133 事故
翌日の昼を回った頃、私は波止場で小箱の上に腰掛けていた。皆と一緒に街に出たものの大勢の人の群れに酔ってしまった為だ。元々私はリオンが言う通り世間知らずの箱入り娘だけどその上に人見知りで大勢の人の中にいると簡単に体調を崩してしまう。折角楽しみにしていたのに残念で仕方なかった。
だけどマリエルの抱えた問題もある。それを考える時間も欲しかったから丁度良かったのかも知れない。クラリスやマティス、セシルはバスティアンと一緒に店を見ている。私はその邪魔をしたくなかったからちょっと疲れたから休憩してくると言ってある。
「……リゼ、大丈夫? 水か何かあれば良かったんだけど……」
「ちょっと水が欲しいけどまあ、仕方ないよ」
「……こう言う時、普通の魔法が使えないのが悔しいな……」
リオンはそう漏らすと少し悔しそうに親指の爪を噛んだ。
貴族は基本的に外食をしない。特に上流貴族は基本的に自分の屋敷で専任の料理人が作った物しか口にしない。当然平民向けの料理屋に入る事自体しない。と言うのも貴族の食事には毒が盛られている事があるからだ。だから誰が作ったか分からない物は絶対口にしない。
昔は魔法が普及していなくて飲み水に毒が混ぜられている事が多かったらしい。勿論毒を混入されたんじゃなくて水自体に毒性が含まれている事もよくあったそうだ。だから魔法で水が出せる様になって一番助かったのは貴族でその次に冒険者と呼ばれる旅人だ。だから平民向けの店に貴族は入らないし大抵が酒場だから利用しない。
そしてそんな貴族の中でも英雄一族は例外中の例外だ。何せ魔法で水が出せない。普通の魔法が使えないから水も料理も全部自分の手で準備する。私が料理を習っていたのもその為だ。好き嫌いに関わらず自分で調理出来ないと話にならない。他の貴族令嬢は料理が出来ない事が多いけどアレクトー家の人間は男女全員が自力で料理出来る。
だけど自然の中ならまだしも、こう言う場所では流石に自力で準備出来ない。リオンもそれで迷っているみたいだ。だけど少し離れた処に露店が見えてリオンは私に向かって真剣な顔で言った。
「――いい、リゼ。ここで少し待ってて。そこで何か売ってるみたいだから飲み物があれば買ってくる。だから絶対動いちゃダメだよ?」
「え……うん。でも別になくても良いけど……」
「ダメだよ。多分今、リゼは軽い脱水症状を起こしてる。昔、何年か前にもなっただろ? 脱水って命に関わる事もあるんだからね?」
ああ、そう言えば……未来視の力があるって言われてダンスでリオン達を避けた時だったかな。あの後筋肉痛とか脱水で足が攣って大変だったなあ。確かにそう言われるともうあんな事になりたくない。
「……うん、分かったよ」
そう答えるとリオンはすぐ露店に走っていく。私は目を閉じて軽くため息を吐いた。潮の匂いが風に乗って流れてくる。それにすぐ傍で波の音も聞こえる。それでふと目を開いて後ろを振り返った。
波止場の端が見える。そのすぐ向こうには海。どれ位の深さがあるのか分からない。きっと落ちれば助からない。だって私は泳ぎ方を知らない。そう考えた瞬間、昔叔母様の家の近くにあった湖で感じた恐怖が蘇る。それでリオンについて行こうと慌てて立ち上がった。
――あ、これ、まずい。
立ち上がった瞬間、激しい眩暈に襲われる。方向感覚と平衡感覚がまともに働かない。今思えばここですぐその場にしゃがんでいれば良かった。だけど早く離れたい意識が強くて踏ん張ってしまう。その所為で私はそのまま転がり落ちる様に海の中へと落ちてしまった。
*
私は遠くなっていく水面を見上げていた。必死にもがこうにも水を含んだ服が重くて身動きが取れない。それに長く伸ばした髪が水を含んで首も自由に動かせない。苦しい――なのに変に冷静だった。
今、目の前に見える光景は随分昔に見たのと同じだ。あの湖の畔で見えたイメージ。それと寸分違わぬ様に見える。もしかしたらあの時見えたのはこの光景だったのかも知れない。
ああ、私はこう言う死に方をするんだ。だけどもう何も考えられない。元々意識が朦朧とした状態で落ちた所為か、この時の私は自分が死ぬ事も疑問に感じなかった。水の中で音も何も聞こえない。静かに死が訪れるのを待つ事しか出来ない。瞼が自然と閉じていく。
だけどそんな時、痺れる様な感覚の肌を突然掴まれた様に感じて薄く目を開いた。そこには凄い形相をしたマリエルがいる。彼女は私を水の中で強く抱きしめる。その瞬間、彼女の身体から凄まじい何かが放射されるのを感じた。それは周囲から水を押し除けて遠く見えていた水面があっと言う間に消失する。そしてさっきまで出来なかった呼吸が突然出来る様になって私は激しく咳き込んだ。
「――絶対、もう絶対、死なせたりするもんか!」
そんな悲鳴じみた囁く様な声が聞こえる。だけど頭がはっきりしない。そのまま抱き抱えられた感触と同時に強烈な浮遊感を感じる。まるで意識だけその場に残して身体だけが飛んだ様な感覚だ。そうして再び地面に降りた軽い衝撃に瞼を薄く開く。そこにはさっきと同じくマリエルが激しく顔を強張らせているのが見える。そんな処にリオンの声が聞こえてくる。
「――リゼ! リゼ、ごめん、僕は……!」
それで私は顔を向けると手を伸ばしてリオンの頬に触れた。
「……ごめん、ね……」
だけどそれ以上、もう考える事も何も出来ない。そのまま私の意識は暗闇の中へと沈んでいった。