第九話 「この職場、最高です」
ピートモス領の屋敷に来た翌日。
私は与えられた部屋で目を覚まし、知らない天井に少しぼんやりしてしまった。
やや遅れて、実家を出て新しい屋敷にやってきたことを思い出す。
そして天蓋付きの純白のベッドから起き上がると、改めて部屋を見渡して、高級な家具の数々に心が怯んでしまった。
豪華な装飾が施されたテーブルやチェア。
天蓋付きのベッドも全身を包み込んでくるかのようにフカフカである。
部屋自体も一人用にしては広々としていて、隅々まで掃除が行き届いており、基調としている白が輝きを放っている。
ていうか眠っている間にだろうか、上品な香りのアロマまで焚かれているではないか。
ここ、本当に私の部屋なんだよね?
一応は私も貴族の端くれなんだけど、ここまで豪勢な部屋は味わったことがない。
カーテンを開けて朝日を浴びようとすると、部屋が三階にあることから、広い庭園と開拓途中の町の風景を眺めることができた。
なんだか町を統治している王様になった気分。
実際には統治者のディルの婚約者って立場だけど。
と、その時、タイミングを見計らったかのようにドアがノックされた。
「ローズマリー様、朝食をお持ちしました」
「あっ、お願いします」
使用人さんが朝食を持って来てくれたみたいで、ドアが開いた瞬間朝食の香りが鼻腔をくすぐってきた。
献立は焼きたてのマフィンの上に、ベーコンとスクランブルエッグを乗せたもの。
それと新鮮なサラダと、少しスパイスの効いた温かいスープ。
飲み物はさっぱりとした果実ジュースかハーブティーを選べたので、前者をもらうことにした。
使用人さんがグラスに果実ジュースを注いでくれる光景を、私は呆然としながら眺める。
私の家は伯爵位ではあるけど、特別裕福というわけではなかったから使用人さんは少なかった。
個別に朝食を持って来てくれることなんてなかったし、そもそも部屋が狭かったから食事なんて落ち着いてできなかった。
それが今では、何から何まで部屋に来た使用人さんが準備してくれる。
しかも朝食に使われている食材は、この美食の国と言われているソイル王国の基準から見ても、どれも良質なものだった。
「それでは朝食が終わる頃にまた伺います。ごゆっくりお召し上がりください」
「はい、いただきます」
最初はマフィンから。
外側はザクッと焼かれていて、中はふわふわもちもちとした食感。
具のベーコンはカリカリと香ばしく、スクランブルエッグはクリーミーな舌触りだ。
そしてマフィンと具の間には、爽やかな香りのハーブソースが塗られている。
だからだろうか、重さはまったくなく軽やかに食べ進めることができた。
サラダに使われている野菜や果実ジュースも新鮮そのもの。
まだ満足に開拓できていない地で、ここまでいいものが食べられるなんて思わなかった。
ディルが上手いこと仕入れ先を確保しているのだろう。
いずれはこのピートモス領でも農作や畜産が盛んに行われるだろうから、ますます鮮度のいい食材も手に入るに違いない。
「はぁ、美味しい……!」
私は爽やかな朝日に照らされながら、格別な朝食に舌鼓を打ったのだった。
朝食を済ませた後、私は待ちに待った書斎へと向かった。
基本的には屋敷に常駐していれば、その間は自由にしていいという。
であればやることは決まっていて、当然私は大好きな魔法に時間を使うことにした。
具体的には魔導書の熟読である。
「まどうしょまどうしょ〜」
書斎にはどんな魔導書があるんだろう。
ディルは実用的じゃない魔導書も紛れているかもと言っていたけど、私にとっては宝物と同じだ。
くだらない魔法でも、子供っぽい魔法でも、私の大好きな魔法に変わりはない。
そんな魔法とまた出会えるかと思うとわくわくが止まらず、思わずスキップしながら廊下を歩いていると……
「あっ、ディル」
前方からディルが歩いてきた。
何やら手に書類を持っていて、それに目を落としているのでこちらに気付いていない。
私は咄嗟に普通の歩き方に戻しながら、なんて声をかけようか迷ってしまった。
別に普通に声をかければいいだけなんだけど、学校の廊下をすれ違う時は、いつもお互いに鋭い視線を交換していたから。
そう考えると今の関係性は奇妙なものだなと思いつつ、とりあえず無難な挨拶を送ることにする。
「お、おはよう、ディル」
「んっ? あぁ、おはよう」
ディルは私に気付いて立ち止まり、挨拶を返してくれる。
なんか同じ屋敷で寝起きしたと考えると妙な気まずさがあって、少しぎこちなくなってしまった。
それをディルに見抜かれてしまう。
「何を固くなっているのさ。僕に挨拶するのは違和感でもあるのかな?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
いや、それも一応合っているのかな。
私たちは知り合ってから随分経つのに、思い返せば一度も「おはよう」を言い合ったことがないから。
「違和感があるなら、エルブ魔法学校の廊下みたいに、睨みつけてくるだけでもいいんだよ」
「私から睨んでたみたいに言わないでよ! ディルが睨んでくるから私も睨み返してただけでしょ!」
そもそも最初に勝負とか仕掛けてきたのはそっちのほうじゃん。
と思って言い返すと、ディルは不意に微笑をたたえた。
「そういう強気なほうが君らしいよ。じゃあ、用があったら改めて声をかけるから」
ディルはそう言って廊下を歩いていった。
なんかディルのほうが余裕がある感じがして少し悔しい。
でもおかげで気まずさがなくなって、私の心がまた軽くなった。
これなら明日からは、普通に「おはよう」を言えそうな気がする。
晴れ晴れとした気持ちになり、私は改めて書斎へと向かうことにした。
屋敷の一階の最奥の部屋がそれにあたり、私は高揚しながら書斎へと入る。
「わぁぁ……!」
そこには魔導書がいっぱい置かれていた。
私の部屋と同じくらい大きな部屋。
扉側以外の壁はすべて本棚になっていて、木造りの梯子が置かれるほどの段がある。
その中で大人な雰囲気を出すのは、焦茶色のシックなテーブルとチェア。どちらも豪華な装飾が施されている。
どことなく落ち着くその空間に立ち、私は静かに息を吸い込んだ。
「……本の匂いがする」
ここにある魔導書、全部読んでいいんだ。
この場所で自由に、時間の許す限り魔導書を読んでいいんだ。
そう考えるだけで高揚感が増していき、私はさっそく目についた魔導書に片っ端から手を伸ばした。
「一時的に視力をよくして、本とか読みやすくする魔法かぁ。こっちは洗濯物とか食材の水気を一気に取り払う生活系の魔法……。全部面白そう!」
初めて見る魔導書の数々に感動し、休みなくページをめくっていく。
気が付けば三時間も経過していて、すっかり昼食時となっていた。
こうしているだけでいいなんて、この職場はあまりにもホワイトすぎる。
それにご飯は美味しいし、使用人さんは優しいし、部屋は広くて綺麗だし。
一介の侯爵夫人として終わるはずだった人生なのに、まさかこんなにも優遇された生活を送れるようになるなんて。
「この職場、最高すぎるでしょ……!」
初めは実家のために領地開拓の手伝いを頑張ろうと思っていたけど……
それと同じくらい、この生活を続けるためにも、ここで活躍しようと思ったのだった。
――――
ローズマリーとの共同生活が始まった。
その字面だけでもディルは嬉しさが限界へと到達する。
好きな人と同じ屋根の下で暮らしている。その事実に高揚しない男子はいない。
同じ屋根の下で暮らしているということは、それだけで顔を見られる機会が何倍も増えるということだ。
当然、朝の廊下を歩く足取りは軽やかになる。
学生時代は魔法学校の廊下でたまにすれ違うか、同じ授業になった時くらいしか顔を合わせられなかった。
機会に恵まれなければ、まったく出会わずに一日を終えることだって珍しくない。
果たして今日は会えるだろうか。話しをすることができるだろうか。
そうそわそわしながら過ごして一度も顔を見られなかった日は、凄まじい落胆を味わうことになる。
けど今日からは、毎日好きな人の顔を見ることができる。
今一度その嬉しさを静かに噛み締めていると、前方からくだんの想い人がスキップしながらやってきた。
(随分と上機嫌だな)
見ているこちらの頬まで緩んでしまう。
おおかた書斎に所蔵されている魔導書が楽しみなのだろう。
そう思いながら、ディルは速やかに書類に目を落とし、ローズマリーに気付いていないフリをした。
こちらからは決して声をかけない。
下手をすれば、ローズマリーとの共同生活が始まって浮ついていることを気取られる可能性があるから。
向こうから声をかけられて、ようやく気付いたということにする。
「お、おはよう、ディル」
「んっ? あぁ、おはよう」
特に違和感なく返すことができて、密かに安堵する。
するとローズマリーが何やら緊張しているように見えたので、気遣いのつもりで尋ねた。
「何を固くなっているのさ。僕に挨拶するのは違和感でもあるのかな?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「違和感があるなら、エルブ魔法学校の廊下みたいに、睨みつけてくるだけでもいいんだよ」
「私から睨んでたみたいに言わないでよ! ディルが睨んでくるから私も睨み返してただけでしょ!」
少しふくれっ面になった彼女を見て、ディルは内心で喜びを噛み締める。
(やっぱり、今日も可愛らしい)
それからローズマリーと別れて、廊下を曲がった瞬間、ディルは壁に寄りかかって至福のため息をこぼした。
(この屋敷は、あまりにも最高すぎる……!)
こうして好きな人と毎日顔を合わせて話しができるなんて、夢でも見ているような気分だ。
しかしディルは、一抹の不安を抱いて眉を寄せる。
いつでも好きな人と出会えるというのは幸せなことに違いないが、その度に頬がだらしなく緩みそうになるのを耐えなければいけないと考えると……
なかなか過酷な日々にもなりそうだと、ディルは複雑なため息もこぼしたのだった。