第三十一話 「悪意の暴走」(元婚約者視点)
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
満天の星の下、死に物狂いで王都の夜道を走る影があった。
その者は人目を忍ぶように裏通りを駆け抜けて、人の気配を感じると息を殺して物陰に隠れる。
傍から見られていたらなんとも滑稽な姿に、その者は憤りを禁じ得ず思わず毒づいた。
「ぜ、絶対に許さんぞローズマリー……! そしてディル・マリナード……!」
王宮劇場から辛くも逃げ出したマーシュ・ウィザーは、王都からの脱出を図っていた。
すでに追っ手の衛兵たちが至る所を張っており、その目を掻い潜りながら逃げ道を探している最中である。
王宮劇場の休憩室で爆発の影響を受けて、体中は傷だらけ。
狭く陰鬱な裏通りばかりを走っていたため、衣服も埃に塗れている。
緊張と疲れで全身は汗まみれで、祝賀会用にセットした髪は見る影もなく崩れており、情けない現状に怒りが収まるところを知らなかった。
「こうなったのもすべて、あの神童の王子のせいだ……! 奴さえいなければ……」
ローズマリーを服従させることもできたというのに。
それ以前にローズマリーの気持ちが自分から離れてしまったのも、あのディルが原因だとマーシュは思っている。
「ローズマリーの心は確実に俺に向いていたはず……! あの王子さえいなければ、ローズマリーの心は変わらなかったというのに……!」
そしてローズマリーさえ手元に戻ってくれば、躓いた開拓事業を立て直すことができたはずなのに。
それとは正反対に、奴らのピートモス領の開拓が滞りなく進んでいることに、ますます怒りが増していく。
自分は任された領地の開拓に失敗しているのに、向こうだけ順調に領地開拓が進んでいるなんて……
(それならば……)
奴らの開拓事業も、破滅に追い込んでやる。
マーシュの胸の内に、ドス黒い感情と非人道的な思考が生まれた。
奴らだけが成功している現状が許せない。
それならばこちらと同じように地獄に叩き落としてやるまで。
そのためには……
(ピートモス領か……。確かあの場所には……)
マーシュは憤りの中で、ある一つのことを思い出す。
ピートモス領は開拓の余地を存分に残した価値ある土地だ。
しかし厄介な魔物が多く生息しており、長年開拓に難儀している場所でもある。
中には災厄級の魔物も存在していて、此度の祝賀会はその一種を討伐した祝いの場だと聞いた。
ただ災厄級の魔物は、今回討伐された大蛇の魔物だけではなく、別の種がまだピートモス領に存在している。
(伝説の飛竜――『黒竜』。話によれば、ピートモス領の奥地に封印されていると聞く)
八十年ほど前に突如として現れ、ソイル王国を襲った凶悪な魔物。
多大な魔術師が餌食になり、王国史上最大の被害をもたらしたとして災厄級の魔物に数えられた。
そのあまりの強さから、討伐が困難ゆえに、人里離れた辺境の地に封印することしかできなかったと言われている。
その辺境の地こそが、現在ディルとローズマリーが開拓を進めているピートモス領。
マーシュはその話を思い出して、静かに下卑た笑みを浮かべた。
「俺の怒りを買ったこと、必ず後悔させてやるぞ……!」
極限まで追い込まれたマーシュ・ウィザーは、人知れずそう呟くと、裏路地の闇にその姿を消したのだった。