アミ
夜の学校は不気味なものだと思っていた。部活動にも入っていない、無音とは無縁の昼間の学校しか知らない私からすれば、そう思うのも不思議ではなかった。
正門から眺めた夜の学校は、確かに雰囲気があった。何かが出そうな、何かが起こりそうな、普段感じることのない、怪しい雰囲気。校舎の中に入ってからも、それは変わらなかった。その印象をすっかり忘れさせてくれたのは、白石愛海の涙の跡だ。それは私の中に閃光にも似た火花を散らせ、目を覚まさせた。
幻覚は現実でもあった。
涙の跡は確かにあった。手紙もここにある。白石愛海からの言葉が、私だけの手紙が、ここにある。
高揚している。緊張もしている。恐怖も、不安だって膨れ上がって破裂しそうだ。だけど、やっぱり嬉しいと思う気持ちが強かった。どんな内容であろうと、私に宛てた言葉があることが嬉しかった。
読みたいと思う気持ちは止められない。ーー『あきらへ』、その続きを、早く。
『あきらへ
あきらがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世に存在しないということですね。(不謹慎だけど、これ一度言ってみたかったの!)
私がいなくなってしまったこと、悲しんでくれましたか? 怒っていますか? 泣いてくれましたか? 私の予想ではその全部だと思うけど、当たってる? 答え合わせ出来ないのが悔しいなあ。まあ、自業自得だけどね。
でも、一番知りたいのはそんなことじゃなくて、この手紙がちゃんとあきらの手に渡ったのかどうかということです。私の親も友達も『あきらちゃん』を知らないから、それだけが心配です。』
ーー大丈夫だよ。ちゃんと受け取ったよ。
彼女らしい書き出し方に安心する。指先で打ち送り合う個性のない書体と打って変わって、手書きの文章は、温かい。彼女の字は丸くも可愛らしくもなく、ハネの部分まで丁寧に書かれていて達筆だ。私の知っている白石愛海の字。
『でも、きっといつかあきらの元に届くと信じて、この手紙を最後まで書こうと思います。
とは言ったものの、手紙なんて久しぶりに書くから何を書けばいいのか、さっぱりなんだよね。伝えたいことはたくさんあるのに、文章にするのはめっちゃ難しい! だから支離滅裂なことが書いてあっても、そこは許してね。
それにしても、お別れの手紙を書こうと思うと、不思議と出会った時のことを一番に思い出しちゃうの何でだろう? あきらは覚えてる? あの日のこと。私はね、ちゃんと覚えてるよ。だってあきら、あの時すっごい嫌そうな顔で私のこと見てきたんだから! あれは酷かったと今でも思ってるからね!』
……言われなくても、私だって覚えてる。
クラスは違えど委員会は同じで、あの日は初めて委員会の集まりがあった。席は自由。私の隣に座ったのが白石だった。他にも空席はたくさんあったのに、白石は私の隣に座った。
一目でわかった。この子は私と真逆のタイプの人間だって。だから、隣に座られることがシンプルに嫌だった。それが表情にはっきりと表れていたと、自覚している。嫌なやつだったと、自分でも思う。
「えー……っと、ねえ! 名前、何てゆーの?」
それでも白石は話し掛けてきた。
「……ユイ」
「ユイ? ユイちゃんね。可愛い名前だね、ユイって」
「……ユイは苗字」
「ユイが苗字なの! え、めっちゃ可愛いっ! ねっ、名前は? ユイ何ちゃん?」
「由井……晶」
「由井晶……。苗字は可愛くて名前はかっこいいんだね。いーね! 素敵!」
これが天然なのか、わざとなのか、区別がつかなかった。この馴れ馴れしい人間に線を引くべきか、思いっきり突き放すべきか……。正しさよりも自分が安息できる方を選んだことも覚えている。
「晶って名前あんまり好きじゃないから、名前で呼ばないで」
かっこいい名前は、私にとって褒め言葉ではない。この子の素敵と私の素敵は、違う。
「えぇ? ……じゃあ何て呼べばいいの?」
「ユイでいい。みんなそう呼ぶから」
チョークの粉が残った汚い黒板の前に、進行役の生徒が立つ。もう隣に座った見知らぬ人間と会話する必要がなくなった。たかが、委員会。この時間さえ乗り切れば、それでいい。接点など、要らないのだ。
進行役に注目する。進行役はこれからの活動内容を事細かに説明した。その間、雑談する者は当然ながらいない。事前に配られていたプリントに目を通すと、ずらりと名前が並んでいた。自分の名前もそこにあった。
「ねえ、ユイ」
隣から名前を呼ばれ、肘をつつかれる。見ると、楽しそうな顔が私を見ていた。ぶっきらぼうに「何?」と返せば、彼女はプリントにあるひとつの名前を指差した。
「私の名前ね」
嬉しそうに『白石愛海』の文字を見せる彼女に、「そう」とだけ返す。
「私の名前、何て読むかわかる?」
「……シライシ……マナミ? ……アミ?」
愛と海。一般的に多い読み方なら、マナミ。アミとも読める。こればかりは本人に聞かなければ、正解がわからない。
白石は笑みを深くする。瞳がビー玉みたいにキラキラ輝いていた。
「そっか、アミとも読むね! 初めて言われたかも、アミって。……うん、いいね、アミ! 可愛い。気に入った」
「……ってことは、アミじゃないんだね。マナミが正解なの?」
つい会話を続けてしまうのは、どちらが正しいのかを知りたかったから。ただそれだけだった。
「うん、マナミが正解。白石愛海です。よろしくね、ユイ」
これが全ての始まりだった。
この日から委員会の集まりがある度に、白石愛海は私に絡んでくるようになった。隣に座るのは当たり前で、よく通る声は臆さずユイと呼んだ。くだらない好奇心も、無益な会話にも付き合う羽目になった。
窮屈に感じていた彼女の隣。無理矢理こじ開けてその間を、時間をかけてピッタリとくっつける。いつしか苦手意識が薄れ、白石愛海を受け入れていた。受け入れるということは、私の見方が変わったということだ。白石愛海は短時間で強烈な印象を残していった。私はそれを諦めて認めた。認めてしまうと、楽になった。
ただ委員会が同じだっただけ、ただ隣に座っただけ、ただ、出会っただけ。その全てが、偶然で必然だったと今はそう思いたい。
ーーあなたが自分の名前を好きになるまで、人前では絶対に晶って呼ばない。
ーー二人の時だけ名前を呼ぶからね。私のことは、晶が呼び方を決めて。
「……そうだなあ……じゃあ私はーー " アミ " って呼ぶ」
「あははっ! いいねえ、アミ! 自己紹介した時のこと思い出す。うん……すごくいい。……晶だけが私のことをアミって呼んで、私だけがあなたのことを晶って呼ぶ……うん、めっちゃいい! ーー秘密の友達だね」
声が、顔が、リフレインする。
何度も、何度も何度も晶と呼んでくれた。
私と白石愛海はただのクラスメイトだけど、ただのクラスメイトという言葉ひとつで片付けられる関係ではない。ずっと誰にも言わなかったのは、大切にしたかったからだ。私とアミは友情とかそんな言葉に縛られない関係でいられたから、誰にも言いたくなかった。気づかれたくなかった。大切に……秘密にしておきたかった。
初めて名前を呼ぶことを許せた相手を、私は愛海ではなく『アミ』と呼んだ。
「……アミ……」
アミに晶と呼ばれることは嫌じゃなかったよ。嫌じゃないよ……好きだよ……大好きだったよ……。
受け取られることなく、声が消えていく。
届けたいのに、何処にも届かない。
晶と呼ぶ声を、私は今も探している。
こんな夜を独り、どう越えればいいのだろう。




