第六話 「魔導書」
ソイル王国。
プラント大陸の東部に位置するこの国は、豊かな自然と温暖な気候に恵まれている。
そのため農作や畜産が盛んに行われており、質の高い食材と発展した食文化によって美食の国として知られている。
また、魔術師の育成に精力的に取り組んでいる国としても有名で、近隣諸国においてはトップクラスの軍事力を有している。
いまだに眠っている資源も多く開拓の余地を残しており、魔術師の質も一級で絶賛注目されている国と言ってもいい。
そんなソイル王国の豊かな景観を眺めながら、私は馬車に揺られていた。
現在、王国の最東部に位置するピートモス領を目指している最中である。
座席は向かい合わせの形で二つ分のシートがあり、対角の部分にディルが座っている。
私たちは特に何かを話すわけでもなく、二人して別の窓から外を眺めているだけで、馬車の中はやや気まずい空気に包まれていた。
うーん、何か話した方がいいのかな。
私たちはライバル関係で、仲良くお喋りする仲じゃないけど、さすがに沈黙が続くのは居心地が悪いから。
それにこの先一緒に暮らしていくことになるんだし、険悪なままでいるのはお互いに気持ちがよくないよね。
というわけで私の方から話題を振ることにした。
「今向かってるのはピートモス領にある屋敷って話だけど、それ以外の町とか村もちゃんと出来てるの? 未開拓の土地って聞いたけど」
「一応は少なからずの人里と、最低限の設備は整っているよ。エルブ英才魔法学校の在籍中に、勉学の傍らに少しずつ僕が開拓を手引きしたからね」
「へぇ、そうだったんだ」
そんなことしていたなんて全然知らなかった。
あの難関試験の数々を、開拓事業の片手間で乗り越えていたというのはシンプルにすごい。
「入学当初から、僕がピートモス領を任されることになるのは知っていたから、在学中に少しでも開拓を進めておこうと思ってね。ただあの学校のカリキュラムをこなしながら領地開拓をするのは難しくて、ほとんど進行はできなかったけど」
「それでも必要な町と設備はとりあえず整えられたんでしょ? 充分すごいと思うけど……」
そこで私は、ふとこんなことを思ってしまう。
「ていうかそれやってなかったら、普通にディルが魔法学校で一番になってたんじゃないの? なんか複雑な気分だよ」
「いいや、それはないね。絶対に」
「な、なんでそう言い切れるの?」
「順位だけで見れば、次席の僕と首席の君は一つしか違わないように見える。でも実際の実力はとんでもなくかけ離れているんだよ。たとえ僕が魔法の修練に注力していたとしても、この差は埋まらなかったはずだ」
「……なんかやけに素直だね」
ディルはその後、「ただ冷静に分析した結果だよ」と言って、また口を結んで窓の外に目をやってしまった。
一方で私は、彼が素直なところを見せたことに密かに驚く。
昔は頑固で悪ガキだった印象が強いけど、今はもう変な意地を張ることをやめたのかな。
まあ、お互いに大人になったことだしね。
と、その時私は、“大人”という単語からある重要なことを思い出して、再びディルに問いかけた。
「そ、そういえばさ……その屋敷って広い?」
「えっ? それって重要なこと?」
「いやだって、私たちってこれからその屋敷で一緒に暮らすわけでしょ? あんまり狭いとさ、ほら……」
「……まあ、個人の生活空間は保証されていないとね」
言葉足らずかと思ったけど、わかってもらえたみたいでよかった。
夫婦になるとはいえ、それはあくまでも形だけ。
私たちは本当に愛し合っているわけじゃないし、いまだにライバル関係が続いている仲だ。
だから大人の男女の線引きとして、部屋がきちんと分かれているか確かめておこうと思った。
いや、大人でも子供でも、男女なら同じ部屋で寝起きや着替えをするわけにはいかないよね。
「心配しなくても、屋敷はそれなりに広いから個人の部屋もちゃんと用意してあるよ。少なくとも君の生家の屋敷よりかは断然広いんじゃないかな」
「一言余計なんですけど!」
「部屋数も余っているくらいだし、使用人たちが住む宿舎も敷地内にある。それに広めの“書斎”が入るくらい屋敷は大きいから……」
「えっ?」
私は、とても大事な言葉を聞き逃さなかった。
体を前のめりにしてディルに近づき、確かめるように問いかける。
「い、今、書斎って言った!?」
「そ、そう言ったけど」
「もしかして、魔導書とか置いてあったりする!?」
「魔導書? あぁ、もちろんあるよ。というか書斎に所蔵されているほとんどの書物が魔導書なんだ。昔、魔術師として成長するために、目についた魔導書を片っ端から収集していた時期があったから」
「……」
魔導書。
魔法の習得方法を記した教本。
体内の魔素を具体的に別の性質や物質に変換するイメージを持てなければ、魔法は発動ができない。
ゆえに魔法習得にはイメージ修行が欠かせず、その修行方法や発動感覚などを先駆者たちが本に記して残している。
それこそが魔導書。またの名を『魔法先導書』。
私はそんな魔導書が好きだ。
いや、好きなんて言葉で片付けることができないくらい大好きだ。
魔導書は、まだ知らない新しい魔法に出会わせてくれる至福の書物。
見るだけでもわくわくさせてくれる贅沢なおもちゃ箱。
そんな魔導書が、広めの書斎に大量に所蔵されている。
そう考えただけで気分が高揚し、思わず私は馬車の中で立ち上がってしまいそうになった。
それをぐっと堪えて、私はディルに精一杯の懇願をする。
「お願いディル、それ読ませて!」
「えっ? まあ、仕事の時間以外だったら好きに読んでくれて構わないよ。正直実用的じゃない魔導書も紛れていると思うけど」
「それでもいいの」
非実用的であろうと、くだらないものであろうと、魔法は魔法。
私を夢中にさせてくれた、不思議で面白い神秘的な力。
私はどんな魔導書でも、全部ありがたく読ませてもらう。
許可を得られたことで、私は気持ちが昂ってつい歓喜の声を漏らしてしまった。
それを見たディルが、不意に微笑をたたえる。
「そういえば君、エルブ魔法学校でもしょっちゅう図書館にこもって、齧りつくように魔導書を読み漁っていたっけ。誰も使わないような役に立たない魔法が記された魔導書も、一冊一冊楽しそうにさ」
「だって魔導書には色んな魔法が書かれてて、魔導書の通りに訓練すれば“誰でも”その魔法を使えるようになるんだよ! すごく面白いじゃん!」
魔法好きの私にとっては本当に偉大な書物だ。
中身の魔法がどんなに非実用的であろうと。
「誰でもって……魔導書はそこまで万能な書物じゃないけど、まあ読みたいなら好きに屋敷の書斎で魔導書を読むといいよ。仕事以外の時間は、特に何も制限とかしないから」
「やった! ありがとう、ディル」
ディルとの共同生活や開拓事業の手伝いに、密かに不安を抱いていたけれど……
大好きな魔導書をたくさん読めることを知って、少しだけ気持ちが前のめりになったのだった。
と、その時……
不意に馬車が急停止し、私はディルに近づいていたこともあって、頭から彼のお腹に突っ込んでしまった。
「きゃっ!」
柔らかい感触とほのかに爽やかな香りを間近で感じる。
咄嗟に私は起き上がって、髪を直しながらディルに謝った。
「ご、ごめん、ディル……!」
「……いいよ、別に。ローズマリーが悪いわけじゃないし」
少し焦ってしまった私と違って、ディルは欠片も戸惑った様子を見せない。
相変わらずのその冷静さに感心していると、ディルは窓の外に訝しい目を向けた。
「それにしてもどうしたんだろうね? 何か問題でもあったのかな」
と、その疑問を聞きつけたかのように、焦った様子で御者さんが馬車の中に顔を覗かせた。
「も、申し訳ございませんディル様! お怪我はございませんか?」
「問題ないよ。ところで何があったのかな?」
「進行先に行商団と思われる馬車が停まっており、その者たちが魔物に襲われているようです」
「なんだって?」
ディルはすかさず馬車から降りる。
私もそれに続いて、進行先に視線を向けると、確かに遠方に行商団と思われる集団と魔物たちの姿が見えた。