あれ? まだ到着するには早いんじゃ……ってまだ後三、四日は掛かる筈だよね? なんでもう来てるの? 早過ぎない?
頭が真っ白になって何も言えない私。そんな私に怖い顔でずんずん近付いて来るとジョナサンは突然私を抱き寄せる。
「――無事か、ルイーゼ! 何処も怪我はしていないな⁉︎ しかし許せん、何処までも追い込んで狙った事を後悔させてやるからな!」
……うん。ネイサンって基本的に凄く優しいんだよね。昔から見た目は怖いし無言の圧力も凄いけど実はそれを気にしてたし。だけど私はある事で我に返ると大兄ちゃんにこう言わざるを得なかった。
「……あの、ネイサン……?」
「ああなんだ! 俺に出来る事があれば何でも言え!」
「……ごめん、ちょっと臭いから離れて? 受付で言えばお風呂を貸してくれるから入って来て。なんか埃と酸っぱい匂いが混ざって色々酷い」
「……な⁉︎」
私がそう言うとジョナサンの顔が衝撃に歪む。だけど自分の胸元を掴んで嗅ぐと首を傾げる。
「……いや、そんな臭くないと思うが……」
「あのね! そう言う匂いって自分じゃ分かんないの! どんな匂いも鼻が慣れちゃって感じなくなるのよ! 今のネイサン、めっちゃ臭いよ!」
「……す、すまん……」
「分かったらさっさと行く! 服も言えば貸してくれる筈だから!」
私が大きな声で怒鳴るとジョナサンは大人しく部屋を出て行った。そのすぐ後に騒ぎに気付いたリオンがやって来る。
「……リゼ、何かあったの?」
「ネイサンが来たのよ! もう滅茶苦茶汗臭かった!」
「臭いって……ああ、多分途中休憩無しで来たのか。でないとこんな早く到着する筈ないもんな……ネイサンらしいっちゃネイサンらしいなあ」
「一瞬頭が真っ白になったけど臭過ぎて我に返ったわ!」
「……なんか可哀想に……必死で駆け付けようとしたんだろうなあ……」
リオンはそうぼやくと同情した顔になって扉をじっと見つめた。
一応アカデメイアではお客様を迎える設備がある。と言うのも入学する生徒の実家が近隣とは限らない為だ。流石に一〇日は掛からないけど馬車で七日掛かる場所もある。場合によっては風土病を持ち込んでしまう事もあるから防疫としてお風呂も準備されている。ここでは衛生概念が日本に追い付いてないけど煮沸すればお腹を壊さない事は知られている。魔法で水を出せば普通に飲めるから忘れられがちだけど。勿論お風呂と言っても一人用の桶が五つあるだけで大風呂なんて無いんだけどね。
そしてしばらくするとネイサンが部屋に戻って来る。どうやら髭も綺麗に剃ったみたいでいつものネイサンだ。だけどその後ろに続く人影を見て私とリオンは少し驚いた。
「あ、あれ? ロックさん、なんでネイサンと一緒なの?」
「いやあ……セドリック様の依頼でな? イースラフトのアレクトー家に協力を仰いで調査をして来たんだよ」
「調査? ロック、一体何の調査をしてきたんです?」
「そりゃあお前……当然、ベアトリス・ボーシャンの居所だよ」
「え……あの人、何処にいるのか分かったの⁉︎」
思わず前のめりになってしまう。だけどそんな私とリオンを見るとロックは苦笑して扉に視線を向ける。
「まあ、その話の前に――旦那、そろそろ入ってきたらどうだ?」
ロックがそう言った処で扉から更にもう一人が姿を現す。それは――私のお兄様だった。余りに突然で声が出せずにいるとレオボルトお兄様は私の前までやってきて膝を付いて見せる。
「……また昔みたいにマールと呼んでも良いかな?」
それで私は無言で頷くとお兄様の首筋に抱きつく。そんな私を抱き返すとお兄様は背中を撫でて言った。
「……マール、本当にあの時は済まなかった。僕は何が大切なのかを全然理解していなかった。でも……もう大丈夫だから。それに僕だけじゃなく可愛い妹にまで手を出した奴を絶対に許さない。大丈夫だ、マールがどんなに大変な状態だったのかもう全部知ってる」
「……え、じゃあ……私の英雄魔法も?」
「うん。全部アベル叔父上から聞いた。ごめんねマール。まさかマールがあんな小さい頃から重荷を背負わされていたなんて思ってもいなかった」
それで私は何も言えずお兄様に抱きついたまま動けなかった。
こうしてみると四歳の頃に家を出て別れて、十二歳になって戻った時もお兄様とは何処かギクシャクしたまま元に戻れなかった気がする。それが十五歳の今、三年も過ぎてからやっと兄妹に戻れた。四歳の頃から数えると十一年もまともにお兄様と向き合えていなかった訳で言葉にならない。
「……レオお兄様……私、また甘えても良いのかな……?」
私がなんとか小さく尋ねるとレオボルトお兄様は、
「……僕の可愛いマール。大丈夫だよ、僕はマールのお兄ちゃんだから」
四歳になって家を出るまでずっと言ってくれてた言葉が聞こえる。それで私はお兄様の首にしっかりとしがみついた。