指先のその先は
好意のある相手に自分の気持ちを伝えることは、普通に生きていてもとても難しいことだ。普通に生きていても、だ。自分のことを普通からはみ出した人間だと思っていたアミには、生きているうちに自分という人間を告白するなんてこと、出来るはずがなかった。
人は、普通にこだわる。普通の基準なんてものは、曖昧で杜撰。誰もその本質を説明出来やしないのに、どうしてだかそうでなくてはならないという呪いに囚われる。私からすれば、みんなどこか少しおかしい人間なのに。少しおかしくて、それでいいのに……。
それに本当はみんな、気づいているのではないだろうか。気づいていて口を閉ざしているのではないだろうか。自分をさらけ出すことに、どうして人は躊躇してしまうのだろう。
私も一体何に、怯えているのだろう。
この人は、あの人は、どんな自分でも受け入れてくれる人なのかと、人は一生、互いに探り合いながら生きてゆく。そんな世界で生きていれば、人生の途中で疲れてしまうのも、無理はない。
もういいやと思い、終止符を打つ人がいることを知っている。もういいやと思いながらも、最後に理解してもらいたいと思う人がいることも、知ってしまった。
壊れたように何度もその名を、呼んでいる少女の姿を見て、理不尽なこの世界を呪いたくなった。
……何も伝わっていないんだよ、アミ。ちゃんとあなたの口から言ってあげなきゃ、伝わらないんだよ。
私よりも鯨井さんのことよくわかっているはずなのに、こんな形で想いを伝えるなんて……。鯨井さんなら、きっと、どんなアミでも受け入れてくれたはずなのに……。
気づかなくていいわけがない。気づいてほしいから、遺したのでしょう? あのメッセージはアミの苦しみをほんの一瞬だったとしても、消して、救ってくれていたのかもしれないけれど、本当はもっと、ずっと、ずっと……自分の人生を生きたかったのでしょう?
例え、鯨井さんにその意味が伝わらなかったとしてもいいって? 嘘つけ。あんたは……アミは、真っ新な愛情を求めていたじゃない。雨が降ると傘で顔を隠して、空を見上げていたじゃない。表情が見えなくても恋焦がれている姿は、見えてたよ。いつも羨ましそうに、遠くを見つめていたアミを、私は見つめていたの。
鯨井さんにわかってほしい。アミがいいと言っても、私は、鯨井さんにアミの想いを知ってほしい。
言ってしまいたい。アミがどうしても鯨井さんに伝えたかった言葉を。そこにちゃんと書かれていることを。これ以上ない、アミの本当を。
写真の中の、アミを見る。
「……馬鹿だよ……本当に……」
アミのその表情が、全てを物語っていた。あの雨上がりに見た、最初で最後の告白のその瞬間と同じだ。
「……鯨井さん、気づいてあげて……。アミは馬鹿だから、こんな形でしか伝えられなかったけど……鯨井さんなら、わかる時が来るから……」
「……ユイちゃんには、わかったの……?」
私は頷く。
「でも、私からじゃ、ダメなんだよ。私の口からじゃ意味がない……。鯨井さんがアミから受け取らなきゃ、アミが報われない……。私が教えるわけにはいかない」
激怒されることを、覚悟して言った。
目から頬へ、頬から顎先へ流れて溜まった涙がその重みに耐えきれなくなり、床に落ちた。気のせいか、廊下の方から物音がした気がした。人影は見当たらなく、やはり気のせいだった。
鯨井さんの顔を見るのは辛い。会話を続けることも、心苦しい。自分だけが知っていることに、後ろめたさを感じている。だが、前に進まなければ、私じゃなくなる。
「鯨井さんは……鯨井さんなら、絶対に気づくから!」
絶対って言葉は出来れば使いたくなかった。だって、絶対の根拠がないから。でも……。「絶対っ、絶対……鯨井さんなら……!」
震える指先をどうにか制御し、文字を追ってくれた鯨井さんのおかげで、私は気づくことが出来た。一人ではこんなに早く気づけなかっただろう。そう思うと、運命めいたものを感じる。
「気づける、かな? でも、私、なんかね……知りたいんだよ? 知りたいんだけど、知りたくないと思ってる自分がいるの……」
「……怖い?」
「怖いよっ! 怖いに決まってる! だって、だってさ! 知っちゃったら、それで終わりになっちゃうから! 愛海と私を繋ぐものが、なくなっちゃうんだから! ……探しているうちは安心するの。まだ、愛海が生きてるんじゃないかって、そんな気がするの……。そんなわけないってわかってるよ、わかってるんだけど……理屈じゃないの……」
ああ、それ、わかる。私も何度も夢に見た。アミが居る " 今 " を。もう居ないってわかってるけど、わかっているけど、夢に見てしまう。夢に見てしまうほど、アミは私達の中に存在している。
忘れられない人になってしまった。
「ああー、もう、嫌っ。うじうじ、ぐずぐずしてる自分が、もう本当に嫌っ」
そう言って、パチンと両頬を両手で挟む鯨井さんの顔は何かを決意したような、そんな揺らぎのない真剣な眼差しで写真を見つめていた。それを見て、私はもう大丈夫だと思った。
「ユイちゃん、私、絶対、ぜーったいっ、このメッセージの意味に気づいてみせる。絶対諦めない。この意味に気づけたら、今よりもっと近くに愛海を感じられるようになるんだって思うことにした!」
潤った目に、青い焔がゆらめいているように見えた。意志の強さを感じて、張り合うところは何もないのに、負けたくないと思った。
「だからねユイちゃん、私がわかった時には、その時には、答え合わせをしよう」
「……うんっ」
視線を交わし、二人して大きく頷いた。涙が落ちて、笑みがこぼれる。初めて鯨井さんが歯を見せて笑っていた。普段の鯨井さんからは想像出来ない、年相応の可愛らしい笑顔だった。私も鯨井さんに見せたことのない顔で、笑っていたかもしれない。
私が鯨井さんにしてあげられることは、これで終わりだろう。あとは鯨井さん次第。私はまた待つことに専念しようと思う。答え合わせの日を楽しみに待っていようと思う。その時もこんな風に笑い合えていたらいいなと思いながら、これからを生きてゆこうと思う。
ひとしきり笑い合って呼吸を整えると、そういえば自分達は夜の学校に居るんだということを思い出した。そろそろ見回りが来る頃かもしれない。別に見回り教師に遭遇しても問題はないが、泣き腫らした面を見られたいとは、誰だって思わない。
「帰ろうか」と鯨井さんに声を掛けると、彼女は何故か気まずそうに私の顔を見た。何か気に障るようなことをしてしまっただろうか……いいや、してないよな、うん、と私が脳内会議を終わらせた頃、また廊下の方から物音がした。
今度は気のせいではなく、誰かがいる気配を感じた。教室のドアが開く。開いたドアの隙間からひょこっと、三つの顔がのぞいた。
「……ゔっ! ゔぅぅぅぅぅー!」
状況が掴めていない状態で聞いたうめき声に、驚かないわけがない。そして、その声の主の顔を見てさらに驚いた。というより、引いた。
「うわあ"あぁぁぁあ!」
「ゔぅぅぅユイ"ィー!」
「ユイ"ー! ごめん"んんー」
上から順に涙でぐしゃぐしゃになった山本、梓、円の顔が並んでいたのだ。それもだんご三兄弟の如く、綺麗に縦一列に。
どうりで鯨井さんのあの顔。廊下に三人を待たせていたから、気まずそうだったのか。三人のあの顔は、私達の会話を全部聞いていた顔だな。
眉は申し訳なさそうに下がっているが、鯨井さんの口元は緩んでいる。二人顔を見合わせたら、耐えきれなくなって吹き出した。ここに居る全員の顔がぐしゃぐしゃで、おかしくて、おかしくて……。
アミを失ってから初めて、心の底から笑えた。
私はずっと、こんな夜を待っていた。




