第82話 遠くよりの客人
10月に入ったある日、アデレードは窓拭きをしていた。
「ディマ、ちょっとどいて頂戴」
談話室の窓を拭くため、陽の当たる窓の下で寝そべっていた愛犬に話し掛ける。ここは彼のお気に入り場所で、日中はだいたいここでゆっくりしている。アデレードの言葉にディマが頭を上げて、不満そうにのそのそと起き上がって退く。アデレードは笑って、窓を拭き始めた。
あら、誰か来てるわ。
窓の外から誰かが歩いてくるのが見えた。黒い旅装束に目深に帽子を被っていて、顔は分からないが、明らかに地元の人ではない。体格的には細身で女性に見える。
「お客さん、かしら?」
その人はまっすぐホテルへ向かって来て、入り口のドアを叩いた。アデレードは急いでドアを開ける。
「い、いらっしゃいませ」
緊張した面持ちで、アデレードが客を迎えた。
「ここなら泊まれると聞いてきたのだが」
「は、はい。どうぞ」
その女性が帽子を取る。年の頃は、20前後だろうか、黒髪に黒目、褐色の肌。その特徴からアデレードは、ラシッド医師に似ていると思った。
ラシッド先生は南の方の出だと言っていたし、この方もそうかもしれないわ。
「では、こちらにご署名を……」
アデレードがカウンターで宿帳を出し、鍵を渡して、部屋まで案内する。初めて来た真っ新な客だ。アデレードは驚きを隠せない。
マックスさん達やフラウ・シュミット、ブッフバルトさんとシュナイダーさんも、今までのお客さんは皆、お知り合いかその繋がりでいらした方ばかりだし。
「シャリーマさんね……」
宿帳の名前を見ながらアデレードが首を捻る。
それに、一体何を目的にいらしたのかしら?観光や登山に来たという感じでもありませんし、商人という雰囲気でもない気がしますわ。
シャリーマは静かな客で、食事の時も何も喋らなかったが、次の日アデレードに話し掛けてきた。
「この地にラシードという者はいないか?」
「ラシード……?もしかして、ラシッド先生のことでしょうか?」
「たぶん、その者のことだ。どこにいる?」
「村の診療所ですが」
「ではそこまで案内して欲しい」
シャリーマがぶっきらぼうにアデレードに頼む。頷いてアデレードは彼女を連れてラシッドの許へ向かう。道中村の人々はシャリーマを物珍しそうな目で見つめている。
やっぱり、シャリーマさんは先生のお知り合いだったのね。
「先生?」
診療所に着き、アデレードがドアを開けると、数名の老人とラシッドがのん気に談笑していた。ラシッドがアデレードの姿に気付いて、視線を向ける。
「おや、お嬢さんどうしました?怪我でもしましたか?」
「あぁ、いえ……」
アデレードが戸惑いながら、一歩右へ移動する。アデレードの後ろに控えていたシャリーマの姿が露になった。
「まさか本当に、こんな辺鄙なところにいたとは……」
シャリーマが呆れたように呟く。
「兄上、私と共に今すぐ戻ってもらうぞ」
「シャリーマ……?」
ラシッドは一瞬怪訝な顔をした後、何とも困った表情になる。周りの老人達とアデレードは一様に驚いてシャリーマの顔を見つめる。
兄上、ということはシャリーマさんは先生の妹さんなの?
「大きくなりましたね……最後に会ったのは、もう10年くらい前でしたか」
「そんな昔話をしに来たんじゃない」
「まぁまぁ、そう言わずに。ここは良いところですから、ゆっくりしていったらどうですか?」
「兄上!」
シャリーマが鋭く叫ぶ。
「どう言われても、私は戻りませんから」
ラシッドは妹を宥めるように、にっこりと笑った。
その後も、一週間ほどシャリーマは診療所でラシッドに戻るように説得をしては、のらりくらりと躱されてホテルに戻ってくる、というのを繰り返していた。村人達も慣れてきたのか、ラシッドの妹というこで親しみが湧いたのか、シャリーマちゃん今日も頑張ってるね、などど微笑ましく見守るようになっていた。
そして今日など、編み籠に入った真っ赤なリンゴを持って帰ってきた。診療所にいるときに、村人から貰ったらしい。アデレードはそれを預かり、夕食の席で食後のデザートに切って出す。それを食べて、シャリーマはほんの少し口元を綻ばせ、呟く。
「あの赤い果実は初めて食べたが、美味いな」
アデレード達はその様子を厨房の中から覗きながら、嬉しそうに頷き合った。




