第十一話 「開拓作戦」
屋敷に来てから一週間が経過した。
その間私は、ディルに言われた通りに屋敷にいるだけの生活をしている。
書斎で魔導書を読んだり、気分転換に庭を散歩したり、たまにキッチンを借りてお菓子なんかも作ったり……
一言で言えば“自由”そのものだった。
ディルの婚約者らしいことは何もせず、本当に好きなことだけをする日々。
あまりにも幸せな毎日だ。
ここまでいい暮らしをさせてもらうと、自然とあることを想像してしまう。
もしあのままマーシュ様と婚姻して、ウィザー侯爵家に入っていたとしたら、どんな生活を送ることになっていたんだろうと。
侯爵夫人としてマーシュ様の命令に絶対的に従わなければならず、色々な雑事を押しつけられることになっていたのはまず間違いない。
私が自由に過ごせる時間は限られていたと思うし、何より険悪だったあの人から心ない言葉をかけられ続ける苦痛の日々を送ることになっていただろう。
「……ディルに拾ってもらえて、本当によかったなぁ」
私は書斎で魔導書を読みながら、しみじみとそう思ったのだった。
そもそも婚約破棄された後、あのまま誰にも拾ってもらえていなかったとしたら、ウィザー家に入る以上の地獄を見ていたかもしれない。
実家の貧困問題解決のために社交会へ足繁く通わなければならず、男を立てられない愚女という噂のせいで、大勢の参加者たちから非難を浴びることになっていた。
私は思っている以上に、ディルにとんでもない窮地から救い出してもらったのかも。
そんなことを考えて一層感謝の気持ちを膨らませていると、不意に視界の端に本棚から落ちかけている本が映った。
どうやら隣にあった魔導書を引き抜いた際にずれて、半身が本棚からはみ出てしまったらしい。
それを戻してあげようと思って歩み寄ると……
「あっ、この魔導書……」
それが偶然にも見知った魔導書で、思わず私は苦笑を浮かべた。
「ディルも持ってたんだ、これ。しかもすごく擦り切れてるし。まあ持ってない魔術師の方が珍しいか」
エルブ魔法学校の図書館にも置いてあったし、なんなら私の実家にも置いてあるくらいだ。
おそらく世界で一番有名で、一番写本にもなった魔導書。
そして世界で一番、習得が困難な魔法の魔導書でもある。
賢者バージルが残したとされる、『飛行魔法』について記された魔導書だ。
魔法が超常的な現象ではなくなったのは、かなり昔の話だ。
記録によれば五百年前の国家戦争でも、すでに魔法が用いられた記述があるらしい。
そのことから、およそ六百年近く前から、魔法は人間にとって身近なものになったと考えられている。
それから魔法の研究は進み、魔術師たちは独自に新たな魔法を開発しては、その習得課程を魔導書として残している。
賢者バージルが残した飛行魔法の魔導書もそのうちの一冊で、発見されたのは今から三百年も前の話だそうだ。
しかしその飛行魔法を習得できた魔術師は、著者のバージルを除いて、この三百年間一人も存在しない。
「人という種を、地上から解放し、空の領域へ踏み込ませる夢想の魔法――【神の見えざる翼】」
類稀なる魔法の才覚を持った天才バージルが、貴重な生涯をたった一つの魔法だけに捧げ、天寿を全うするその際でようやく習得が叶った最難度魔法。
その習得の難しさから、魔法の中で唯一『五階位』の位を与えられた。
魔法の種類は数千にも及ぶと言われているが、飛行を可能にする魔法は【神の見えざる翼】の他に見つかっていない。
三階位や四階位の魔法を並列発動すれば、似た事象を引き起こすことはできるけれど、それも少しの間浮いたり高く跳んだりすることができるだけ。
空を泳ぐように自由に飛び回れるらしい【神の見えざる翼】とは似ても似つかない劣化版だ。
私もこの五階位魔法の【神の見えざる翼】だけは、魔導書を読んでも習得ができなかったんだよね。
バージルの魔導書を見る度に悔しさが蘇ってくる。
「使ってみたいけど、全然感覚が掴めないんだよね……」
魔導書を読んでも習得できなかった魔法は、今までこの【神の見えざる翼】だけ。
空を自由に飛べるようになる魔法なんて、人類の夢そのものだ。
だからこそこれは、今までで一番多く書き写された魔導書と言われている。
いつかは絶対に使えるようになりたいな。
と、切実にそんなことを考えていると、不意に書斎に一人の人物が入ってきた。
「ローズマリー、ちょっといいかな」
「んっ? どうしたのディル?」
「次の開拓作戦の日程が決まったんだ。そこにローズマリーも参加してもらう」
「開拓作戦……」
屋敷に来てから一週間。
いよいよ初めての仕事がやってきた。
それを伝えるために、ディルは珍しく書斎へ来たらしい。
「その作戦会議が、今日の夕方に屋敷の大広間で行われる。開拓兵たちとの顔合わせの場にもなるから心得ておいてくれ」
「う、うん」
改めてそう言われて、私は少し手を冷たくする。
顔合わせか。
開拓作戦そのものの不安も大きいけど、開拓兵たちに挨拶をするのも同じくらい緊張するなぁ。
それが顔にあらわれていたのか、ディルが気遣うような言葉をかけてくれた。
「顔が強張っているよ。まさか緊張しているのかい?」
「そ、それはそうでしょ。開拓兵の人たちと顔を合わせるのは初めてだし……」
いや、それ以上に……
「何より、卒業パーティーの場であれだけ色んな人たちから否定されたからね。女性魔術師の私が、重要な開拓作戦に受け入れてもらえるかわからないし」
今でも脳裏に焼きついている。
魔法学校の卒業パーティーで浴びた数々の非難を。
『女は花嫁修業だけやってりゃいいのによ』
『そもそも女なんかに魔術師が務まるはずねえんだからな』
『誰も貴様の力など認めていない』
私はあくまで女性魔術師として開拓作戦を手伝う立場だ。
だから女性魔術師を蔑視している人がいれば、開拓作戦の参加に反対される可能性もある。
開拓兵の人たちは王国軍からやってきた魔術師たちということで、身分の高い男性魔術師が多いだろうし。
女のくせに出しゃばりすぎと思われたりしないだろうか。
その開拓作戦を指揮するディルも、同じような懸念を抱いているようだった。
「確かに女性の社会的進出や活躍を快く思わない人間というのはいる。卒業パーティーで見た通りね。同じような者が開拓兵の中にいるとは考えたくないけど、人の気持ちまで完全に操ることはできないから」
たとえディルについて来てくれた仲間でも、私を否定する人間はいるかもしれない。
今一度ディルにそう言われて、私はますます不安を加速させる。
再び耳の奥で卒業パーティーで浴びた非難が蘇り、唇を噛み締めようとしたその時……
「でも、大丈夫だよ」
「えっ?」
「もし君を否定する者たちが現れても、彼らはまだローズマリーの実力を知らないだけだ。君が魔法学校で培った力を発揮して、相応の活躍を見せれば、自ずと周囲は君のことを認めてくれるはず。僕がそうであるようにね」
「…………」
不意に慰めにも似た言葉をかけてもらって、私は思わず固まってしまった。
ディルが私の力を認めてくれているのは知っているけど、また改めて言葉にしてくれるなんて。
いや、私の不安を和らげさせるために、悔しい気持ちを押し殺して慰めの言葉をかけてくれたのか。
さらにディルは私を気遣うように続けてくれる。
「それに僕もできる限りサポートをする。理不尽にローズマリーを淘汰しようとする者がいれば、僕が必ず君を守ると約束するよ。君を開拓作戦に誘った者の責務としてね」
「……ありがとう」
これ以上ないほど心強い言葉だった。
長年、ライバルとして戦い続けてきたからこそ、ディルの気持ちの強さと正直さを知っている。
ディルが必ず守ると言ったなら、絶対に守ってくれるという安心感がある。
魔術師としてはいまだに競い合うライバルだけど、協力関係の上で、この人が味方でよかったと改めて思った。
「ていうか、魔法学校の成績で僕に勝っておいて、その弱気な態度はいったいなんだい?」
「えっ?」
「君に負けた僕の方が堂々としているなんて、僕が間抜けに映るじゃないか。もしかして嫌味のつもりかな?」
「それとこれとは話が違うでしょ……」
あくまでそれは性格の問題じゃん。
と思ってそう返すと、ディルは「それもそうか」と言って肩をすくめた後、「じゃあ夕方の作戦会議よろしく」と続けて書斎を出ていった。
開拓兵たちと初めての顔合わせで不安になってしまったけど、ディルのおかげでかなり気持ちが楽になったのだった。