第十話 「崩壊の予兆」(元婚約者視点)
「マーシュ様、わたくしが持ってまいりましたお酒は気に入っていただけましたか?」
「あぁ、実に格別だ」
ソイル王国の西部に位置するウィザー侯爵領。
その屋敷の自室で、マーシュ・ウィザーは婚約者のパチュリー・ユイルと共に美酒に酔いしれていた。
マーシュはエルブ英才魔法学校の卒業パーティーの後、ウィザー侯爵領の屋敷に戻ってきた。
本格的に跡継ぎとして領地経営と開拓事業を担うためである。
ただ、今はまだ領主の父が健在のため、彼は開拓事業の一端を任されるのみとなった。
そして実際に仕事を始めるまでまだ時間があり、現在はこうして屋敷でのんびりと過ごしている。
「こうしてゆっくりとご一緒できる時間が残り少ないと思うと、わたくしはとても寂しく思いますわ」
「なに、任されているのは開拓事業の一端のみだ。俺ならばすぐに役目を終えられる」
「はい。わたくしも花嫁としてマーシュ様のお手伝いを精一杯させていただけたらと思っております。改めて、あの貧乏伯爵家の娘ではなく、わたくしを花嫁として選んでいただき感謝いたします」
同じソファに座りながら、二人は身を寄せ合う。
献身的に支えてくれる、眉目秀麗な新しい花嫁。
魔法ばかりにうつつを抜かし、あまつさえ夫の立場を陥れる愚女とは大違いだ。
やはりローズマリー・ガーニッシュとの婚約を破棄して正解だったと、マーシュは改めて思う。
「それにしても、ディル王子も見る目がありませんわね。あのような女を娶るなど」
「あぁ、まったくだ。どうせあの女の愚行に耐えかねて、すぐに婚約を破棄することだろう」
周囲の人間たちからの反対も相まって、王子に見限られるのも時間の問題だ。
卒業パーティーでもあれほど非難の嵐だったのに、その女が王子の婚約者として認められるはずがない。
(夫となるこの俺を差し置いて首席で卒業しおって、せいぜい束の間の安息を楽しんでおけ)
マーシュは勝ち誇ったような微笑をたたえて、また一口美酒を飲んだのだった。
その時……
「おい、マーシュ」
「……父上」
仕事で遠方に出ていた父――チャイブ・ウィザーが屋敷に戻ってきて、マーシュの部屋を訪ねてきた。
マーシュが魔法学校を卒業して屋敷に帰ってきてからずっと不在だったため、久々の親子再会となる。
ただ、父の顔は険しいものだった。
「聞いたぞ、ガーニッシュ家の娘と婚約を解消したそうだな。いったいどういうことだ?」
「あの女が自分の花嫁に相応しくないと思っただけです。ウィザー家の侯爵夫人となる器が、あの女には微塵もなかった」
婚約破棄の話は、マーシュが独断で進めたものだ。
そのため父は屋敷に帰ってきてから初めてその話を聞き、部屋に飛んできたというわけである。
元々、マーシュとローズマリーを婚約者同士にしたのは、ガーニッシュ伯爵領に眠っている鉱山が目的だった。
そこまで貴重な鉱石が採れるわけではないが、年々僅かながらその鉱石が高騰していることを受けて、先んじてその鉱脈を押さえておこうという魂胆だった。
しかしその当てもすでに別口で見つけているため、それについては咎めるつもりはないけれど……
「ガーニッシュ伯爵家とはこの際切れても問題はない。だがあの伯爵令嬢は、腐ってもあのエルブ英才魔法学校を首席で卒業できる実力があったのだぞ。使い道はいくらでもあっただろう」
「その首席卒業の名誉もただの偶然に過ぎません。他の生徒たちが家督の責務で多忙な中、あの女は一人だけ花嫁修行を放って魔法に注力していたのです。抜け駆け以外の何物でもない」
マーシュはここにきても、ローズマリーの力を認めることはしなかった。
首席での卒業を叶えたのは、あくまで他の生徒たちが多忙だったからと。
自分も含めて、他の生徒たちが魔法に注力していたら、あの女に遅れをとることなんて絶対になかったと確信している。
「だとしてもだ。私に一言もなく独断で婚約破棄をするなど言語道断だ。ガーニッシュ伯爵家への慰謝料は貴様の私財から賄わせてもらうぞ。せいぜい開拓事業で成果をあげて懐を暖め直すことだな」
「…………」
父は査定表だけ置くと、早々に部屋を後にした。
マーシュとパチュリーの二人だけが残された部屋に、一瞬の静寂が訪れる。
その中でマーシュは密かに唇を噛み締めていると、パチュリーが慰めにも似た言葉をかけた。
「マーシュ様は決して間違ってなどおりません。わたくしだけはあなた様の味方であり続けます」
「……ありがとうパチュリー」
そう、自分は間違ってなどいるはずがない。
婚約破棄は正しい選択だったのだ。
あの女に使い道などあるわけがないのだから。
何より……
(夫を立てることもできない愚かな花嫁など、俺の隣には必要ない……!)
マーシュは父が置いていった査定表を手に取ると、残留していた不安ごと消し去るように強く握りつぶした。