お父様のために名家に嫁ぎたい令嬢の才色兼備な義弟はとうとう限界を迎えてしまいました
「他に好きな女性ができた。ラーナ嬢、君との婚約を破棄したい」
目の前のタングリー・アルセイ・シド侯爵は、悪びれることなくそう言った。
こちらを凝視する彼は私より十も年上。強面だが案外病弱で、本日も顔色が優れない。
私の右手にはフォークが握られている。
勿論怒りのあまりシド侯爵を刺そうなどと考えて握っているわけではなく、この場が定期的に行われる食事会の最中だったから。
「申し訳ない」
シド侯爵は形ばかりの謝罪の言葉を口にして、勢いよく席を立った。
私は動かない。
去っていくシド侯爵を追いかけたところで掛ける言葉なんて何一つない。
不思議と哀しいとも思わなかった。ただ、由緒あるシド家に嫁げなくなり、お父様が悲しむだろうと思っただけ。
それだけだった。
「姉さん」
いつの間にか、私の正面にユアンが立っていた。
ここはシド侯爵のお屋敷。
「どうして……」
庭で馬車と一緒に待たせている従者のルフが迎えに来るなら分かるが、呼んでもいない弟のユアンがこの場にいることは不可解極まりなかった。
「迎えに来たのです。姉さんのことが少し心配だったので」
ユアンは美しい顔を伏せて、いつもの穏やかな口調で答えた。
私は馬車の中で婚約を破棄されたことをユアンに伝えた。
「そうですか。こんなことを言ってはなんですが、実は以前からシド侯爵の善からぬ噂を耳にしておりましたので、返って良かったのかもしれません」
「善からぬ噂?」
「ですから、その……他の令嬢との噂です。姉さん、大丈夫ですか?」
ユアンは心配そうな表情で私に視線を送る。
私は大丈夫という意味を込めて、ほんの少しだけ笑った。
「それが不思議なことに自分に魅力がないって言われたのに、全然哀しくないの。いえ、不思議なことでもなんでもないわね。最初からお互い気持ちのない家同士の婚約だったのだから。彼が本当の愛を見つけたのなら、きっと祝福するべきなのでしょう」
「姉さんに魅力がないなんてことは絶対にありません。優しくて綺麗で、僕の自慢の姉です」
私は真剣にそう言うユアンの髪に触れようとして、手を止めた。
5年前なら躊躇うことなく彼を抱きしめて、思いっきり頭を撫でていた。
けれど今や彼も18。いつまでも子供扱いをして、そんな真似をしたら嫌がるだろう。
見た目だってもう子供ではない。元々綺麗な子だったけれど、成長するにつれ更に美しさに磨きがかかった。
ほんわかした性格だから普段は感じないけれど、黙って真っ直ぐに見つめられると、近頃は姉である私だって戸惑いを感じることがある。
ユアンと私は、血が繋がっていない。
ユアンに初めて会ったのは彼が6歳、私が10歳の時だった。
街に買い物に来ていた私が馬車に轢かれそうになった彼を助けたのだ。
助けたといっても咄嗟に彼を突き飛ばしただけで、全く格好いい助け方ではなかった。
ユアンは孤児で、孤児院で生活していたけれど、その中でも全く大切にされていないようだった。みすぼらしい身なりで、体にはいくつも大きな痣や傷があった。
私は初めて自分とはまるで違いすぎる境遇の存在に触れ、大きな衝撃を受けた。
彼を救いたいと思った。
この街には不遇な扱いを受けている存在が大勢いる。今ここでユアン1人を救ったところでどうにかなるわけではない。
それでも、偽善と言われることを承知で私はお父様にユアンを家族にしたいと頼み込み、お父様はそんな私の願いを聞き入れてくれた。
その時に私は誓ったのだ。
立派な家柄に嫁ぎ、せめて願いを叶えてくれたお父様の役に立とうと。
でも、上手くはいかなかった。
私はシド侯爵に婚約破棄され、もうお父様の役に立てそうにない。
ユアンは屋敷に着くと、私の部屋にダージリンの紅茶と甘いお菓子を持ってきてくれた。
「ユアン、今日はわざわざ迎えに来てくれてありがとう。それとこんな気遣いまで。でも貴方は弟であり、私の執事でも世話係でもないのだから、もっと自分のことだけ考えていいのよ」
「姉さんがいなければ僕は今、生きていません。姉さんこそシド侯爵のことではなく、いつだってこの家のことを考えているのでしょう? せめて姉さんが辛いときには側に居させてください」
ユアンは真っ直ぐに私を見つめる。
「お見通しなのね。お父様になんて伝えたらいいか……」
「姉さんは何も悪くありません。あんな男、姉さんには相応しくなかったのです」
「え?」
「……いいえ。何も」
ユアンは微笑して、紅茶を勧めた。
◇◇◇
翌日、早朝からお父様の部屋に呼び出された。
昨日の今日で一体どこから話が伝わったのか、私の方からシド侯爵のことを説明する必要もなく、お父様には婚約者を探すことをやめたらどうかと問われた。
私は左右に首を振る。
「私は少しでも早く嫁ぎたいのです」
もうあんなに好条件の相手でなくてもいい。僅かでもこの家の役に立つ相手なら。
お父様は、渋々次の婚約者候補の資料を渡してきた。
まだ望みがあるらしい。
次のお相手はダブリン・キカ・ハンニバル伯爵。同じ伯爵家同士だが、ハンニバル家は代々続く名家。悪くはないお相手だった。
しかし、どういうわけか数日後に予定していたハンニバル伯爵との初顔合わせが、相手の都合で中止になった。
心配したユアンがまた私の部屋にやってくる。
「やっぱりシド侯爵に婚約破棄されるような女性とは会いたくないと思ったのかもしれないわね」
私はため息をつく。
「姉さんのせいではありません」
ユアンにまた気を遣わせてしまって、彼にもお父様にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「もう諦めてはどうですか?」
ユアンは続ける。
「お父様と同じことを言うのね。ユアンももう何も私に期待していないということ?」
「そうではありません。無理に婚姻などしなくても、ずっとこの家にいればいいではないですか」
ユアンは強い口調でそう言った。
「何を言うの? この家を継ぐユアンと、私が嫁いだ家との関係を強固に結びつけるのがせめてもの私の役目よ」
「そうですか。相手は次々と湧いてくる。分かっていましたが、きりがありません」
彼の声が冷たく響いた。
「ユアン?」
「心配しなくても姉さんにはすぐに新しい婚約者が決まりますよ。ラズイ侯爵もロバート侯爵もタリバン伯爵も、もっと下の爵位の奴だって姉さんを狙っている。こんなことならシド侯爵の監視を強くして婚約者のままでいてもらうべきでしたね」
「何を言っているの?」
「すでに弱みを握っていた彼を操るのは簡単でしたから。相当な女好きで、若い頃から複数の既婚者と不貞を働いている。最近では公爵の奥方にまで手を出しているので、公爵にばれたら断罪されるでしょう。あんな奴姉さんと本当に婚姻させるわけにいかないし、まあ当分の間、無害な婚約者で居てもらおうと思っていたのですが、あいつは前々回の食事会で姉さんの手を握りました」
本当に何を……言っているのだろう?
不貞?
私の手を握った?
大体、そんなことされた覚えはない。
「姉さんにとっては少し触れた程度かもしれませんが、シド侯爵には姉さんに決して触れないと約束させていたのです。約束を違えるような男を婚約者のまま側には置けません。それで彼を切りました。次の相手のハンニバル伯爵には、申し訳ありませんが姉さんの悪い噂を流しました」
「どうしてそんなことを?」
頭が混乱した。
全くこの家のためにならないことだ。
「もしかして、問題があるような相手から私を守ってくれたの?」
「そんなんじゃありません。僕が嫌だっただけです。どうしても姉さんを他の男に渡したくなくて」
ユアンはふわりと笑った。
その笑顔は、綺麗だけど綺麗すぎて少し怖かった。
「もう限界です。シド侯爵に振られてもやっぱり姉さんは婚約者探しを諦めないし、いつまでも僕を見てくれない」
「ユアン?」
「すみません。姉さんの理想の優しい弟になれなくて。でも、僕が欲しいのは、この家じゃなくて姉さんなんです。僕を助けてくれたあの日から、姉さんのことだけがずっと好きです。好きなんて軽い言葉じゃなくて、心から愛しているんです」
ユアンは熱のこもった視線で私を見つめる。
「姉さんは僕が嫌いですか?」
「そんなわけないでしょう」
「でも姉さんにとって僕は恋愛の対象ではなく、ただの弟ですよね」
私は戸惑いながら頷く。
「分かっています。僕こそ相応しくない。でも、お願い。今だけでいい。僕を受け入れてください」
ユアンが近づく。
吐息がかかり、ソファーに押し倒された。
「っ……」
ユアンは妖艶な表情で私の唇を塞ぐ。
「嬉しい。幸せ。でも、もっと深く。そしたら僕は、もう死んでもいい」
ユアンは私に何度も口づけをしながら、ドレスのスカートの中に手を伸ばす。
急速に体温が上昇する。
駄目だと言いたいのに声が出ない。
浅い呼吸で、私の胸は上下する。
そこで、動いていたユアンの手が止まる。
「あ……」
そう呟き、瞳を大きく開けたユアンが呆然と私を見つめていた。
いつの間にか私は泣いていた。
「ごめんなさい。……自分勝手でした。僕は、姉さんを苦しめたいわけじゃないのに……」
ユアンが私から離れ、背を向ける。
「違うの、ユアン。嬉しいの。嬉しかったの。駄目だと、やめてと言わなければならないのに、そう言えなかった」
私はユアンの背に手を触れる。
「恥ずかしいけど、やめて……欲しくなかったから。私もいつからか、あなたを弟だと思っていなかったみたい」
「姉さん、本当に?」
振り向いたユアンが驚いた瞳で私を見ていた。
私は小さく頷く。
これはお父様に対する裏切りだ。
ここで自分の気持ちを伝えてしまったら、私だけでなくユアンにまで家のためにならない選択をさせることになる。
でも、もう止められない。
「ユアンが好き」
ユアンは嬉しそうに笑うと、私を抱きしめた。
「姉さん、僕とこの家を出てください。元々は僕なんかじゃなく、フレデリック叔父さんを養子にするはずだったのでしょう?」
確かに嫡男の居ないこの家には他に養子候補がいた。
ただ、引き取ったユアンがあまりに優秀だったため、この家の跡継ぎはユアンが相応しいということになったのだ。
「引き取って育ててくれた両親に対して、恩知らずだとは百も承知ですが、それでも姉さんを誰にも渡したくない。フレデリック叔父さんにならこの家を任せても大丈夫なはずです」
どうしても、お父様の役に立ちたかった。
それはお父様が、私の大切なユアンを救ってくれたから。
家族にしてくれたから。
彼を大切に思う気持ちはあの頃と何一つ変わっていない。
ただ、今、ユアンを1人の男の人として愛していると気づいてしまった。
「貴方とずっと一緒にいられるなら、どこへでもついていくわ。だからユアン、死んでもいいなんて言わないで」
「はい」
ユアンはとびきり綺麗な顔で笑うと、また私に口づけた。
「もう刹那の幸せのために死のうとは思わないから、いいでしょう?」
ユアンの口づけは止まらない。
扉の方から大きな音がする。
侍女のマチが立っていた。
どうやらシルバーのトレイを落としたらしい。
そうして目を見開き、落としたものを片付けるでもなく、両手を口に当てている。
「あ、あの、ラーナ様、申し訳ございません。軽くノックはしたのですが」
「見ていたのですね?」
ユアンが冷たい声で問う。
「ええ、しっかりと。私、すぐに奥様に報告します」
「え? マチ? ちょっと待って」
私の抑止も空しく、マチはその場を走り去ってしまった。
グラスごと落ちた冷たい飲み物が、絨毯に染みを作っていく。
「ユアン、私たちのこと、お母様からすぐにでもお父様に伝わるわ」
「僕は構いません。咎められることは必至でしょう。けれど姉さんと一緒にいられるなら制裁は全て受け入れます。そして、予定通り2人で家を出ましょう」
「ユアン……」
本当にそれでいいの?
間違った選択だと分かっていたけれど、それでも今はユアンの一途な気持ちが嬉しくて仕方がなかった。
1時間と経たず、お父様とお母様が2人揃って私の部屋にやってきた。
「お父様、お仕事は?」
「そんなことはどうでもよろしい」
お父様は腕を組み、目の前のソファーに座る。
異様な雰囲気だ。
「マチから聞きました。ユアン、ラーナ、2人が想い合っているというのは本当かしら?」
隣に座るお母様が重い口を開く。
「はい」
私たちは同時に返答する。
「お父様、申し訳ありません」
私はお父様の顔を見ることができない。
「何を謝っている」
「本当に、何を謝っているの!?」
お母様が急に大声を出したので、驚いて顔を上げると、涙ぐんだお母様はお父様と手を取り合っていた。
「良かったわね、あなた!! ようやくユアンとラーナがくっついたわ!!」
「え?」
私は思わずユアンを見た。
ユアンも不可解そうな顔で首を傾げる。
「お二人に許していただけるはずもなく、僕たちは家を出ようと」
状況が掴めないユアンが、棒読みで用意していたかのような台詞を呟く。
「は? この家を出る? 何のために?」
今度はお父様が大声を出した。
「ですから育てていただいた恩に報いるどころか、お嬢様に許されない思いを抱いてしまったためです」
「許さないはずがないだろう。寧ろ何年も前からシド侯爵との婚約が破棄され、2人が結ばれないかと願っていた。強制するものではないから黙って見守っていたが、屋敷の者には少しでも2人にそういった素振りがあればすぐに知らせるように伝えていた」
「どうして?」
ユアンから思わず声が漏れる。
「2人が婚姻すればラーナを嫁に出さずに済むではないか」
「お父様はラーナが大好きだからずっと一緒に居たいのよ。もちろんユアンのこともね」
お母様が言った。
「シド侯爵との婚約が無くなり喜んでいたのに、ラーナはまたこの家を出たがって、止めても頑なだし、実はもう諦めかけていた」
お父様は小さく息を吐く。
「でも、私がユアンと婚姻しても家のためにはなりません」
私は言った。
「家のためとはなんだ?」
「私が名家に嫁ぐことがこの家のためだと……」
ただ只管にそう思ってきた。
「ラーナ、何故そんな風に考える? これまで私が社交界で築いてきた横のつながりを嘗めてもらっては困る。お前たちに苦労をかけるようなことはない。そんなことより早く孫の顔を見せてくれ」
お父様はそう言って立ち上がり、私に近づくとそっと私の頭を撫でる。
「あなた、2人はまだ婚姻もしていないのですよ」
お母様は笑っている。
「そうだな。早く婚姻させよう。今すぐさせよう。家を出ようとしていたくらいだから、意志も固いだろう。とにかく今日は祝いだ。屋敷の者を全員集めろ」
「ちょっとあなた」
お母様が「落ち着いて」と言う前に、お父様は側に居た自分の執事に声を掛ける。
こんなに生き生きとした両親の姿は見たことがない
私とユアンはただもう呆然とその様子を見つめるしかなかった。
とんでもない顛末。
落ち着いた頃、信じられない思いで私とユアンは笑い合った。
◇◇◇
あれから数日が経った。
「こんな夜更けですし、部屋にも鍵は掛けましたが、今もどこかで誰かに覗かれているような気がしてなりません」
横にいるベッドの上のユアンは、一瞬だけカーテン越しの窓に目を向ける。
「じゃあ止める?」
「いや、無理です。たとえもう姉さんが泣いても途中で止めてあげませんよ。そんなに挑発して、姉さんこそ覚悟はよろしいですか?」
私は神妙な顔で頷く。
「あ、でも1つお願いが。これからは姉さんではなく名前で呼んでほしいわ」
ユアンは瞬きをした後、急に黙り込んでしまった。
「まさか私の名前、知らないの?」
わざとらしいくらい、意地悪い言い方で尋ねてみる。
「ラーナ」
ユアンは耳元で囁く。
今まで呼ばれたことのないその甘い響きに酔ってしまいそうだ。
「ラーナ、愛してる」
勝手に涙が一筋こぼれた。
どうしてだろう。
いつもよりずっとユアンがキラキラして見える。
「ラーナ?」
「止めないで。嬉し涙だから」
「だから、もうどうしたって止められないよ」
ユアンは笑って私の瞼に口づけを落とした。
それから手を広げてユアンを受け入れると、これまで見たことのない、いくつものチカチカした眩い星が見えた。
お読みいただきありがとうございました。




