第80話 クラウスの目的
それから数日、クラウス以外の3人は連れだって山や湖や川へ、リーフェンシュタール領内での滞在を楽しんでいるが、クラウスだけはホテルに残っていた。アデレードは時折、彼の冷ややかな視線や態度を感じることがあった。
「すみません、フロイライン・アデレード。普段はあんなに冷たい方ではないんですけど……」
申し訳なさそうにマックスがアデレードに釈明する。アデレードは裏庭で育ったハーブを摘みながら微笑んだ。
「あら、別にマックスさんの所為ではないのだから、気になさらないで」
たぶん、クラウスさんは私の素性を知ってらっしゃるんだわ。それに王都での悪評も。
それならあの態度も幾分理解出来ると、アデレードは考えていた。
土を踏む足音が聞こえ、アデレードの側で寝そべっていたディマが顔を上げる。2人は近づいてくるその足音に振り返る。
「クラウスさん……」
アデレードの前に立つクラウスに、マックスがおろおろと2人を交互に見やるが、クラウスの視線を受けて一礼し、ちらりとアデレードを心配そうに見て、その場を去っていった。
「私に何か御用が……?」
「料理をしたり、掃除をしたり、草むしりをしたり……この数日、貴女の行動を見させてもらいましたが、およそ”貴族の令嬢”とは思えませんね」
やはり、とアデレードは思った。
「私が、”何者”だったのか、ご存知なのですね、クラウスさん」
「これは一体何の真似ですか?」
「何と、言われましても、見ての通り、小さな森の中のホテルの女主人……なんて格好の良いものでもありませんけど」
冷たい視線を投げかけるクラウスにアデレードは困ったように笑った。
「私のことは気に入らないかもしれませんが、このリーフェンシュタール領の自然も人々も素晴らしいところですわ。そのことはどうか、私のこととは関係なく考えていただきたいのです」
「それは……心得ているつもりです」
クラウスの返事を聞いて、アデレードは心底ホッとしたように胸を撫で下ろす。
「ここは本当に良いところですの。ディマと毎日散歩していると昨日までは何も無かった森の地面にぽこぽことキノコが生えていたりするのですよ。それも色や形の違うキノコが。今日なんてディマが鼻でキノコを突いたら煙を出すキノコだったみたいで、くしゃみを繰り返してましたのよ、この子」
アデレードが愉快そうに、ディマの背中を撫でる。そんな様子の彼女に、クラウスは少なからず内心困惑していた。
噂や人伝てに聞いた話では、ずいぶん悪い女だと言われていたのに。目の前にいるアデレードという女性は楽しそうに日常の小さな変化を語っている。本当に同じ人なのだろうか?
「貴女は、王子と婚約しながら、サウザー公爵や他の貴族とも関係を持っていたと聞きました」
「どこからそんな噂が……」
アデレードは呆気にとられた。
「王子以外、というよりも誰かとそういう関係を持ったことなど一度もありませんわ。私、王子の恋人に喰ってかかったり、お金で追い払おうとしたり、夜会で暴言を吐いたりはしましたけれど」
それはそれでどうなんだ、とクラウスが思ったが、どうやら聞いていた噂は真実ではないと思い始めていた。
「では、噂は真実ではないと?」
「当たり前です!第一、私サウザー公爵は苦手ですわ。まったく、人が王都にいないからって好き放題言って、もうっ」
思わずアデレードは力任せにハーブを千切る。
「おかしいと思いませんか。そんなふてぶてしい人間なら、こんなところで草をむしったり、風呂に水を貯める為に井戸を往復するなんて、すると思います?」
「それは……しかし、現に今も王子は苦しんでいる。それは貴女が裏切ったからでは?」
「苦しんでいる?どういうことですの?」
怪訝な表情でアデレードはクラウスを見つめる。
「私は王子を裏切ったことはありませんけれど、仮に私が先に裏切っていたとして、王子はご自身の意志で私との婚約を破棄して、フロイライン・イザベルを選んだはずですわ。愛する人と一緒にいて、一体何を悩むことがありますの?」
伯爵も以前似たようなことを仰っていたわ。王子と恋人は上手くいっていないようだと。
「私は心から、お二人が幸せになって下さることを願っております」
「本当に?貴女はそれで良いのですか?」
「私はここに来てやっと分かりました。愛している人と一緒にいられるのはこの上のない幸せなことなのだと。それに私、王子のことを愛していなかったことに気が付いたのですわ」
「えっ」
「勿論、憧憬はありました、けれどそれは愛では無かった。でも、それは王子も同じです。私に気を使って下さっていたけれど、それは別に愛からでは無かったのですから。王子にその真に愛する人が出来たのなら喜ばしいことですわ」
この人は清々しいほど王子に未練がない。婚約破棄した方は未だ苦しんでいるのに。された側の彼女は今や新しい生活を始めている。
「貴女は前に進んでいらっしゃるのですね」
クラウスは観念したような、情けないような気分で笑みを浮かべる。
「それもこれもリーフェンシュタール伯のお陰ですわ」
「フロイライン……実のことを申せば、名前は明かせませんが、ある方から貴女の現状を確かめに行って欲しいと頼まれてここへ来たのです。マックスが丁度こちらへ行くと聞いたので、無理を言ってついて来ました」
「それで。山好きなようなには見えませんでしたもの」
「えぇ。正直、私自身はあまり気は進みませんでした。貴女に関する話は全部悪いものばかりで」
「王都でどれだけ私に関する酷い噂が流れているか知りませんが、明日雨が降っても私の所為にされそうですわね」
その酷い噂を反駁すべきアデレードは王都に居ないし、マイヤール家も下手に反応して火に油を注ぐよりも黙って沈静化するのを待っているのだろう。そうこうしている間に噂に尾びれに背びれがついていったのだ。
「貴女に予断を持った目で見ていたことを謝罪します。フロイライン・アデレード」
唐突な謝罪にアデレードの方が今度は困惑し、一体誰が彼にこんなことを頼んだのかを考えた。
私がここに居るのを知っているのは、マイヤール家か、フラウ・シュミットの周囲くらいのはず。でも、フラウ・シュミットがわざわざ名前を隠して様子を探る必要はないわ。そもそもご存知ですし。そうなるとマイヤール家……? 誰であれ、自分の目で確かめに来るか、手紙を送って下されば喜んで答えるのに。
「クラウスさんが謝る必要はございません。私の様子を見定めるなんて、無駄な時間を貴方が過ごしたことの方が私には問題です。ホテルに籠るよりも、ここには見るべきものがいっぱいありますわ」
そうアデレードは力強く言い放ち、クラウスの背後に回り、彼の背中をぐいぐいと押し始めた。
「フロイライン?」
「さぁ、辛気臭い話はお終いですわ」
弱り顔のクラウスはとりあえず彼女に押されるまま歩き出す。ホテルの建物を通り過ぎ、前庭に出る。そこには外に置かれたテーブルにマックス達3人の客が座っていた。
「これから村まで行きますのよ。私が案内しますから。マックスさん達もご一緒にっ」
不安げな顔で2人の様子を窺っていた3人は、アデレードの言葉で嬉しそうに立ち上がった。
もしかしたら心配を掛けていたのだろうか、とクラウスは思った。




