涙の轍
「今日は本当にありがとうございました。お邪魔しました」
「また愛海に会いに来てちょうだいね、晶ちゃん」
「はい……必ず、また」
挨拶をして白石家を出ると、外は薄暗くなっていた。雲が帯のようにたなびいて、空を流れ泳いでいる。何故だかわからないけど虚しいと思うこの空色を、最近よく目にする気がする。
晴れない気持ちのせいで、空も晴れない。これが罪悪感の色だと思う。
泣ける立場ではないという罪悪感は、今も私の涙腺を緩ませまいとストッパーを掛けている。どう折り合いをつければ私は私が泣くことを許してやれるのか、結局のところその判断基準も私自身で決めるしかないとわかっているからこそ、余計に虚しいのだ。
罪悪感は、繋がりが増えるほどにその感情を向ける対象者も増えていくものだと知った。同時に複数人が対象となるのは、 " しんどい " この一言に尽きる。
とてもこんな気持ちのまま家に帰る気にはなれなかった。家の方向に背を向け、自然と学校に足が向かう。荷物は全て学校に置いて来ているから、取りに行かなければならない。そうやって独りになる時間が欲しい私は、言い訳を並べた。
行きは慌ただしく走ってきたが、帰りはゆっくりと歩いた。家に帰りが遅くなることを連絡しなければと思いながらも、スマホの電源を入れようとはしなかった。電源を入れてしまえば、誰かと繋がることになる。そうすると、甘えてしまいそうになるから……。だから、ただ夜に向かって歩いた。
学校に近づくにつれて、同じ制服に身を包んだ人達とすれ違う。知らない顔ばかりだが、万が一にも知り合いには会いたくないと、顔を隠すようにうつむきながら道の端を歩いて、夜に溶け込み、存在感を消した。厚くなった雲に月と星が隠れて雨が降るんだな、と思った。
案の定降り始めた雨は、コンクリートの色をまだら模様に変えた。勢いのないポツポツ雨にざわめき出す街を、曇った目が映す。手紙が濡れてしまわないように両腕でそれを守りながら歩いた。ショーウィンドウに映る自分は、寒くもないのに寒さに凍えているようだった。
身体を小さく丸めた私は、雨の中を走る人達の目に、映らない。通り過ぎて行く人達を、いちいち目で追うこともなかった。
学校に着くまでポツポツ雨は続いた。制服は水分を含んで重い。職員室と音楽室から明かりが漏れている。ほとんどの部活動は終わった頃だと思うが、まだ学校に残っている生徒もいるだろう。けれど耳に届くのは、雨音だけだ。
毛先から水滴が落ち、廊下が濡れた。
足元を見ると次に踏み出す一歩先に、水滴が落ちていた。
あれは私が落としたものではない。暗くて見えづらいが、点々と廊下に続く水滴が見える。
どうしてだろう。どうしてだか、咄嗟にそれがただの水滴ではないような気がした。
「……白石?」
何も考えずに口から出たのは、この世にもう存在しない同級生の名だった。もちろん、返事はない。なのに、それは彼女が生きている時に落とした物だと思った。
水滴なんかじゃない。……白石愛海の涙だ。
そんなことあるはずがないのに、私には、はっきりと涙の跡が見える。
涙の跡を追って歩く。これは断ち切れない想いから見た幻覚なのかもしれないと目の前の光景を疑いもしたが、消えない繋がりがあると白石のお母さんから言われたことで、幻覚ではないと思えた。私の勝手な願望ではない。これは私達の繋がりを証明する大切な証拠だ。
涙の跡が見えても、彼女の姿は見えない。隣にも、前にも、後ろにも彼女は居ない。静かな校舎に響くのは、私の足音だけだ。
消えない涙の跡は、私だけに向けたメッセージ。きっと……絶対、そうだと思った。そうでしょう? そうだと言って。そうでないのであれば、いい加減、あなたのことを忘れさせて……。
暗くて、長くて、冷たい廊下。ここを白石愛海は一人涙を流しながら歩いていたのかどうか、私が知る由もない。ただ、その姿が想像出来てしまうのだ。
涙の理由に、私は気づいた。
白石愛海が自殺した理由に、本当は少し前から気づいていた。鯨井真白という存在が浮かび上がってきた時に、もしかしたら、と思った。それが確信に変わったのは、白石が鯨井さんに宛てて書いたメッセージの意味に気づいたからだった。
白石愛海が自殺した理由は、鯨井さんに残した最期のメッセージ中にある。
ーー真白は一生気づかない。それでもいいから。
メッセージの意味に気づいた時、白石がこの一文をどんな想いで選んだのかと考えた。その結果、何もしてやれなかった自分を責めるしかなかった。
あの頃、話なら幾らでも聞いていたと思う。けれど、私は白石愛海に寄り添ってあげることはしなかった。彼女がそれを望んでいるとは思えなかったし、私も、私がどうこう出来る問題ではないと思っていたからだ。
どうしてあの時、こうしていれば、ああしていればーーたらればが尽きない。
私だけが白石愛海を綺麗な思い出に出来そうもない。涙の理由がわかっても、この目に映る意味がわからないから。
涙の跡は、まるで初めから私がここに来ることをわかっていたみたいに、私達が共に過ごした教室の前まで続いていた。ここまで髪から落ちる水滴が白石の涙の跡に重なることは、ただの一度もなかった。
教室のドアに手を掛ける。深呼吸して、ドアを開けた。昼間とは違う暗い教室。誰も居ない教室。月明かりも差さない教室で、白石愛海の席だけが青白く光っていた。涙は、黒板の前でなくなっている。
一直線に白石愛海の席まで行き、机の天板に手を乗せた。埃をかぶっていなかった。
自分の席を確認すると、机の上に置いていた荷物が見当たらなかったが、そのことに驚くことはなかった。大方、円と梓が家まで届けてくれたのだろう。
迷ったが、私は白石愛海の席に座った。
教室で使われている机と椅子は全て同じものなのに、座り心地は私のものとは違った。見渡せる範囲も後ろの方の席とは違い、狭い。彼女がいつも見ていた景色は殺風景で感動も何もないけれど、少しの間何も考えず、心穏やかにいられた。
いつの間にか雨が止み、雲の隙間から月が姿を見せている。月明かりが教室に届き、この席だけを強く照らしてくれているから、今、ここで読む。そう決めた。
雨に濡れないように守っていた手紙を机の上に置いて、綺麗に糊付けされた封を鯨井さんと同じように丁寧に剥がす。
空色の洋封筒の中に、空色の便箋が入っていた。
二つ折りの便箋を広げると、一番上の『あきらへ』という文字がまず目に入った。封筒の宛名は『あきらちゃんへ』だったのに。手紙の書き出しは『あきらへ』。
宛名がちゃん付けだったのは、山本と区別がつくようにと白石なりに配慮した結果だったのだろう。何せ、彼女は一度もちゃん付けで私の名前を呼んだことがないのだから。
「ふふっ…」
慣れないちゃん付けに苦戦し、何度も宛名を書き直す彼女の姿を想像してしまって、それが何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。
気を取り直して便箋に視線を戻すが、誰かの気配を感じ、教室を見渡した。私以外に誰も居なかった。黒板は、真っ暗だった。
手紙を読み終わるまで、誰もここに来ませんようにと私は願った。




