第2話 リーフェンシュタール伯爵
「あれは……お嬢さん? 今から山なんか入ってどうするつもりだ?」
アデレードの住んでいる屋敷のやや離れたところには村がある。その村の住民の1人が、猟から帰ってくる途中に森の斜面を歩くアデレードを目撃していた。
ある日、急に10年以上も放置されていた貴族の別荘に人が来たと思うと、それが若い女性だったのだ。一様に住民は訝しがり、領主のリーフェンシュタール伯に事情を聞きに行ったところ、伯爵もあの屋敷に人が住みだしたことに驚いていた。どうやら住民から相談されるまで知らなかったらしい。
住民の話を詳しく聞いた伯爵は、とりあえず必要以上に関わらず様子を見て、何かあれば報告してくれと、と住民に告げた。
そこに住みついた少女と言っても良い娘は、見るからに憔悴し切っており、住民の呼びかけにも碌に返事もしないし、食事を持って行ってもほとんど食べない。住民はそんな様子のアデレードを同情と戸惑いを持って、誰に頼まれたわけでもなく世話をしていた。
「あんな若い娘がどうしてあんなことになっているんだ?」
「何かよっぽど酷いことがあったのかねぇ……」
「もしかすると何かの病気かもしれねえなぁ」
「それにしたって、たった1人で置いていくことはないだろうに。家族は一体何してるんだい?」
ほとんど娯楽のないこの村でアデレードは噂の的になっていた。今日もこんな風に農作業の昼休憩に話題に上る。
「おーい!」
そこへ、先ほどアデレードを見かけた男が近づいてきた。
「おぉ、どうした?」
「それが、あのお嬢さんが山に登ってるみたいなんだよ」
「えぇっ、今からかい?」
昼を過ぎたばかりだが、山の暮れは早い。あっという間に暗くなってしまうだろう。
「止めた方が良いぞ」
「伯爵様にもお伝えした方が良いぞ」
アデレードは森の中を虚ろに彷徨っていると、くーんくーん、と犬の鳴き声が近くから聞こえてきた。何となしに視線を向けると子犬が1頭、枯草の中で震えている。アデレードはその子犬に近寄った。
「あなたも迷子なの?」
くーん、とその子犬が鳴く。アデレードは周囲を見るが他に犬がいる様子はない。
「あなたもここに捨てられたのね」
その子犬が今の自分と重なる。震える子犬をアデレードが抱き上げた。ここに子犬を放置しておいてもどの道、他の動物に襲われるか飢え死にするだけだ。それなら。
「1人で死ぬよりは2人の方が寂しくありませんわね」
アデレードは自嘲し、子犬を抱え上を目指す。
一方、アデレードが山に入ったと聞いたリーフェンシュタール伯は急いで自身もまた山に向かった。
「まったく迷惑な娘だ。マイヤール家も、とんでもない者をここへ置いていきおって」
伯爵の耳にもアデレードの悪評は届いていた。その為関りを持たずにきたが、自分の領地内で何かあっては面倒なことになるのは必定。それはどうしても避けたいところである。
リーフェンシュタール辺境伯カールは、黒髪に彫りの深い顔、長身という出で立ちから若いがなかなかに迫力のある男だった。何といっても彼の最大の特徴は、こめかみから頬にかけて縦に走る傷である。この傷の所為か、彼は他の貴族から恐れられ、陰口を叩かれる存在であった。
彼はアデレードを探すべく、山に慣れている猟師達と手分けして山に入った。
「決して無理はするな。陽が完全に落ちる前に村に戻るぞ」
カールは猟師の1人と組んで山を登る。
「伯爵、問題はあの嬢ちゃんが何を目的にこの山に入ったかって、ことじゃねぇのかい?」
「そうだな、私もそれが気がかりだ。まさか、急に山に興味が湧いたわけではあるまいに」
「あのお嬢ちゃんのこと、ご存じで?」
「いや、噂話程度のことしか知らないが……」
それをここで話して良いものかカールは迷う。言い辛い雰囲気を察した猟師は手を振った。
「別に嬢ちゃんが誰で、何があったのかは興味はねぇが、随分落ち込んでる様子らしいし、やけっぱちになっていないと良いですがね」
カールも同様のことを考えていた。
「嬢ちゃんがどの方法を選択するか……首つりか身投げか餓死か」
伯爵は山を見上げる。
「とりあえず上へ登ろう」
確証はないが、餓死は直ぐには死ねないし、村人の話ではアデレードは何か持っている様子は無かったそうだがら、首を吊るつもりはないと考えるのが妥当だ。だとしたら、選ぶ方法は1つ。
「彼女が山に登り慣れているということはないだろうし。それほどまだ遠くへは行っていないはず」
アデレードは自分が探されているのも知らず、山の斜面を歩いている。鬱蒼とした森から、木々に隙間のある林へと山は姿を変えていた。
もう少し上がれば完全に木が無くなるだろうか。
「どこかに崖でもあれば良いのに」
陽が陰り周囲は薄暗くなってきていた。
「早く終わらせたいのに。あなたもそう思うでしょ?」
アデレードが胸に抱いた子犬に話しかける。
いつ終わるともしれない林の中をアデレードは無気力に歩き続けた。