第二十七話 「豹変」
……やり直す?
それが以前の婚約者同士の関係を元に戻すという意の言葉だとすぐにわかる。
どういうつもりなのかまるでわからずに言葉を失っていると、マーシュ様は翠玉色の目を申し訳なさそうに細めて続けた。
「ずっと君のことを考えていた。君と離れることになってしまってからずっと。どうやら自分で思っていた以上に、ローズマリーは俺の中で大きな存在になっていたみたいなんだ」
……私は、悪い夢でも見ているんだろうか。
よもやマーシュ様がこんなことを言ってくるなんて考えもしなかった。
学生時代、いつもこちらから挨拶をしても無視ばかりをしてきて、私に対して微塵も興味を示していなかった。
婚約者どころか同じ人間として認知していたかもわからないほどで、彼からは無の感情しか向けられたことがない。
それなのにどうして今さらになってこんなことを言ってきているのだろうか。
私の聞き間違い?
それともマーシュ様が、魔法か何かで何者かに操られている?
それらの疑問以上に、私は怒りの感情を強く抱いてしまった。
「……ご自分で何を仰っているか、おわかりですか?」
私はおよそ四ヶ月前の、エルブ魔法学校の卒業パーティーでの出来事を思い返しながら語気を強める。
「自分から婚約を破棄しておいて、今さら勝手なことを言わないでください」
突然の婚約破棄を受けて、私は大きなショックを受けた。
それだけじゃなく、大勢の前で恥をかかされて、心をひどく傷付けられた。
それなのに今さら、そんな相手と一緒になれるはずがない。
そもそも顔すら見たくないと思っていたほどなのに。
嫌悪感を示すように、あからさまに顔をしかめてみせるが、マーシュ様は折れずに謝罪をしてくる。
「あの時は本当にすまなかった。情けないことに婚約者の君の才能に嫉妬し、一方的に君を傷付けることをしてしまった。今では間違ったことをしてしまったと、心から反省と後悔をしている」
言葉は丁寧。
表情にも申し訳なさが滲んでいる。
けれどどこか嘘くさい感じが拭えず、彼への嫌悪感を振り払うことができなかった。
「だから今一度、俺とやり直してほしいと思っているんだ。傾いている実家の経営も俺が立て直す。一方的に婚約破棄してしまったことへの謝礼も渡す。どうか、もう一度俺との関係を考えてほしい」
マーシュ様は今までに見せたことがない真剣な表情で訴えてくる。
本当にこれまで接してきたマーシュ・ウィザーとはまるで別人のようだった。
もしかしたら彼の言葉に偽りはなく、本当に心を入れ替えたのかもしれない。
けど……
「……ふざけないで」
私の心は変わることなく、マーシュ・ウィザーを拒絶した。
「仮に本当に、卒業パーティーでのことをきちんと反省していて、関係をやり直したいと思っているとしても、あなたは決定的に大きな間違いに気づいていない」
「……何か、気に障ることでも言っただろうか?」
根本的なことがわかっていないようなので、私はため息まじりにはっきりと告げた。
「私は第二王子ディル・マリナードの妻になるの! すでに婚約発表を済ませた女性に言い寄るなんて、非常識もいいところです!」
マーシュの翠玉色の瞳が大きく見開かれる。
大層驚いているようだけど、私は当たり前のことを言っただけだ。
今回の祝賀会に参加していたのなら、私とディルが婚約発表をした場面も見ているはず。
それで寄りを戻そうと考えるなんて非常識どころか正気の沙汰とは思えない。
自分のところに戻ってくると確信でもしていたのだろうか。私がマーシュに好意がある前提で話をしないでほしい。
「変な噂が立っても困るから、二度と私の前に現れないで!」
力強く拒絶を示すと、マーシュはわかりやすく歯を食いしばった。
そんな彼に未練の一つもない私は、足早に休憩室を後にしようとする。
しかし……
「…………大人しく言うことを聞いていればいいものを」
マーシュは扉の前から動こうとせず、逆に私を妨げるように佇んでいた。
退きなさいと告げようとしたけれど、その寸前マーシュの前髪の隙間から鋭い眼光が覗いて息が詰まる。
加えて彼は、穏やかならぬことを言い始めた。
「やはり貴様は、腕尽くで従わせるしかないようだな」
「――っ!」
明らかな敵意を感じて、私は咄嗟に後退りをする。
そしていつでも魔法を撃てるように右手も構えた。
これがマーシュの本性。
彼はやはり心を入れ替えたわけではなく、偽っていただけなんだ。
自分の思い通りにならなくて、その化けの皮が一気に剥がれた。
マーシュの目的は定かじゃないけど、思い通りにさせるわけにはいかない。
薄暗い室内に一層の月明かりが差し込み、朧げだった奴の顔が照らし出される。
そこに薄気味悪い笑みが浮かんでいるのが見えて、私は息を飲みながら警告を送った。
「……何かするつもりなら容赦しない。怪我したくなかったら、もうここから帰って」
向こうは私の魔術師としての実力を知っている。
だからこれで充分に警告になると思った。
けれど……
「抵抗したければするがいい。貴様の好きなくだらない“魔法”とやらでな」
マーシュはそう言いながらこちらに近づいてくる。
強がりなどではなく、本気で私の魔法を警戒していない様子だった。
やりすぎれば大怪我をさせてしまうかもしれない。
けど今はそんなことを気にしている場合じゃない。
強烈な危機感を覚えた私は、容赦せずに魔法での迎撃を試みた。
刹那――
「えっ?」
己に降りかかっている異変に、遅まきながら気が付く。
魔法が……まったく使えなかった。
「どう、して……?」
魔素を性質変化させられない。
どころか体の中にあるはずの魔素をほとんど感じ取ることができない。
まるで魔素が眠りについてしまったかのように。
今日は一度も魔法を使っていないので、魔素切れは起こしていないはず。
私の体に、何が起きて……
「まさか、夢醒石……?」
私は反射的に部屋の中を見渡す。
すると部屋の隅々に、青白く光る石が見つかりづらいように置かれているのを見つけた。
付近にある魔素の働きを阻害する天然鉱物――『夢醒石』。
効果はとても微弱で、拳大の夢醒石一つを持っていても大した影響はない。
しかしその数が膨大なものになれば、魔術師の魔法の力を抑え込むこともできてしまう。
この部屋の至るところに大きな夢醒石が仕掛けられていて、閉所ということもあって私は強く影響を受けているんだ。
今この瞬間、この場所は、魔術師を無力化する異常な空間へと変質している。
おそらくこれを仕掛けたのはマーシュだ。
私がこの部屋に来ることを予期して、あらかじめ夢醒石を置いたのかもしれない。
いや、断定はできないけど、私から手巾を盗み取ってこの部屋に来るように仕向けた可能性すらある。
目的はたぶん、いざとなったら私を力尽くでねじ伏せて、強引に従わせるため。
魔法が使えないのは向こうも同じだけど……
「お互いに魔法が使えないとなれば、勝つのはこの俺だ……!」
男性と女性の関係上、腕力、体格、身体機能にあまりにも差がありすぎる。
身の危険を感じた私は、なんとかしてこの場から逃げ出そうとした。
しかし走り出した瞬間に腕を掴まれて、乱暴に引っ張られてしまう。
その勢いのまま近くに置いてあったソファへ押し倒されて、腕を掴まれたまま拘束されてしまった。
私の上で、マーシュが下卑た笑みを浮かべる。
「やはり女は、非力で情けない存在だな。女が男に勝てるはずがないんだ」
「……っ!」
振り解けない。
圧倒的に力の差がある。
生物的に勝てないと本能が語ってくる。
そして今一度痛感させられる。
魔法を奪われた私は、どうしようもなく弱い存在なのだと。
「二度と俺に逆らえぬよう、その身にしかと教え込んでやる」
マーシュは片手で私の両手首を押さえる。
そしてもう片方の手をドレスの胸元に伸ばしてきた。
叫んだら殴られるんじゃないかという恐怖で息が詰まる。
私は声を上げることもできず、ただ惨めに涙を滲ませることしかできなかった。
「僕の婚約者に何をしている」
刹那――
視界の端で、見慣れた銀色の髪が揺れた。
同時に、鋭い手刀が横から振り抜かれて、マーシュの首筋に打ち込まれる。
「ぐっ――!」
その衝撃で奴は私の上から吹き飛ばされて、休憩室の机や椅子を蹴散らしながら地面に倒れた。
突然のことに呆然と涙ぐんでいると、助けに来てくれたその人は、私を庇うように前に立ってくれる。
「遅くなってすまない、ローズマリー」
「……ディル」
頼もしいディルの背中を見て、私は安心感からさらに涙を流してしまった。
そしてディルは、倒れているマーシュに細めた目を向けて、拳を力強く握りしめていた。