134 不幸中の幸い
あれから私は三日程眠り続けていたらしい。目が覚めると傍にはクラリスがいて私の手を掴んでいた。
「……お姉ちゃん、大丈夫ですか?」
「……あ、クラリス……」
「何があったのか、覚えていますか?」
「……えーと……何か、あったっけ……?」
「お姉ちゃん、海に落ちたんですよ。それに気付いたマリエルさんが物凄い勢いで飛び込んで、助けてくれたのです」
「……あ、そっか……私、死ななかったんだ……」
だけど私がそう呟いた途端、それまで穏やかだったクラリスの顔が激しく強張る。そのままポロポロと涙が溢れる。それを袖の内側で拭うとクラリスは泣きながら声を漏らした。
「……もう……無茶、しないで、ください……」
「……ごめんね。ちょっと足を滑らせちゃった……」
そう言ってもクラリスは泣き止んでくれない。それで私はぼんやりする頭を押さえながら宥めて、私が眠っていた間の話を尋ねた。
私が海に落ちてちょっとした騒ぎになったそうだ。だけど落ちた場所が元々人気のない場所で見た人間自体が殆どいない。マリエルが気付いて助けてくれなければ私は消息不明になっている処だった。
ティーシフォン男爵がお医者様を呼んでくれて診て貰った処、私は殆ど水を飲んでいなかったらしい。あとは安静にして寝ていれば大丈夫と診断されたそうだけど、問題はそこじゃなかった。
マリエルが激しく取り乱して私から離れようとしなかった。それも私を抱き抱えたまま離れない。男爵もマリエルがここまで激しく取り乱すのを見た事がなかったらしく、ちょっとした騒ぎになった。
それを全員で説得して、もし私が目覚めたら呼ぶと言う事で何とか納得させたらしい。今はマリエルも少し落ち着いているそうだ。
そして何より面倒だったのが、公爵家令嬢の私が海に落ちて命を落とす処だった、と言う事らしい。男爵も報告しない訳にいかず子爵と領地を統括する伯爵に連絡を入れた処、各家は慌ててグレフォールの男爵の家に駆け付けた。お忍びとはいえ公爵家の令嬢が命を落とす処だった訳で直ちにお父様やお母様にも報告が送られた。当然王家にも報告が届いている頃だろう。この後を考えるだけで頭が痛い。
クラリスが私に付いていたのはきっと、クラリス自身がお医者様の家の娘だったからだろう。医療従事の経験もあるし何かあった時一番的確に動けると言うのも大きい。そしてそのクラリスがやっと泣き止んで目を赤くしながら笑って言った。
「……それじゃあ私、皆さんを呼んできますね。毎日ルーシーお姉ちゃんやマティスさん達がずっと待ってたんですよ?」
「……うん。何だかごめんね、クラリス……」
「もう、本当に無茶はしないでください。それじゃ呼んできますね」
そう言って彼女が部屋を出て行ってしばらくすると、廊下を走る音が聞こえてきて勢いよく扉が開かれた。そこにはバスティアンとルーシーの姿があって、私を見た途端ルーシーが飛びついてきた。
「もう! もうもうもう! マリーはなんでこんな危ない事をしたのよ!」
「あー……いやー……その、何ていうか……事故、かなあ?」
「その事故に近付くのがバカだって言ってるのよ!」
「……その、心配させてごめんね?」
「……でも……本当に無事で、良かった……」
そう言うとルーシーは涙ぐんで私に抱きつく。相当心配してくれたみたいで私はルーシーの髪を撫でる。すると今度はバスティアンが息を吐き出す。
「ですが……水を飲んでいなくて幸いでした」
「水を飲んでなくて? それってどう言う事?」
「溺れた時に水を飲んでいると呼吸が出来ず、そのまま命を落とす事が多いんですよ。普通に水を飲むのと違って呼吸器に水が入ってしまうと呼吸自体が出来なくなります。溺死の大半がその所為です」
「……あ、そう言う事なんだ……?」
「でも本当に良かった。僕が一緒なのに何かあったら顔向け出来なくなる処でした。父上にはもう書状を送って伝えてありますからこの後叱責を受けるでしょうけど、それで済んだだけマシですよ」
そしてそれですぐバスティアンとルーシーは身体に障るといけないと言って部屋を出ていった。その次にやってきたのはマティスだ。
「……ルイーゼ、友達になれたのにいきなり死別はダメだからね?」
「……うん、心配かけてごめんね」
だけどそう言ったものの、いつもならマティスと一緒に必ずセシルがいる筈なのに今日は姿が見えない。それで私が不思議そうにしているとマティスは苦笑した。
「……ああ、セシルの事?」
「え、うん」
「あの子、今頃はリオン君と一緒に泳ぐ練習をしてるわよ?」
「え? なんで?」
「ルイーゼが溺れたって聞いて、相当ショックだったみたい。騎士団って水練はしないのよ。普段から甲冑をつけてるから」
「……ああ、そう言う……」
「それと……リオン君も凄く思い詰めた感じだったしね。セシルにとっては初めて出来た男子の友達なのよ。それにルイーゼはリオン君と婚約してるんでしょ? セシルは女の子に近寄るのを避けてたから安心して一緒にいられる女子ってかなり珍しいからね?」
あー、婚約してるってそう言う安心感もあるんだ。てっきり男子に言い寄られなくなるだけかと思ってたけどセシルみたいに逆に女子に言い寄られる男子にとっては安心して話せる相手になるのね。
だけどリオンが思い詰めてるって言うのが気になる。元々この世界の人は泳ぐ習慣がないから仕方ない事だ。それに私だって体調が悪くなってる時に眩暈を起こしてすぐに座り込んでいれば海に落ちる事もなかった訳だし、今回の事は私自身の責任が一番大きい。
「それでリオンとセシル君はいつ戻ってくるの?」
「もう少ししたら戻るんじゃないかな? さっきクラリスちゃんが男爵様にお話してたし。多分セシルも一緒に戻ってくる筈だから戻ってきたらルイーゼが待ってるってリオン君に言っといてあげるわ」
そう言ってマティスは部屋から出ていく。その後ろ姿を眺めながら私はリオンに言わなきゃいけない事を考えていた。
今回、本当に死に掛けて気付いた事がある。多分マリエルが助けてくれなかったら私は本当に死んでいた。具体的にどんな風に助けてくれたのか覚えてないけど、きっとマリエルは元々漁村出身だったから泳げたんだと思う。本当にただ運が良かっただけだ。
そうしてリオンが戻ってきたのは陽が落ちる頃だった。