第三十話 「個人的な恨み」
ひとしきり泣いた後。
気持ちを落ち着かせた私は、ようやく体の震えと涙を止まることができた。
そしてずっと静かに寄り添ってくれていたディルにお礼を言う。
「ごめんね、ディル。もう大丈夫だよ。ありがとね」
「これくらいどうってことないよ」
「ううん、ずっと傍にいてくれたことだけじゃなくて、危ないところを助けてくれて」
まだそのことについてお礼を言えていなかった。
「ディルが来てくれていなかったら、本当にどうなってたかわからない。だから本当にありがとう」
「……それも礼には及ばないさ」
ディルはなんでもないように肩をすくめる。
命のかかった剣戟をして、窮地を助けてくれたというのに、どこまでも冷静な王子様だ。
「それよりも、本当にもう大丈夫かい? 気持ちの整理がきちんとつくまで、休んでおいた方がいいと思うよ。僕も一緒にいるから」
「本当にもうよくなったから大丈夫だよ」
まあ、もう少しこうしていたいような気もするけど……。
でもいつまでもじっとしてはいられない。
マーシュが襲撃してきた関係で、私は詳しい経緯を話さないといけないし、ディルだってまだやることがあるだろうから。
名残惜しい気持ちで椅子から立ち上がると、私は先ほどの戦いを思い出してディルに言った。
「それにしても、ディルはすごいね」
「えっ、何が?」
「魔法が使えなくても、あれだけ強いなんてさ。私なんて何もできなかったのに」
さすがは王宮剣術を嗜んでいるだけのことはある。
魔物との戦闘でも魔法に剣術を加えて、独自のスタイルで戦っているし、こういう不測の事態にも対処できるのはとても便利だと思った。
「私も剣術習ってみようかな」
ディルに教えてもらうこともできるし。
そう考えて何気なく呟くと、ディルは複雑そうな顔でかぶりを振った。
「君に剣術は似合わないよ」
「えっ、どうして?」
「剣術は人を殺めるための技術だから」
ディルは微かに俯いて、自分の手元を見下ろしながら続ける。
「魔法は魔物を倒すための力であるのと同時に、人々の生活を豊かにする奇跡でもある。でも剣術は人を殺すためだけに進化を遂げてきた恐ろしい技術だ。習っていてとても気持ちのいいものではない」
……そうなんだ。
私は剣術を習ったことがないからわからないけど、ディルの表情から穏やかではない気持ちが伝わってくる。
まあちんちくりんの私には確かに似合わないかもね。やっぱり剣術を学ぶのはやめておこう。
「君はいつもみたいに、くだらない悪戯のような魔法に夢中になっていればいいのさ。その方が断然似合っているよ」
「く、くだらなくなんてないわよ!」
ムキになって言い返すと、ディルはその返しを求めていたと言わんばかりに小さく笑った。
わかりやすく揶揄われてしまった。
おかげで空気がより明るくなって、私は軽やかな足取りで部屋を後にしようとする。
しかし出る直前、私はふとあることを思い出した。
「そういえばディル、さっきマーシュに言ってたことだけど……」
「んっ?」
「前々から“個人的な恨み”があるって、あれってなんのことだったの?」
剣で斬り結ぶ直前、『君には前々から個人的な恨みもある。加減は期待しないでくれ』と言っていた。
思い返してみても、ディルとマーシュに接点はなかったと記憶している。
魔法学校で接しているところなんて見たことないし、二人に因縁のようなものがあるという話も聞いたことがない。
いったいマーシュにどんな恨みがあるんだろう?
そう疑問に思って尋ねてみたけれど……
「さあ、なんのことだろうね」
ディルは肩をすくめて微笑むだけで、教えてはくれなかった。
――――
祝賀会で発生した事件の後処理は、衛兵たちに任せることにした。
すでに父のクローブ国王にも話は渡っているらしく、会場で顔を合わせると、ローズマリーを王宮の部屋まで連れて行ってあげるように言われる。
ローズマリーはすでに気持ちが落ち着いているみたいだったが、強がりであることも否定できず、ディルは彼女を部屋まで送っていくことにした。
そして無事に送り届けると、ディルは来た道を引き返して再び王宮劇場へと戻っていく。
父には自分も休むように言われたが、逃亡したマーシュの痕跡が何か残っていないか、自分で探ろうと思ったからだ。
(まさか本当に、セージ兄様の言った通りになるなんて)
ディルは王宮劇場へ続く道を歩きながら、兄のセージから言われたことを思い返す。
ローズマリーの存在が周りに知られ始めている。
それによって彼女の価値に気が付いた者たちが、その力を悪用しようと企むかもしれない。
あの助言があったから、ローズマリーの窮地に駆けつけることができたので、ディルは心中で兄に感謝を送る。
(それにしても、元婚約者のマーシュ・ウィザーが真っ先にローズマリーを狙ってくるとは思わなかったな。しかもヨリを戻そうとしてきたなんて)
卒業パーティーの時点では、夫となる自分よりもいい成績をとったローズマリーのことを妬んでいた。
ということは、その後に彼女の活躍を聞いて、改めてローズマリーの魔術師としての価値に気付いて、妻として囲おうと思ったわけか。
そうディルは考えたが、ふとある噂話を思い出してかぶりを振る。
風の噂で、ウィザー侯爵領の開拓の一部が滞っていると聞いた。
名家の令息は家督を引き継ぐ関係で、開拓事業の一端を任されることが多く、おそらくマーシュも一部の領地開拓を託されたはず。
滞っている開拓はマーシュが引き継いだものだろうか?
であれば今回、強引にローズマリーを懐に引き入れようとした辻褄も合う。
マーシュは任された開拓事業で大きく躓いて、その失敗を拭うためにローズマリーの力を借りようとしたんだ。
……いや、借りるなんて生ぬるい表現は間違っているか。
(マーシュは、ローズマリーの力を自分のものにするべく、無理矢理に服従させようとしたんだ……!)
鎮まりかけていた怒りが再び沸き上がってくる。
ローズマリーから、マーシュの悪行についてはすでに聞いてある。
その時も、心穏やかに話を聞くことなんてまるでできなかった。
これだけの憤りを感じたのは生まれて初めてのことだ。
最愛の人物が毒牙にかけられそうになると、人はここまで感情が膨れ上がるものなのか。
(相手があのマーシュ・ウィザーだからというのもあるのかもしれないけど)
ディルは前々からマーシュに対して個人的な恨みを持っている。
というのも複雑な恨みではなく、内容は至極単純なものだ。
長い間、ローズマリーと婚約者同士であったのにも関わらず、彼女を冷遇していたことに対する恨み。
日頃の無視は当然ながら、別の令嬢と遊び歩いていたマーシュを昔から許せないと思っていた。
ローズマリーは彼のために花嫁修行にも抜かりなく励んでいたというのに。
好きな人の婚約者がクズであるとわかった時は、さすがに穏やかな気持ちでいることができなかった。
(完全に私恨だな、これは……)
マーシュと剣を交えた際は、さすがに私情を挟みすぎた。
この先はなるべく私恨に惑わされないようにしようと、ディルは反省しながら調査に向かう足取りを早めた。