第三十二話 「迫る魔の手」
マーシュ・ウィザーの襲撃があった祝賀会から二週間。
私はディルと一緒にピートモス領まで戻ってきていた。
無事に婚約発表も終わらせたため、また領地開拓の手伝いをする日々である。
と思ったのだけれど、マーシュとのあの一件があったためか、ディルが気遣ってしばらく体を休めるように言ってくれた。
私としては本当にもう大丈夫だったんだけど、直近で大仕事となりそうな開拓作戦は無さそうだったので、お言葉に甘えて屋敷で休息日をもらうことにする。
ディルも私を心配してか、屋敷にいてくれる時間が多くなった。
というのも、いまだにマーシュは逃亡中で、足取りがまったく掴めていないらしい。
王国軍と自警団の話によれば、すでに王都を出て別の町や領地に逃げ込んでいる可能性が高いとのこと。
だから再び私の前の現れることも否定できないからと、ディルは私を守るために屋敷に常駐してくれているのだ。
ちなみにウィザー家は息子の愚行に激昂し、家名を汚した罪を償わせるべく捜査に全面協力しているらしい。
王子の婚約者を襲撃したマーシュの汚名は、王国中に広まりつつあり、捕らえられるのも時間の問題と言われている。
その吉報を待ちながら、何事もない平穏な日々を過ごしていると――
それは、突然やってきた。
「ディル様! 緊急事態です!」
「んっ?」
ちょうどディルが、書斎に私の様子を見に来ている最中のこと。
開拓兵の一人が慌てた様子で、書斎の扉を蹴破るような勢いでやって来た。
“緊急事態”という言葉に、それまで穏やかだったディルも険しい表情になる。
「突然どうしたのかな?」
「森林地帯より先の地底湖で、封印されていた飛竜が目を覚ましました……!」
その知らせに、私とディルは思わず立ち上がる。
封印されていた飛竜と言えば、このソイル王国でも最恐の災厄と言われた伝説の魔物だ。
ピートモス領の開拓において最大の悩みの種になると、前々からディルが頭を抱えていた存在であるが……
「先ほど、森林地帯の開拓のために、土壌整備や魔物討伐を行っている班から伝達がありました。前触れもなく地底湖から飛竜が現れたと」
「いったいどうして……?」
ディルが驚愕する中、私は念のために確認の問いかけをした。
「飛竜って確か、『黒竜』って呼ばれてる伝説の魔物だよね? 昔の魔術師たちが犠牲になりながら、なんとか封印して深い眠りについてるはずじゃ……」
「あぁ、だから誰かが意図的に刺激しなければ、黒竜は目を覚ますはずがないんだ。奥地の開拓のために、いつかは黒竜を討伐しなければならなかったんだけど、それは戦力が整ってからにしようと思っていたのに」
ディルは顔をしかめて頭を抱える。
彼の見立てではまだ黒竜討伐への戦力が足りていないようだ。
そんな中でくだんの魔物が目を覚ましてしまった。
黒竜との戦いは、おそらく避けて通れない。
「黒竜は激しい飢餓状態のせいか、森を荒らしながら徐々にこのアースの町へ迫っているとのことです」
ディルは腕を組みながら悩ましい表情を見せる。
唐突なトラブルを受けて判断に迷っているようだが、僅かな逡巡の後、開拓兵に冷静に返した。
「森林開拓班には、安全な場所に避難するように伝えてくれ。間違っても下手に黒竜を刺激しないようにともね」
「はい、承知しました」
次いでディルは、私に目を向けて続ける。
「頼む、ローズマリー。一緒に来てくれ。こうなったら、この町と開拓兵たちに被害が出る前に、僕たちで黒竜を倒す」
「うん、わかった」
ディルならそう判断すると思った。
王都に応援を頼むこともできるけど、その間に領地が荒らされて最悪被害者まで出てしまうかもしれない。
それならば自分の手で止めに行こうとするはずだ。
そして私も、ディルに頼まれる前から同じ意思を抱いていた。
私たちならきっと、黒竜を止められるはず。
そうと決めた私たちは、さっそく森林地帯に向かうことにした。
屋敷を飛び出し、自らの足で森林地帯へと走っていく。
前回森に行った際は馬車を使ったけれど、今回は一刻を争う状況なので身体強化魔法を使って目的地を目指す。
魔素は消費してしまうけれど、その分断然早く辿り着けるからだ。
屋敷のあるアースの町から森林地帯まで、およそ二時間ほどと言ったところだろうか。
その推測時間よりもなお早く辿り着けるように、私とディルはひたすらに草原を駆け抜ける。
町や開拓兵への被害を抑えるのも当然だけど、せっかく開拓を進めてきた森林地帯だって荒らされたくない。
他にも手を広げていた鉱山や湖が近くにあるので、できるだけ早く黒竜を止めないと。
一心不乱に草原を走り、やがて一時間ほどが経った頃、遠方に森の姿が見えてくる。
これでも随分と早い方だが、状況が状況なだけに“ようやく”といった気持ちが強かった。
そのまま私たちは足を止めることなく森の中へと入っていき、すでに整備がされている道を突き進んでいく。
その道中、不自然な地響きが足元を襲ってきて、私とディルはハッと目を合わせた。
「今のはもしかして……」
「おそらく黒竜が暴れているんだろうね。ここまでその余波が届いているんだ」
姿は木々によってまだ見えないが、地響きの具合からしてそう遠くない場所にいるのはわかる。
私とディルは一層足取りを早めた。
気持ちに僅かな焦りが生まれる中、ディルが不意に横から話しかけてくる。
「黒竜は、ローズマリーをこの開拓作戦に誘おうと思った一番のきっかけでもあるんだ」
「えっ? そうだったの?」
「僕がこのピートモス領の開拓を任されると聞いた時から、黒竜は悩みの種だった。領地開拓を任せてくれた父様も、黒竜に関しては触れなくてもいいと言ってくれたんだ」
ディルは少し申し訳なさそうな顔で続ける。
「初めは僕もそのつもりだった。黒竜は何を拍子にして目覚めるかわからないから、下手に刺激しないように奥地の開拓は最初から諦めていたんだ」
次いで彼は、私に緋色を目を向けて、微かな笑みを浮かべた。
「でも、君に出会って考えが変わった」
「わたし?」
「ローズマリーは、過去に例を見ないほどの魔法の実力者で、僕は一度として勝つことができなかった。そんな君がもし協力してくれるなら、実現不可能と思われた黒竜討伐も叶えることができるんじゃないかと思ったんだ」
そんなことを考えていたんだ。
じゃあもし私がマーシュに婚約破棄されていなかったとしても、ディルは開拓作戦に私を誘っていたかもしれないってことか。
そう思うと、やはりあの時マーシュに婚約破棄されたのは僥倖だったと言える。
ディルとしては、侯爵夫人になった私には手伝いを頼みにくかったと思うし、私も魔術師として活動することを制限されていただろうから開拓作戦には参加できていなかったと思うから。
「ピートモス領の奥地には貴重な資源が大量に眠っている。安定した資源調達の道を作れたら、ソイル王国は著しい前進を果たすことができる。黒竜討伐は言ってしまえば、この国そのものの悲願でもあるんだ」
ディルは複雑な心境を示すように、眉を寄せて続ける。
「そしてこうして君の協力を得られて、あとは開拓兵の補充と成長を待つのみとなった。けどまさか、こんな形で封印が解かれるなんて微塵も思わなかったよ。いったいどうしてこんなことに……」
瞬間、その疑問に答えるかのように、道先に見える茂みが不自然に揺れた。
驚いた私たちは咄嗟に足を止めて、その茂みを注視する。
魔物か小動物か、はたまたまったく別のものか。
魔物であれば早々に討伐して先を急ごうと思っていたのだけれど……
そこから現れたのは、思いもよらぬ人物だった。
「えっ……」
ズタボロの衣服に傷だらけの全身。
痩せこけた頬は若干骨ばっており、髪はボサッと無造作に伸ばされている。
まともとは言えない姿をしている人物ではあったが、私たちはその人に深い見覚えがあった。
特徴的な青髪と翠玉色の瞳を持つ長身の男性……
「マーシュ・ウィザー!?」