ヒーローの帰還
数ヶ月前に見た時より、ユイちゃんの髪は伸びていた。
声や仕草、話し方は以前と変わらない、俺の知っているユイちゃんのままだった。
「それにしても、今日が土曜日で本当によかったよね。みんなで愛海に、会いに行けた」
「だよな。学校休んでまで行ったりしたら、おばさんも困るだろうし。……あの時も俺、困らせちゃったしな。もう同じこと出来ねえよ」
「経験者が語ると違うねぇ。でも、もし学校休みじゃなかったら、山本はまた休んで行ってると思う」
「その時は私も山本っちゃんと一緒に休んで、愛海に会いに行ってたよ? ね、ユイもそうでしょう?」
「そうだね、多分私も休んでたよ。そんなことしたら、アミは怒るかもしれないけど……私はどうしても、見届けたかったからね」
同じ空間にいるはずなのに、ユイちゃんと俺が会話していない。そのことに、妙に違和感を感じる。俺の知らない人達と、俺の知らない話で盛り上がるユイちゃんは、見た目こそ変わりはしないが、内側から大きく変わってしまったように見えた。
自分もその会話に混ざりたい。そう思ってしまう。
この空気を壊してはいけない。そうも思う。
料理を口に運びながら、言葉は器用に喉から流れるように出てきて、いつまでも5人の会話は食事と同時進行していた。
店に来てから何度も「マナミ」、「アミ」、という名前が出てきた。俺の知らない名前だ。
ユイちゃんは「アミ」で話を進めるが、他の4人は「マナミ」で会話をしている。呼び方が違うが、聞いている内容から、どうやら「アミ」と「マナミ」は同一人物らしい。
あまりにもユイちゃん達がその子のことを、嬉しそうに、楽しそうに話すものだから、一目見てみたいと思ってしまった。その子はどんな子なのだろう。会話から、勝手にアミちゃんを想像し、頭の中で作り上げる。そうやって、俺は心に空いた穴を埋めていた。
あのユイちゃんが笑顔で話題にする女の子だ。それだけで俺には、魅力的な女の子に思えた。
きっとアミちゃんが、ユイちゃんを変えたんだ。そう思った。
ユイちゃんは去年の秋頃、変わった。
変わったというより、元に戻ったと言う方が正しいが、その変わりようには目を見張ったものだ。
ああ、ユイちゃんの笑顔が戻ったーーその笑顔に、泣きそうになった。
出会った当初はちゃんと笑顔だったんだ。それなのに、いつの間にかユイちゃんの笑顔は、心からの笑顔ではなくなっていた。小さな違和感を感じた程度だが、喉の奥に詰まった何かを、吐き出してしまわないようにしている……そんな風に、俺には見えていた。
笑う時は思い出したように一瞬、顔が曇る。そして、笑顔を作っていた。作り笑顔だとこちらが気づかないように、一生懸命笑顔を作っていた。
日に日に重くなってゆく表情に、日に日に悩みが増えていっているように見えた。解決することなく、悩みの種はユイちゃんの小さな身体に、根付き、魂諸共、縛りつけた。身動き取れずに膝をついてしまったユイちゃんは、いつ潰れてもおかしくない状態にまでなっていた。
俺はそれに、気づかないフリをしていた。もし、俺が手を差し出しても、ユイちゃんはその手を絶対に掴まないと思ったからだ。
それはたぶん拒絶とは違い、自分でどうにかする、しなきゃいけない、という想いから来る、ユイちゃんなりの強い信念だったんだと思う。
並々ならないユイちゃんの意地と熱意に、俺に出来ることは、気づかないフリをすることだけだった。
気長に待とうと決めた。ユイちゃんが卒業するまでには、解決する。そんな自信があった。
実際に、そうなる時は来た。
悩みの種だったり、俯く経緯だったり、俺は結局、何ひとつユイちゃんの中心核を覗けていないけれど、その日を境にしがらみが消え、ユイちゃんが苦しみから吹っ切れたことは、俺の目からみても一目瞭然だった。
誰かが、ユイちゃんを救った。
目の前で人が変わる姿を目撃するのは、この時が初めてだった。嬉しいような、悔しいような、羨ましいような……綺麗な感情ばかりが湧き上がってきたわけではなかった。
結果的に、俺はただ待っていただけだったから、素直には喜べなかったのだろうと思う。
掴んでくれと、手を差し出したかった。分厚いこの手は、その時のために存在していたのかもしれないのに……。
使わずじまいのこの手は、他の誰かのために、今も『その時』を待っている。
いつでも、この手を差し出せる。
食事を終えた5人の席を立つ音が聞こえて、慌てて振り返った。「衛藤さん、お会計お願いします」と、ユイちゃんが俺を指名する。俺は待ってましたと言わんばかりに、レジに駆けつける。
これがユイちゃんと話せる、最後のチャンスかもしれないと思うと、変に緊張してお釣りを渡す手に、汗をかく。小銭がベタついていないだろうかと、不安になる。
怪しまれないように、ひとりずつ丁寧に対応した。ゆっくりとお釣りを渡す。ユイちゃんと話せる時間を、少しでも確保する為だった。ありがたいことに、最後の支払いはユイちゃんだった。
「ごちそうさまでした。やっぱりここのご飯は、美味しいですね。たった数ヶ月しか経ってないけど、懐かしいなあ〜って、なんだか温まりました」
「……そっか、よかった。……あのさ、ユイちゃん、勉強……忙しいと思うけど、また遊びに来てくれる?」
お釣りを受け取るために広げて見せてくれていたユイちゃんの手のひらに、小銭を落とせずにいた。「はい」、その一言が聞ければ、握りしめた手を開くとくことが出来るというのに、ユイちゃんときたら、やけにあっさりとした表情で、俺を見ているだけだった。
そろそろ本当に、お釣りが汗をかきそうだった。そのことに勘づいたのか、無言のままのユイちゃんが、お釣りを催促するように「んっ」と、手のひらを前に出してくる。
凪いだ瞳が、俺を見ている。
「当たり前じゃないですか。また来ますよ。
来るなって言われても、衛藤さんがここを卒業しても、来ます。この店がある限り、通い続けます。……頻繁には来れないかも、ですけど」
力が抜けて、結束していた5本の指が離れてゆく。握りしめていたせいで生温くなった小銭は、無回転のままユイちゃんの手のひらに、吸い込まれて行った。
お釣りを受け取ると「この店が大好きなんです!」、曇りのない笑顔でユイちゃんは言い切った。
立ち尽くす俺をよそに、笑顔を咲かせたユイちゃんは、たんぽぽの綿毛のように軽やかに風に乗って、飛び立って行った。
ドアの閉まる音が、不意に俺を動かす。
「ユイちゃんっ!!」
名前を呼びながら、俺は店の外に飛び出した。呼び止めなければ、ずっと遠くへ行ってしまう。本能がそう言っている。
ユイちゃんが振り向き、ユイちゃん以外の4人も振り返って俺を見る。
俺の必死に、ユイちゃんが反応する。
「ごめん、ちょっと先に行ってて。すぐに追いつくから」
「おけ。ゆっくりでいいよ、待ってるから。またねー! 衛藤さーん!」
梓ちゃんと円ちゃんは、手を振ってくれた。あとの2人は会釈をしてくれた。余裕のない俺は、「あっ、うん、またね!」とたどたどしい挨拶しか出来なかった。
呼び止めておいて、それ以上の言葉が出ないし、完全に準備不足だった。自分がどうしたいのか、それはちゃんとわかっているのに、どうすればそれを形にすることが出来るのか、わからなかった。でも、本能には逆らえない。
今言わないと、絶対に後悔する。
それだけは、確かだった。
「……ユイちゃん、ごめんね……俺……」
バイト中だし、ユイちゃんの友達を待たせているし、早く言わないと。これでさよならになっても、後悔しないように、全部を伝えないと。そう思えば思うほど、喉の奥で言葉は躓いた。
そんな俺をユイちゃんは、じっと黙って見つめていた。俺の言葉を待ってくれているんだと思ったけれど、そうではなかった。
ユイちゃんが見たことない表情を見せたから、そう思った。
「衛藤さん……前に、周りの『自分を見る目』を変えることが大切だって衛藤さん、言いましたよね。覚えてますか? 私その言葉のお陰で、ちょっとずつだけど、変われました。変わったっていうのは、本心を隠したり、自分を卑下にしないってことで……そうしたら、私が私であることを、みんなが認めてくれました。……言わないでおこうと思ってたんですけど、やっぱり、伝えたいなって……。衛藤さん、衛藤さんは私のヒーローです。めっちゃかっこいい、最高のヒーローです! これからも、衛藤さんはそのままでいて下さい。本当にお世話になりました! ありがとうございました!」
「いや、俺は……!」
俺は、ヒーローや勇者になりたかったわけじゃない。
「俺は……俺の方こそ、ありがとうユイちゃん! ありがとうって言わなきゃいけないのは、俺の方なんだよ! ごめんねも、言わなきゃいけないんだ! 俺、ユイちゃんが何かに悩んでることに気づいてたのに、何にもしてあげられなかった……」
「してくれましたよ」
何もしていない、と言おうとした。言おうとすると、ユイちゃんはそれを微笑みで遮る。
「衛藤さんが気にかけてくれていたことは、知ってました。声をかけなかったのは、私を尊重してくれたからですよね? 私、嬉しかったんです。……あの頃、苦しかったけど、ちゃんと私のことを気にかけてくれる人がいるって気づいたから、私、救われたんです。衛藤さんだけじゃない、たくさんの人に支えてもらっているんだって気づいて、私、一歩を踏み出せたんです」
「でも、俺は……」
「衛藤さん、『でも、俺は』なんて言わないで下さい。私のヒーローのことを、卑下しないでください。誰がなんと言おうと、私は救われたんです。誰がなんと言おうと、衛藤さんは私のヒーローなんです」
「……ユイちゃん……」
「優しさを、ありがとうございました。飛び出す勇気を、ありがとうございました。私はもう、大丈夫です。……だから……行きますっ!」
「……うん……うん"っ!」
最高の笑顔だった。今まで見た中で、一番の、最高の笑顔だった。
優しさを置いて、ユイちゃんが走って行く。
「ユイちゃんっ! ……" またねっ! " 」
小さな背中に、叫んだ。たくさんの想いの詰まった「またね」だった。
「はいっ、 " またっ! "」
そう言って、ユイちゃんの背中はどんどん小さく、見えなくなって行った。
遠くに行くんだな、そう思った。綿毛のように遠くまで飛んで、根を張るのだろう。そして、渡り鳥のように、戻って来るのだろう。
俺も救われた側の人間だから、今度は俺が誰かのために動かなきゃいけない。そうやって俺を救ってくれた人達に、恩返しをしなきゃいけない。
ユイちゃんもきっと、これからそう思いながら生きてゆくのではないだろうか。
「……赤にしよう」
何処にいても、ユイちゃんのヒーローであり続けようと思った。
俺が、そうありたいと思った。




