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第95話 アデレードとイザベル 下

「夢、なんて見てはいけなかったのね……」


 イザベルは弱々しく呟き、窓の前に立つ。窓の外には街と王宮の高い塔がよく見えた。ここからはあまりに遠い。イザベルは目を細める。


「生粋の大貴族のお嬢さんには分からないでしょうけれど……」


 そう言ってイザベルは語り始める。

 彼女の家はサウザー公爵家の傍流も傍流のさらに傍流の末端の家柄だった。平貴族ということだったが、暮らしは庶民と変わらず、小さな農場で家畜の世話をしながら糊口ここうをしのいでいた。来る日も来る日も家畜の世話に明け暮れても、暮らし向きは良くならず、手や肌は荒れ、服は汚れ、家畜の臭いに満ちた貧しい生活。


「そこへある日、サウザー公爵が来たのよ。貧乏臭い家だとか家畜が臭いだのぶつぶつ言いながらね」


 イザベルは自嘲的に笑う。


「それで私に大貴族みたいな豪勢な暮らしがしたくはないかって聞いてきたわ」


 勿論、イザベルだって出来ることならそんな生活がしてみたかった。だが、何故公爵が一族の末端の、今まで顧みることすらしなかった娘にそんなことを言うのか、というのが引っ掛かった。


「公爵は言ったわ。王子にちょっとした楽しみを提供するだけだって」


 協力すれば金をやるっといってイザベルの前に金の入った黒い革の袋を見せたのだ。公爵には端金だったが、イザベルと家族には喉から手が出るほど欲しい金だった。それで一家は息を吐くことが出来る。


「それから、公爵の屋敷で王子の好みを徹底的に覚えさせられたわ。好きな花、芝居。仕草、愛読書……王子が”運命”を感じるようにね」


 そして、準備が整ったある日、サウザー公爵はエーリッヒ王子を誘い、狩りへ誘い出す。2人で狩りがしたいと言えば、供の者達もそれ以上は近づけない。そうして他に誰も居なくなったところで、公爵は王子に獲物を見つけた、あの辺りに隠れているから射ってみろとけし掛ける。


「勿論、そこに獲物なんか居ないわ。私が隠れていただけよ。王子が射った矢に驚いて転んで足を怪我した振りをしたの。私は立入禁止と知らなくてたまたま通りかかってしまった田舎娘って役どころよ。王子は悪いと思ったのかとても親切にしてくれたわ」


 そこで狩りを止めにして、王子はイザベルと話し始めた。時間はすぐに過ぎ、供の者が探しに来る前にサウザー公爵が親切な振りをして、王子に囁く。”彼女は俺が怪我させたようなものだがら、王都に所有する屋敷の一つで治療させるよ。怪我が心配なら訪ねて来ると良い”

 そこが、イザベルと王子の逢引きの場所となった。


「楽しかったわ。だって、王子はどんどん私に夢中になっていく。ドレス、宝石、豪華な贈り物の数々。王子は私を宝物のように大事にしてくれる、夢みたいな生活!」


 イザベルはそんな日々を思い出し、自分の体を抱きしめる。そして泣きそうな顔で振り返った。


「”アデレード”という貴族の令嬢に恨みがあったわけじゃないわ。でも、自分と歳も変わらない娘が、何の苦労もなく、毎日おしゃれをして、裕福に楽しく暮らしているのは妬ましかった! 私と同じように苦しめば良いと思った! 貴女には、分からないでしょうね」


 アデレードは何とも答えられなかった。ただ痛ましそうにイザベルを見るだけ。


「だから、貴女が私を見つけて公衆の前で、恥も外聞もなく必死に私を罵ってたとき、私内心笑いが止まらなかったわ。貴女の可愛らしい恫喝なんて、全然怖くなかったわよ」


 そう言ってのけたイザベルにアデレードは唖然とした後、笑い出した。


「まぁ……性格が悪いのは、私も貴女もお互い様ね」


 イザベルも小さく吹き出す。そしてポロポロと泣きだし、力が抜けたようにその場に座り込んだ。アデレードは隣に座り、ハンカチを差し出す。


「それで、いつから王子のこと好きになったの?」

「……あの人、本当に優しいのよ。私なんてただの貧乏な田舎娘なのに。全然偉ぶるところもなくて。サウザー公爵なんて下々の者なんか、虫けらくらいにしか思ってないのとは大違い」


 涙を拭きながらイザベルは答える。気が付けばいつの間にか、自分の方が王子に絆されていた。


「王子があんなに真摯な人だと思わなかったわ。だから、騙しているのが心苦しくなった。所詮は、あの人の好みになるように作り上げた偽物だもの。婚約破棄が決まって、貴女がいなくなって王子も冷静になったんでしょうね。きっと私の付け焼刃な感じに違和感を覚えたのよ。貴女の伯爵が王子に会いに来て以来、何かずっと考えていたわ。それで、ある時、私に少し待っていてくれと言ったきり、王宮から帰って来ない……」


 アデレードも彼女の話を聞きながら、かつて王子に恋していた頃の気持ちを思い出していた。だからこそ、彼女の痛みも少しだけ、分かる気がした。

 イザベルは顔を上げ、アデレードのハンカチを返した。


「私が公爵と謀ったのはこれだけよ。伯爵との件は、残念だけど分からないわ」

「サウザー公爵は自分の領内で麻薬を作っているみたいなの。何か心当たりはない? 屋敷に何か怪しい人物が出入りしていたとか。どこかによく出掛けていたとか」


 イザベルは考え込む。そして何かを思い出したようにはっとした。


「そういえばあの公爵、領民のことなんて全然顧みない人だったのに、やたらと視察に出掛けていた村があったわ」

「それはどこっ!?」


 アデレードはイザベルの両肩を掴む。


「確か……南の方にあるリーゲ何とかって話しているのを、公爵の屋敷に居たときに耳にしたことがあるわ」

「ありがとう、イザベル。これで伯爵を救えるかもしれないわ」


 アデレードは胸を撫で下ろした。


「良かったわね。あぁ、それとあの公爵、貴女に振られたことを根に持ってて、婚約破棄させようと思いついたんですって」


 それを聞いてアデレードは不快そうに眉間に皺を寄せる。


「私人生のほとんどは王子の婚約者だったのよ。サウザー公爵に言い寄られても応えるわけないなんてこと分かりきってるでしょう。しかも私あの人大嫌いっ」

「気が合うわね、私もよ。あいつ、王子のことも裏で散々馬鹿にしてたわ。お高くとまっているだの、俺のことを見下しているだの。こうなって一番喜んでるのは、たぶん公爵ね」

「自分の溜飲を下すだめだけにこんなことを? だとしたら、異常ですわ」


 アデレードは立ち上がり、イザベルに手を差し伸べる。


「イザベル、私は出会いがどうであれ、貴女と王子の愛が本物なら幸せになって欲しいって思っているの」

「貴女からの手紙読んだわ。そう、書いてあったわね」

「王子が戻って来ないのも、きっと何か理由があってのことよ。だから……」

「いいえ。もう充分王子には迷惑を掛けてしまったわ。王家の方々にも、貴女にも」


 イザベルはアデレードの手を取り立ち上がった。


「王子と歌劇を見に行く約束をしていたの。それが一週間後よ。王子が来てくれるかどうかは分からないけれど、そこで全部話すわ。それにサウザー公爵も招待されているみたい」

「イザベル……」

「優しく、美しい……そして甘い、夢だったわ。ずっと浸っていたかったけれど。もう終わりにしないとね。でも、私、本当に……あの人のこと、愛していたのよ」


 イザベルは切なそうに微笑んで見せた。




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