162 狙いは私
メリアスの家の建物を出るとすぐ前には畑が広がっている。そのずっと先に見えるのは王都の壁だ。王都の周囲に高い城壁が設けられているのは王宮のある街だから攻められた時に守れる為だ。
壁の方に行っても意味がない――そう思った私は逆に街の中心に視線を向ける。そこで駆けていく小さな人影が見えた。五歳の子供は小さい分小回りが利くからすばしっこいけど直線ではそれ程早くない。だけどそれでも体力の無い私にとって追い付くのは至難の技だった。
きっとここで暮らすレミにとっては入り組んだ路地裏もよく知った場所なんだろう。土地勘の無い私にとっては知らない場所だ。じゃあどうすれば追い付けるのか――答えはもう一つしか残されていなかった。
息切れする呼吸を無理やり落ち着けて意識を集中する。その瞬間私の視界が紫色に染まる。もしこの力が未来を視るのではなくて可能性を掴む為の力ならどうすればレミに会えるのか分かる筈だ。だけど私に見えたのは今までとは違う、見た事のなかった光景だった。
私の姿が路地のあちこちに向かって駆けるのが見える。だけどその中で最後まで残っているのは一人だけだ。他の私の姿は途中で掻き消えてしまう。まるでそちらに行けば私の可能性が消えてしまうかの様に。
今までは相手がどう私を捕まえようとするのかを前もって残像で知る事が出来る感じだった。だけど今回は違う。私自身が追い掛けて自分自身の残像が目に映る。それに精神力の、体力の消耗が半端無い。
それでも懸命に力を維持しながら進む。だけど幾つもの角を曲がって進んでいく内に見知らぬ男性に捕まったレミの映像が見えた。それでも意に介さず進む。するとさっき見た通りレミが男性に捕まっていた。
「――なんだ、本当に来ちまったのか……」
「……貴方は誰? レミを今すぐ離しなさい!」
「てか……嬢ちゃん、俺に全然驚いてねぇよな。それだけ肝が据わってんのか、流石アレクトー家の令嬢だけあると言うべきか……」
男は二十代から三十代で妙に場慣れしてる感じだ。黒髪で目立たない地味な外見をしている。マスクみたいに布を巻いていて顔もはっきりしない。レミは口元を塞がれてジタバタしているけど五歳の子供が多少暴れても全く問題ないみたいに見える。だけどそれよりもこの男は私がアレクトー家の娘だと知っている。むしろだからこそ目の前に現れた様にしか見えない。
そしてそこで私は初めて気がついた。周囲の風景が以前見た青い世界と物凄く似ている。と言う事はここで事件が起きる? でもマリエルもマティスも一緒に来ていない。今ここにいるのはレミと私だけだ。じゃあこの男が皆を殺す筈だった相手って事? もしかして又、私が動いた所為で未来が変わってしまったって事なの?
「……今すぐその子を離しなさい。もし傷一つでも付けたら――」
「……付けたらどうするってんだ?」
「――お前を、殺してやる」
私がそう言うと男の顔から笑みが消える。真面目な顔になってレミを地面に下ろすと少し困った様子に変わった。
「……坊主、行きな。別にお前に危害を加えるつもりなんてねーし。それに……そんな紫の火が燃えてる目で睨まれるのもな。それは英雄一族の魔法って奴だろう? 確か全てを回避出来る目、だったか? そんなもんを相手にする程、俺だって無謀じゃねーよ」
だけど私は何も答えず黙って男を睨む。今、ここにはリオンもいないし私一人で何とかするしかない。だから今も力を使い続けている。でも男が言った事は何だか妙だ。私の魔法については身内だけでほぼ世間に知られていない筈なのに。それに情報が妙に古過ぎる。ずっと私を監視していたのなら『回避する能力』だなんて思わない筈だ。
そして地面に降ろされたレミがゆっくり私に近付いてくる。きっと怖くて駆け出せないんだろう。今にも泣きそうな顔で私を見上げた。
「……ね、姉ちゃん……ごめん、僕……」
「ううん、大丈夫。それにレミは寂しかったんだよね。悲しいんじゃなくて……ちゃんと気付いてあげられなくて、本当にごめんね」
男から視線を外さないまましゃがむと私はレミを抱き寄せた。レミは何も言わず黙って私に抱きついてくる。それで私はしゃがんだままレミを庇う様に半身になった。
正直体力がもう限界だ。こんな風にずっと力を使い続ける事なんて今までになかったし。だけどここで止めたらもう対処出来ない。前に見た青い世界の映像が脳裏を過ぎる。もしこの男があの相手だったらレミも私もきっとここで殺される。私は兎も角、レミは巻き込んじゃダメだ。
油断しない様に私は男を睨み続ける。ジリジリと時間だけが無駄に過ぎていく。だけど紫の視界の中で男が動く様子がない。そんな中で男の残像が僅かにブレる。それで男の後ろを見ると女の声が聞こえてきた。
「――へえ? 本当に引っ張り出せたのか。たかがレンジャーギルドの平民風情が英雄魔法を逆手に取るとはね。後で褒めてやる」
薄暗い影から現れたのは女性で二十代前に見える。それに口調からして絶対に貴族だ。そして私はその顔に見覚えがあった。
「……そんなんじゃねーよ。ただ、避けられるなら避けられない状況に追い込めば動かなくなる。それだけの話でしかねーよ」
「偉そうに吠えるじゃないか。それで何故殺さない? 標的が目の前にいるのに何もしないのは契約違反だろう?」
「……無関係なガキがいる。それに俺は斥候で手に掛けるのは受けた仕事じゃねーだろ? 無関係な奴を巻き込むのは三流以下だぜ?」
そう言う男は眉をひそめて苦々しい顔だ。だけどそれを聞いて女の目が細く絞られる。彼女は私を見ると残虐な笑みを浮かべた。
「……まあ良いわ。こうして自分の手でマリールイーゼに引導を渡してやれるんだもの。こいつの所為でうちは滅茶苦茶になった。両親も自害してしまったしね……何が英雄一族だ、この化け物め」
そう吐き捨てると女は腰に下げていた剣を抜き放つ。それは細い剣身で見覚えがあった。青い世界で見たマリエルの頭を貫いた細剣――男の方じゃなくてこの女が本来マリエル達を殺す相手だったんだ。
だけどもうダメだ。身体に力が入らない。レミを抱えて逃げたくても私にはそんな体力が元々無い。だけどそうか、マリエル達が命を落とす理由は全部私にあったんだ。この女は私を狙っていた。私に関する情報も持っている。復讐――でもこんな殺される程憎まれる覚えもない。
「……おい、やめとけ、元男爵のお嬢様。無関係なガキを殺すな。それにこんな処でやりゃあすぐに足がつく。あんた、剣士を目指してたって言ってた割に世間慣れしてねーな? 素人以下じゃねーか」
「うるさい、黙れ! 平民の子供が死んだ程度、それも孤児がいなくなった処で騒ぐ奴なんていない! マリールイーゼと一緒だったのが運の尽きなんだよ!」
男が制止するにも関わらず女は剣を頭上に上げる。きっとこのまま私諸共レミも切り殺す気だ。私はレミを抱いて庇う様に背中を向けた。私の痩せた身体じゃ盾代わりにはならないかも知れない。だけどレミを死なせる訳にはいかない。この子は自分の将来を目標に頑張ってる。もしこの子を守れたらお父様もお母様も怒ったりしないよね? だって私は英雄の娘なんだもの。英雄は、人を守る為にいるんだから――。
「死ね、マリールイーゼ! 死んで私の両親に詫びて来い!」
そんな声が聞こえて私は強く目を瞑る。だけどその後も痛みは何もなかった。そして冷たい聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「――あんた、戦場に出た事がない素人でしょ? そんなに身体を固くしていれば簡単に切れちゃう物なのよ。それに剣の持ち方も素人以下だしその剣だってこんな細い路地に持ってくる剣じゃないわ?」
それで身体を起こして窺うと私の前には男の背中が見える。どうやら私達を庇って前に飛び出したみたいだ。両手で交差した短剣を構えて受ける姿勢のまま、惚けたみたいに動かない。そしてその向こうでは私がよく知る少女の姿があった。
「え……せ、セシリア、どうしてここに⁉︎」
「大丈夫、マリー? 実はリオン君に相談されてて一応マリー達が行く孤児院の近くを見回ってたのよ。だから駆け付けられたって訳」
そう言うセシリアは手に短い剣を持っている。指先から肘位の長さで多分ショートソードと呼ばれる剣だ。そしてその向こう側ではさっきの女が地面に横たわって身体をビクビクと痙攣させている。
「……手が……私の、手がァッ……」
そう言って必死に痛みを堪えているみたいに見える。手首から先が綺麗に切れていて、普通そういう時って暴れ回る物だと思っていたけど実際はそうじゃないらしい。必死に痛みを堪えて固まっている。そんな女を見下ろすとセシリアは薄い笑みを浮かべた。
「……だからさ。剣士ごっこは辞めた方が良いんだよ。本気でやるなら本当の剣を習わないと。下手に振り回せる様になると気が大きくなってこう言う事をするのよね。それで――こいつ、何? それにそこの固まってる男は? マリーを庇おうとしてたから切らなかったけど?」
それで私は横たわって震える女を見る。やっぱりこの人は以前見た覚えがある。それもかなり間近で。あの時の事は今でも思い出せる。
「……その人、アカデメイアの……元正規生の先輩、だよ……」
「……えっ? 先輩って……これが?」
「アンジェリンお姉ちゃんと勝負した時に出てきた三人の一人。避ける時に近くで見たから覚えてる。だけど……本当に、良かった……」
それだけ言うと私はそのまま地面の上に倒れ込んだ。意識は飛んではいないけど身体がまともに動かない。緊張が解けた事もあるけどきっと英雄の魔法を使い過ぎた為だ。だけど以前なら気絶しちゃってた筈だし少しは使いこなせる様になってきてるのかな?
「ね、姉ちゃん⁉︎ 大丈夫、姉ちゃん⁉︎」
「……あー……大丈夫……ちょっと、疲れた、だけ……」
私に縋り付いて身体を揺するレミ。私は薄目を開いてそれに応えるけどそれが精一杯だ。とても立ち上がって歩けるだけの気力がない。
「……取り敢えず、そこのあんた。事情は後で聞きます。マリーを孤児院まで運んで頂戴。それと騎士団も呼ぶ事になるけど、まさか逃げたりする気はないでしょうね?」
セシリアがしゃがんだまま私の方を振り返っている男ににっこり笑みを浮かべて尋ねる。それで男は短剣を鞘に戻すと無言で頷いた。
こうして事件は一人の犠牲者も出さずに何とか収まったのだった。