表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/76

香典の代わりにラムネとビー玉をIII






 死にたい夜を、あと何度迎えるだろう。



 死にたい夜を、あと何度超えるだろう。



 死にたい夜に、あと何度触れるだろう。



 死にたい夜は、本当に死ぬための夜の、準備の夜にすぎない。



 もしかしたら、本当に死にたい夜は、今夜やって来るーーかもしれない。



 ノックを2回、扉の向こうから「はい」とノックに応える声が聞こえる。「小夜(さよ)です」と返すと、いつも通りの流れで「どうぞ」、先生は私を部屋に招き入れた。


「こんにちは」


 静かに穏やかな表情で、先生は私を迎え入れる。



「今紅茶淹れるから、どうぞ座って」



 これもいつも通りの会話。そしてこの次に続くのは、どちらの紅茶がいいか、という問いだ。



「小夜ちゃん、レモンティーとター……なんとかアップルティー、どっちがいい?」



 あ、先生、紅茶の名前を読むの諦めた。



「なんとかアップルティーで、お願いします」



 特に紅茶が好きというわけでもないから、正直どちらでもいい。でも、ダージリンやアールグレイなんかのスタンダードな紅茶よりも、フルーツティーの方が好き。甘くて飲みやすいし、フルーツティーの方が、名前も可愛いから。こんな私のしょうもない理由を知ってか知らずか、最近先生はフルーツティーの名前を読み上げることが、多くなった。



「ちょっと待ってね」



 先生は背を向ける。ふわりと香る紅茶は毎回違うが、食器のぶつかり合う音は、いつも通りだ。かちゃかちゃ可愛らしい音が響いて、今日はなんだかいつもより甘く、華やかな香りが口の中に広がるのだろうと、これから出て来る紅茶の味を連想させた。

 


 2人で紅茶を楽しむ姿を想像しながら、私は部屋の中央にある、一本脚の白い丸テーブルに後付けされたであろう、オレンジ色のアームチェアに腰掛ける。アームチェアは違和感なく丸テーブルと部屋に馴染んでいて、先生のセンスの良さが窺える。



 ここにあるものは、いや、この部屋自体が、完璧だった。



 白い壁は何度訪れていても、新鮮さが薄れない。汚れの知らない、生まれたままの真っ白さは、人間にはないもので、私には近寄りがたいものだったが、ここは嫌いじゃなかった。



 ここ、というよりも、先生が居るところなら、安心出来る場所になる。



「はい、おまたせしました」



 テーブルには、いつものティーセット以外の物も置かれた。ジャムと蜂蜜の瓶。その2つを見たあと、先生の顔を見る。目が合うと私を見てニヤリッ、と笑った。先生は稀にこの表情を見せる。私の周りに居る大人達が、絶対に見せない表情。子供には見せちゃいけないと、大人達が思っている、顔。



「ジャムと蜂蜜、紅茶に入れると美味しいんだって。小夜ちゃんと一緒に試してみたくて、用意してたの」



 向かいのアームチェアに腰掛けた先生は、ジャムと蜂蜜の瓶の、ラベルが見えるようにテーブルの上で回して私の前に置いた。



「どっち入れてみる? どっちも入れてみちゃう?」



 先生は、楽しそうだった。



「どっちも入れたら、不味くなるんじゃないんですか? たぶん、ジャムに合う紅茶と、蜂蜜に合う紅茶っていうのがあると思う……」



 いつも、敬語とタメ口がごちゃごちゃになる。タメ口を使っても、先生は気になる素振りを見せずに話を続けてくれるから、それに甘えてしまっている私は、なかなかタメ口が治らないでいた。



「あ"ー、そっか……。それ、全然考えてなかった」



 知識の方は準備不足だったようで、一瞬落ち込む。一瞬だけだったが。



「よし! この紅茶に合うかどうか、試してみよう!」



「ええ? 嫌だよ、そんなの。せっかく良い香りがしてるのに、紅茶がもったいないよ、先生」



「でも、美味しくなるかもしれないよ? やってみないと、わからないじゃない。やってみようよ、小夜ちゃん。2人なら、怖くない!」



 怖くないって、なんだろう。紅茶に怖いも何もないだろうに……。先生とは一年の付き合いになるのに、未だに謎だ。先生という人間が、一向に掴めない、読めない。ずっと大人かと思えば、自分よりも幼い人に見えるこもある。



 不思議な人だーー。



 半ば強引に押し切られる形で、私は蜂蜜の瓶を手に取った。左右に傾けると、ゆっくりと動きを見せた。とろみのある黄金色が、宝石みたいにキラキラと光輝いていて、とても綺麗だった。蓋を開け、スプーンで掬う。掬った蜂蜜を、一度瓶に戻すように垂らす。やはり、スローモーションのようにとろりと落ちていった。先生も、それを見つめていた。



「月、みたいに見えない?」



「月? ……どうだろう。私には宝石に見えます。キラキラしてて」



「確かに、宝石のほうが表現としていいのかもしれないね」



 先生は腕を組んだ。



「昔ね、高校生の頃に見た月が、すごく印象的だったの。黄金色に照り輝いていて、今にも落ちてしまいそうな月だった。蜂蜜をみると、あの時の月を思い出しちゃう」



「へぇー。なんだか、美味しそうな月ですね」



「美味しそう? あははっ、美味しそう、か。流石に月を食べたいと思ったことはないなあ」



「蜂蜜を見て思い出すってことは、美味しそうって思ってるってことじゃないですか?」



 先生が笑うから、ついムキになってしまった。先生はそうかもと言って、ジャムの瓶に手を伸ばす。



「では、美味しそうな蜂蜜は、小夜ちゃんに譲るね」



 蜂蜜を試すのは、私らしい。口答えせず、諦めモードで蜂蜜を掬い直した。適量がわからないから取り敢えず、ティースプーン一杯分をティーカップの中に落とす。先生も同じように瓶の中からジャムを掬いあげたが、私とは違い丁寧に、まるで毛布を掛け直すかのように、ジャムを水面に降ろした。スプーンに乗っていたジャムは、真っ赤なルビーのようだった。



 月と宝石が、沈んでいった。カップの下の方から全体が混ざるように、スプーンを回す。蜂蜜を混ぜても、香りに変化は感じられなかった。



 向かいでティーカップを持ち上げた先生が、目を輝かせて私を見てくる。私もティーカップを持ち上げ、2人でいただきますと声を揃えて、カップに口付ける。香りが一番強い瞬間だった。



 紅茶が喉を通り過ぎると、自然に「美味しい」という言葉が香りと共に広がる……と、思っていたが出てきたのは「ゔっ」と喉の奥が絞られた、苦しい声だった。



「不味い……先生これ、私ムリっ!」



「小夜ちゃん……私も無理かも……」



 初めて見る先生の渋い顔に、ちょっとラッキーとか思っちゃったけど、もっと平常心でいられてる時に見たかった。



「これ、あれだね。ジャムと蜂蜜がどうとか以前に、紅茶が……あれだね……」



「あれですね……」



 簡潔に言うと、紅茶自体が私達には合わなかった。香りはすごく良い。何時間でも嗅いでいられるだろうに、味が苦手だった。この香りからは想像出来ない、渋み、と言うのか……とにかく、ムリな味だった。



 ヒリヒリするわけでもないのに、舌を出してしまう。空気にさらせば渋みが消えるかもしれないと、容量の少ない脳が必死に考え出した結果だった。



 そんな私を見て先生が笑う。私も先生の渋い顔を思い出して、笑ってしまう。目を合わせるのは恥ずかしいから、ジャムの瓶に手を伸ばす。緊張した時、手持ち無沙汰になった時は、いつもこうやって活字を見ることで、誤魔化す癖がついていた。



「あっ、このジャム、原材料が砂糖よりも果物の方が多いです。良いジャムだ」



「そうなの。珍しいでしょう? 果物そのままの美味しさが味わえるかなー、って思って、買ってみたのに……あー、失敗した。まさか紅茶の方がダメだったなんて……。ごめんねえ」



 先生は悔しそうだった。私は嬉しかった。ジャムと蜂蜜を用意したのは、私を思ってのことだったと思うから、その気遣いが嬉しかったのだ。先生は私を喜ばせたかっただけなんだって、わかる。わからないことの方が多いけど、わかることだってある。だって、腐っても1年の付き合いなんだから。



「アップルティーってこんな味でしたっけ? 前に飲んだやつは、美味しかったのに」



「これ、この前のとは違うの。日本製じゃないんだよね。原産国タイって書いてある。だからかなー、口に合わなかったの。日本のメーカーのは、もっと飲みやすかったよね。ごめんね、小夜ちゃん。今度リベンジさせて!」



 両手を合わせて謝る先生に「気にしなくていいです」と、伝える。本当に私は気にしてないよ、先生。



「そうだ! 今度はスコーンも用意しておくね。ジャムと蜂蜜は美味しいから、スコーンに絶対合うと思うの」



 忘れないうちにと、先生はスケジュール帳を開いて次に私と会う予定日の、下の空いたスペースに「スコーン」と書き足していた。私は興味のないフリをして、食品表示とにらめっこする。



「楽しみにしててね。美味しいスコーン探しておくから」



「うん」と、そっけない返事しか出来ない。嬉しいのに、それが他の人みたいに上手く伝えられない。



「最近は、どう?」



 スケジュール帳を閉じた先生は、仕事モードに入った。本来なら、この質問こそが第一声になってもおかしくないのに、先生は本題に入るまで随分とゆったりしている。前置きはない。簡潔にまとめようともしない。私と「対話」することを、何よりも重要視している。今まで出会えなかったタイプの大人だった。



「変わりはないです」



 良くも、悪くも。



 死にたい、と決定的に思うこともなければ、死にたくないと思うこともない、そんな日々だ。



「変わりないって言うのは、良い意味で?」



 うん、と言えない。先生に嘘を付くのは、罪悪感がある。他の大人なら何も考えずに、息するように嘘を付けるのに、先生相手には、それが出来なかった。だからと言って、全てを打ち明けることも、出来ない。私自身が、自分の気持ちを整理出来ていないからだ。



 気持ちを言葉にするのは、本当に難しい。



「朝が……朝が、怖いんです」



「怖い?」



「……だって朝は、暗闇だから」



 そうだ、私の朝はいつも暗闇だ。



「ちゃんとしなきゃいけないって、毎日思うけど……出来ない。お母さんもお父さんも無理しなくていいって言ってくれるけど、本当は、私にちゃんとしてほしいって思ってる」



 いつでも両親は私の味方になってくれる。私を尊重してくれる。でも、本心では、学校に行ってほしいって思ってる。私だって出来ることなら、そうしたい。でも、それが出来ない。



 心が一歩踏み出そうとしても、身体は動かない。身体が動いても、心が嫌だと叫ぶ。私の心と身体は、常に反比例している。



 いっそのこといじめられていると嘘をつけば、ある意味親を安心させることが出来るのかもしれない。最低な嘘だとわかっているけど、ちゃんと行きたくない理由さえあれば、親は納得してくれるんじゃないかと思ってしまう。



 ねえ、先生。どうすればいい? どうすれば、この闇から抜け出せる?



「朝が怖い、か……。夜は怖くないの? それこそ暗闇だよ?」



「夜は怖くないです。だって、家に居るのが当たり前の時間だから。理由なく、家に居ていい時間だから……。でも、朝はそうじゃない。外に出なきゃいけない。強制的に外に出されるわけじゃないけど、意識的に……」



 先生は、じっと私を見ている。



「朝になると親は仕事に行く。私は家で独りぼっちになる。そうすると、なんだか……焦るの。怖くなるの。ここに居ちゃいけないって、思うの……」



 正直な自分の気持ちを口にすると、いたたまれなくなった。言葉にする度に、自分がいかにダメ人間なのか、証明している気がする。先生だって、きっとこんな私に呆れているに違いない。



 逃げ出したくなった。でもやっぱり動けなくて、やっとのことで湯気の上がるティーカップを手に取って、口を付けた。



 不味い。



「私ね、『明けない夜はない』っていう言葉が嫌いなの」



 もう1杯分のジャムをティーカップの中へ入れながら、先生は唐突にそんなことを言った。



「明けない夜はないって、なんだよそれっ! って、思ったことはない? 物理的には確かに明けない夜はないのかもしれないけど、何かしら悩みや不安があったとしたら、それが解決しない限り、その人にとっての夜って、明けることがないと思うの」



 とっくにジャムは溶けきっているだろうに、紅茶に浸かったティースプーンをくるくると、先生は回し続ける。



「たぶんその言葉を作った人は、自分に言い聞かせてたんだと思う。明けない夜はないって思えば、なんだか、少しだけでも前に進めている気がするから。自分を守るための言葉だったんじゃないかなって、私は思う」



「……先生、一体何が……」



「小夜ちゃんは、そんな言葉に惑わされなくていいんだよ。世の中には、色んな言葉があって、色んな考え方がある。朝だからって、外に出なきゃいけないわけじゃない。小夜ちゃんが朝は暗闇だって言うのなら、まだ夜は明けてないんだよ。小夜ちゃんは、" まだ準備中 " なんだよ」



 先生はアップルティーを口にする。私はテーブルの下で、両手を握りしめていた。



「それに、外が怖いわけじゃないと思うの、小夜ちゃんは。だってほら、ここには来れたじゃない? 私には会いに来てくれた」



「……せっ、先生と話すのは、楽しみで。どうしてかな……玄関の扉が、簡単に開くんです。全然重くなくて、スッて、足が外に飛び出すんです」



「ええ? 嬉しいな、それ」



 ティーカップで口元は隠れているけど、目が三日月になって、頬がぷっくり盛り上がっているから、先生はきっとニヤけている。私もニヤけそうになる。



 準備中、か……。



 先生はいつだってそうだ。いつだって、私の欲しい言葉をくれる。先生の言葉がじんわり、身体中に広がる。世界中の人が、先生みたいだったらいいのに、と何度思ったことか……。



 先生みたいな人が大勢いたら、この世界はなんか、もっといい方向に動き出すはずだ。



「先生みたいな人が、学校にも居ればよかったなあ……」



 不味い紅茶のせいか、先生には見せたくなかった(まず)い私が出て来てしまう。だけどこの機を逃してしまったら、もう2度と本心を見せられないかもしれない。そう思うと、口を閉ざすことが出来なかった。



「……どうしても学校っていう場所が、好きになれない……。小さな箱の中に色も形も、大きさも違う、絶対に噛み合わない物が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれてるみたいで、なんだか、とにかく息苦しい……」



 また紅茶に口を付けた。味なんかどうでもよかった。必要なのは、心を落ち着かせる温かさ。両手でティーカップを包み、掌を温める。震えで、水面が波打つ。不安そうな顔が、途切れ途切れに水面に映っている。最近見慣れて来た、自分の顔だ。



「学校を嫌いだって言う人は、大勢いると思うよ。小夜ちゃんの言う通り、みんな自分とは違う生き物だから、あそこを窮屈だっていうのは、あながち間違いじゃない。だから、小夜ちゃんがおかしいってことはないの。合わない人は、絶対にいる。一生を賭けても、わかり合えない人がいる。その逆もある。自分の人生を豊かにしてくれる人達と、出会えることだってある」



「……じゃあ先生も、学校に行ったほうが良いって思ってるの?」



「いいえ、そうは言ってない。出会えない可能性も、出会える可能性も、どちらもあるということ。それは学校に限ったことではないの。人と関わる場面では、必然的にその可能性を与えられる。……でも、1番大切なのは、やっぱり小夜ちゃんの気持ちだよ」



「…………」



 ちょっとガッカリした。先生の口から「私の気持ちが1番大切」なんて、聞きたくなかった。こんなテンプレート並の言葉、欲しくない。先生も綺麗事、言うんだね。やっぱり内心では学校に行けって、思ってるんだ。これじゃあ周りにいる大人達と、何も変わらないじゃん。



 掌が冷たくなっていた。紅茶が冷めてきた。水面に映る自分は、「無」だった。今の私にはピッタリな顔だ。



「今、私が綺麗事言ったなー、って思ったでしょ?」



「えっ! いや、そんなことっ!」



 やばっ、先生に心読まれた。



「あははっ、そんなに焦らないで。私も、昔の私なら、そういう風に受け取ってたと思うから」



 だったらどうして綺麗事と誤解される言葉を選んだのだろう、という私の疑問は心を読まなくても、顔を見て伝わったようだ。



「綺麗事に聞こえるだろうけど、やっぱり自分の気持ちが1番大切だよ。理解されないから悩むっていうのは、自分を諦めきれない証拠。その葛藤は、自分を捨てられないからあるんだよ。小夜ちゃんも、そうなんじゃない?」



「……私は別に……」



「小夜ちゃんの気持ちが1番大切だけど、でもね『自分らしく生きろ』なんて、無責任なことは言えない。その言葉は捉え方次第で、呪いにもなるから」



「……呪い、ですか」



「そう、呪い。自分らしくって人に言われたら、どう? プレッシャーにならない? それが難しいから悩んでるのに! って」



 想像してみて、頷いた。確かに、重たい言葉だ。自分らしくがわからなくて、八方塞がりになっている時にそんなこと言われたら、余計に動けなくなってしまいそう。自分らしくっていうゴールが何処にあるのかわからない、ってことを気づいてもらえないことが、虚しくて……。



「休んでいいんだよ? ちょっと休憩していい。立ち止まって、振り返ってみてもいい。別の道に行ってみてもいい。寄り道だってしていい。あなたの歩幅で、生きて。生きることを、諦めないでほしい。私の立場でこういうことを言うのは、良くないとわかっているけれど、本心からそう願ってる。私は、また小夜ちゃんとお話がしたい。小夜ちゃんに会いたい。ここじゃなくてもいい。夜中に電話してきてくれても、構わない。それで小夜ちゃんの気持ちが落ち着くのなら、朝まで話そう」



「……いいの?」



「いいよ。……小夜ちゃん、あのね、小夜ちゃんに、お願いしたいことがあるの」



 先生のお願いが何なのか想像もつかず、首を傾けた。



「自分に嘘だけはつかないで。自分を騙そうとしたり、蓋をしたりしないで。そんなことしても、いつか絶対に限界が来るから……。もう無理だって思う前に、私に言って。小夜ちゃんの言葉なら、受け止める準備が出来てるから。私も、小夜ちゃんを諦めないから」



 いつになく真剣な顔つきで、先生は言葉を紡いだ。わかっているようで、たぶん先生の言っていることの3分の1程度しか、私は理解出来ていないと思う。それでも、先生を信じてみたいと思う。私が返さなきゃいけない言葉は……。



 自分に嘘をついてはいけないーー。



「……もっと……。もっと、もっと、先生と話がしたい。……私、先生に嫌なこと言っちゃうかもしれない。先生が優しいから、その優しさに甘えて、当たっちゃうかもしれないけど、それでもいいの?」



「うん、いいよ。どんとこい」



「愚痴ばっか言っちゃうかもしれないよ? 汚い言葉いっぱい使っちゃうかもしれないよ? いいの?」



「そんなの、ぜーんぜん平気」



「本当に先生を、傷つけるかもしれないよ?」



「大丈夫。先生、メンタル鬼だから」



「物理的に傷つけるかもしれないんだよ?」



「その時は小夜ちゃんのこと、抱きしめるからね」



「じょうっ、情緒不安定だからっ、今みたいに、いきなり泣き出しちゃうかもしれないよ?」



 ボタボタ、大粒の涙が落ち始めて、止まらない。恥ずかしいけど、どうしようもない。袖口で涙を拭っていると、先生が席を立って私の側に来た。両膝を床につけて、先生は下から私の顔を覗き込む。



 どうして、先生が悲しそうなの?



「……抱きしめても、いいかな?」



 先生が優しいから、どうしようもないーー。



 私の方から先生に抱きついた。衝動だった。心と身体が比例した。アームチェアが視界の端で、倒れているのが見えた。そんなのお構いなしで力一杯、先生に抱きついた。「うわああん」と子供のように、泣き叫ぶ。お母さんにも出来なかったことが、先生になら出来た。



 だって先生なら、絶対に私を拒絶したりしないって確信したから。



 諦めそうになったら、その時はきっと、今日のことを思い出す。



 先生に抱きしめてもらった、この瞬間を。



 そうすれば、生きることを諦めずに済むかもしれない。わからないけれど、その時は今よりも良い方向に、私は動いてる気がする。



 だから、



 ユイ先生、ありがとう。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ